苦悶の欄

第四章

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この手紙が受取人の若い女性をいささかぎょっとさせたことは言うまでもな い。その日はロンドンのあまたの名所も、ほとんど彼女の興味をひかなかった。

実際、あまりにもつまらないので、汗だくの父親のほうは最愛のテキサスをま ぼろしに見はじめるほどであった。そして一度だけ、期待をこめて、帰国を早 めるのはどうかと打診したのだが、その提案に対する冷ややかな態度は明らか にそれが間違った期待であったことを示していた。彼はため息をつき、慰めを 求めてバーにむかった。 その晩、テキサスから来た二人はヒズ・マジェスティーズ劇場へ出かけた。 バーナード・ショーの新作がかかっていたのである。が、才気あふれるアイル ランド人の作者も、うわのそらで台詞を聞いている一人の若くて美しいアメリ カ人女性にはいらいらしただろう。そのアメリカ人は次の日の朝を熱心に待ち 望みながら真夜中に床についた。

期待は裏切られなかった。なんの感情もあらわさないイギリス人の女中が、 土曜日の朝早く、手紙を手にして枕もとに現れた。それを彼女は鼻を上にむけ て手渡した。お手伝いはしますが、感心しませんね、とでも言うように。若い 女は急いで封を切った。

親愛なるテキサスのお嬢さん 午後遅くこの手紙を書いています。陽があたる庭の芝生に長くて黒い影がの びています。そして世界があまりにも明るくたんたんとしているため、私が過 ごしたあの悲劇の一夜が現実にに起きたことなのか、自分でもわからなくなる くらいです。

新聞を見ると、すべてが夢ではなかったかと思えてきます。一行どころか一 語も触れられていないのですから。アメリカのことを考えてください。むこう でこんなことが起きたなら、今ごろ新聞記者がこのアパートじゅうに群れてい たでしょう。それを思えば、なおさら驚かざるを得ません。しかし私はイギリ スの新聞というものを知っています。あの偉大なジョー・チェンバレンが先日、 夜の十時に亡くなりましたが、それを報じた新聞は、ようやく次の日のお昼に 出たのでした。特種だ! と大声で叫んで。そりゃたしかに特種なんですけど ……。国が違えば流儀も違うと言うわけでしょう。 ブレイ警部が事件をジャーナリストたちから隠すのは、恐らく難しいことで はなかったはずです。そういうわけでイギリスの偉大にしてお粗末な新聞は、 アデルフィ・テラスの大事件をなにも知らずに売られているのです。本物のニ ュースに飢えた新聞は、地平線に見える巨大な戦雲についてそれとなく報じは じめました。よろめくオーストリアがちびのセルビアに宣戦布告し、皇帝が今 日ベルリンへ急遽帰還するという、彼になしうる最高の劇的展開があったもの ですから、だれもかれも全ヨーロッパがまもなく血の海になると思っているの です。炎熱の昼と、寝つかれぬ夜が生んだ悪夢です! が、あなたがお聞きになりたいのは、きっとアデルフィ・テラスの事件につ いてでしょう。謎をさらに計り知れぬほど深める悲劇の続編が起きたのです。 しかもそれに気がついたのは私だけ。しかし最初から話をしましょう。

私は夜明けにあなたへの手紙を投函して帰ってきました。一夜の緊張から、 くたくたになっていました。私はベッドに横たわりましたが、寝ることができ ません。自分の置かれたひどく具合の悪い立場がますます気になってくるので す。ブレイ警部が私を見る眼も、私がこのアパートに下宿するに至った経緯を 聞いたときの声も、私は気に入りませんでした。気の毒な大尉を殺した真犯人 がつかまるまで、安心はできないと思いました。そこで私はこの事件の数少な い手がかり……シナギク、コガネムシのネクタイピン、ホンブルグ帽……をた よりに謎を解こうとしはじめたのです。 その時でした。ブレイが取るに足らずと、何気なくごみ箱に捨てた四部のデ ーリー・メールを思い出したのは。私は新聞を調べる警部の肩越しに、それが 私たちの大好きな部分「苦悶の欄」を上にして折られてあるのを見たのです。 たまたま私の机には先週のデーリー・メールがしまってありました。あなたに はその理由がお分かりでしょう。

私は立ちあがって、新聞を見つけ、読みはじめました。先ほどほのめかした 驚くべき発見をしたのはその時です。 それに気がついてしばらくは、驚きのあまり呆然として、なにをすべきかも すぐには頭に浮かんでこないありさまでした。さんざん考えたあげく、ブレイ が午前中に戻ってくるのを待ち、デーリー・メールを無視したのは誤りだ、と 指摘してやることしました。 ブレイは八時ごろやって来て、その数分後、別の男が階段を上ってくるのが 聞こえました。私はその時ひげをそっていたのですが、手早くそれを終えると、 バスローブを羽織って大尉の部屋へ急ぎました。弟さんが夜中のうちに不運な 男の死体を運び出させていました。ブレイと、ほとんど同時にやってきた見知 らぬ男のほかには、眠そうな目をした巡査しかいませんでした。 ブレイの挨拶はあきらかに彼が不機嫌であることを示していました。しかし 見知らぬ男……背の高い日焼けした男でしたが……はとても丁寧に自己紹介を しました。彼は故人の親友で、ヒューズ大佐であると言いました。言葉になら ない驚きと悲しみを感じつつも、自分にできることがなにかありはしないかと 訪ねてきたのだそうです。 「警部さん」と私は言いました。「昨日の晩、この部屋でデーリー・メール を四部お手になさいましたね。なんの手がかりにもならないとごみ箱に捨てて おしまいでしたが、驚くべき事実を説明したいと思いますので、もう一度手に 取っていただけないでしょうか」ごみ箱の上に身をかがめるなど沽券にかかわ ると、この尊大なお役人は巡査にむかってあごをしゃくりました。巡査が新聞 を持ってくると、私は一つを選び机に広げました。「七月二十七日の分です」 と私は言いました。

私は苦悶の欄の中ほどを指差しました。お嬢さんも新聞を取っておいででし たらご自分で確かめてください。こんなことが書いてあります。

「ラングーン。カンタベリーの庭はシナギクが真っ盛りだ。とても美しい。

特に白いやつは」

ブレイはうなり、小さな目を見開きました。私は次の日二十八日の新聞を取 り上げました。

「ラングーン。我々はやむを得ず父のネクタイピンを売らねばならなかった。

父がカイロから持ちかえったコガネムシの形をしたエメラルドのやつだ」

ブレイはわたしの説明にすっかり引きこまれていました。彼は私の方に重く のしかかってきて、鼻息も荒いのです。大いに力を得て、私は二十九日の新聞 を彼の目の前に広げました。 「ラングーン。ホンブルグ帽は川の中に吹き飛ばされ、二度と見つからない」

「そして最後に」と私は警部に言いました。「七月三十日の最後のメッセー ジです。フレイザー=フリーアが殺される十二時間ほど前に、通りで売られて いました。ご覧ください」

「ラングーン。今晩十時。リージェント通り。……Y.O.G.」

ブレイは黙っていました。 「警部もご存知でしょうが、フレイザー=フリーア大尉は過去二年間ラング ーンに駐在していたのです」 それでも彼は黙ったままでした。ただ私が大嫌いになりつつある、あの狐の ような小さい目で私をみつめるだけでした。とうとう彼は険しい声で言いまし た。 「どうやってこのメッセージを見つけたのだ」と彼は詰問するのです。「昨 日の晩、私が出て行った後、この部屋に入ったわけじゃないだろうな?」彼は 怒って巡査のほうを振りむきました。「命令したはずだ……」 「違いますよ」私は口をはさみました。「私はこの部屋に入りませんでした。 たまたま私の部屋にはデーリー・メールが整理されてあったのです。で、まっ たく偶然に……」 私は自分がへまをしたことに気がつきました。これらのメッセージの発見談 はあまりにもうまくできすぎています。またもや私のほうに疑いを招き寄せて しまいました。 「いや、ありがとう」とブレイ。「これは覚えておくよ」 「領事館の私の友人には連絡なさいましたか」と私は聞きました。 「確認した。以上だ。お引取り願おうか」 私は出て行きました。

部屋に戻って二十分ほどすると、ノックの音がしました。そしてヒューズ大 佐が入ってきたのです。彼は四十代前半とおぼしきにこやかな人物で、イギリ ス以外のどこかで日に焼けてきたのでしょう。こめかみのあたりには白髪があ りました。 「いやはや、なんともひどい事件ですな」と彼は前口上抜きで話しはじめま した。 「まったくです」と私は答えました。「どうぞお座りください」 「ありがとう」彼は座るとためらうことなく私の目を覗きこみ、「警察官と いうのは」と意味ありげに付け加えました。「非常に疑い深い連中でね。理由 もないのに疑いをかけることがしばしばあります。こんな事件に巻きこまれて、 ご同情申し上げますよ。というのも、あなたは正直な方とお見受けいたしまし たから。失礼ですが、味方が必要なのであれば、わたしが力になりましょう」 私は胸を打たれました。そしてできるかぎり丁寧に感謝しました。彼の口調 はとても同情的で親切で、しかもとりわけ誠実だったものですから、私は思わ ず彼にすべてを話してしまいました。アーチーと紹介状のこと、庭に魅了され たこと、アーチーという従兄弟など聞いたこともないという、大尉によってあ かされた驚くべき事実、それに引きつづく私の面白くない立場。彼は椅子にも たれて目を閉じました。 「思うに、封をしていない紹介状を持っていれば、誰でも中を開けてどんな ふうに自分のことを褒めちぎっているのか見たくなる。それが人情と言うもの でしょう。私もちょいちょいそんなことをしました。ひとつずうずうしくお聞 きしたいのですが……」 「いえ、そのとおりです」と私。「封をしてなかったので、私は中味を読ん でしまいました。紹介状にしてはちょっと長いなという印象でした。褒め言葉 もたくさんありました。エンライトとの短い付き合いを考えれば私を高く買い すぎているような感じでした。それから彼は自分がインターラーケンにどのぐ らいいたかとか、八月一日頃にはロンドンに行く予定だとかも書いていました」 「八月一日か」と大佐は繰り返しました。「明日ですね。さて、ご面倒でな ければ、昨晩いったいなにがあったのか、話していただけませんか?」 私はふたたびあの悲劇の夜の出来事をざっと振り返りました。口論、廊下で 会った大男、そして彼がまれにしか使われない門を乗り越えて逃走したこと。 「ねえ、君」ヒューズ大佐は帰ろうと立ち上がりながら言いました。「この 悲劇の糸は遠くまで伸びています。あるものはインドへ、あるものは、名前は 言えないが、別の国へとね。正直に言えば、私はこの事件に、大尉の友人とし て以上の関心を持っています。しかし、しばらくのあいだ、このことは私たち だけの秘密にしておいてください。警察は善意ではあるけど、ときどき馬鹿な 間違いをします。あなたはたしか、あの妙な伝言の載っているデーリー・メー ルをお持ちだと言いましたな」 「この机の中です」私は新聞を取り出して彼に渡しました。 「よろしければ、持っていきたいのですが」と彼は言いました。「私があな たを訪ねたことは、もちろん口外してはいけません。また会いましょう。さよ うなら」 そして彼は去って行きました。ラングーンへの奇怪な暗号を載せた新聞とと もに。

彼の訪問はなぜかすばらしく私を元気づけました。昨日の晩の七時以来、私 ははじめて、再び自由に息をしはじめたのです。 さて、謎が好きなお嬢さん、以上が一九一四年七月末日の午後における事件 の模様です。

私は今晩この手紙を送ります。これは三番目の手紙で、最初の手紙が運んだ 夢よりも三倍も大きな夢を運んで行きます。というのはその夢は月が庭を照ら す夜だけでなく、明るい日の光の中でも育つからです。 ああ、私の心は今とても朗らかです。そういえば昨日の晩、シンプソンズで 食事をして以来、ウオルタースが震える手でくれた一杯のコーヒーをのぞいて なにも食べていません。これから食事に行かなければ。まずグレープフルーツ を食べるつもりです。私は急にグレープフルーツが好きになってしまったんで す。 こんな言い方は月並みですが……私たちは共通の趣味が多いですね! もとイチゴ男

「苦悶の欄」の文通相手から来た三番目の手紙は、二番目の手紙がカールト ン・ホテルの若くて美しい女性の心に与えた興奮と緊張をさらに高めた。それ を受け取った土曜日の朝、長いこと彼女は部屋の中でアデルフィ・テラスの謎 を解こうと頭をひねった。英国インド陸軍フレイザー=フリーア大尉が心臓を ナイフで刺され死んだことを初めて聞いたとき、その知らせは古い親友を失っ たときのような衝撃を彼女に与えた。彼女は熱烈に殺人犯人の逮捕を望み、白 いシナギク、コガネムシのネクタイピン、そしてホンブルグ帽から推理しうる ことを執拗に探った。

彼女が犯人逮捕をこのように熱心に願ったのは恐らく、今だに名前も知らな い、もちろん話したこともない、この快活な若い友達が事件に巻きこまれ危険 にさらされていたからだろう。ジェフリー・ウエストについて知りえたこと、 つまりレストランでの何気ない一瞥と、そしてなによりも手紙を通して、彼女 は彼をこの上なく好きになりつつあった。 そこへ例の帽子とネクタイピンとシナギクが、そもそも彼らの出会いを作っ たデーリー・メールのあの欄と関係していることを告げる三番目の手紙が来た。 たまたまその週の最初の四日分の新聞が彼女の手元にもあった。彼女は自分の 居室に行って、新聞を引っ張り出し、はっと息を呑んだ。月曜日の新聞の私事 広告欄からじろりと彼女を見上げたのは、カンタベリーの庭のシナギクに関す るラングーンへの暗号ではないか。他の三つの新聞にもイチゴ男が引用したの とおなじメッセージが載っていた。彼女は座ったまま、一瞬、考えこんだ。い や、実際は、朝食を一緒に食べに行こうと一階のロビーで一時間も待たされ、 腹を減らしてかんかんになった父親のノックの音が聞こえるまで座っていたの である。 「なにをしてる!

行こう!」部屋に入ってきた父親の声が響き渡った。「 午前中ずっとここに座っている気か。お前の腹は空いてないかもしれないが、 わしはぺこぺこなんだ」 彼女は即座に詫びを言い、いっしょに下へ降りる準備をした。その日の行動 計画を立てながら、彼女はアデルフィ・テラスのことは一切考えまいと固く決 心した。彼女がどの程度それに成功したかは、その晩の夕食前の父親の言葉を 聞けば分かるかもしれない。 「マリアン、口がきけなくなったか?

新しく選任された役人みたいに打ち 解けないな。我々の遠征をもう少し活気づけてくれないなら、荷物をまとめて 帰国するぞ」 彼女はにっこり笑って父親の肩をたたき、これから気をつけることを約束し た。しかし父親は憂鬱そうであった。 「いずれにせよ、帰るべきだと思うんだがね」と彼はつづけた。「わしの見 るところ、この戦争は燎原の火さながらに広がるだろう。皇帝は昨日ベルリン に戻った。動員令に署名することは確実だ。この一週間というもの、ベルリン の証券取引所ではカナディアン・パシフィックの株が下がりつづけておる。こ れはイギリスの参戦が予想されるということだ」 彼は陰鬱に未来をみつめた。アメリカの政治家にしてはヨーロッパの政局に 対し並外れた理解を持っているように見えるかもしれないが、なんのことはな い、彼は先ほど、カールトン・ホテルの靴磨きと話をしていたのである。 「うむ」彼は急に決心して言った。「わしは月曜日の朝一番に汽船会社の事 務所に行ってくる」