第三章
テキサスの政治家の娘は、興味津々の笑みを浮かべて、木曜日の朝、カール トン・ホテルの自室でその手紙を読んだ。イチゴ狂からの手紙が彼女の心をと らえ、ひきつけたことは確かだった。その日一日、無理やり父親をひっぱって 美術館めぐりをしながら、彼女は次の日の朝をわくわくしながら熱心に待ち望 んでいる自分に気がついた。 しかし翌朝、この奇妙な文通を取り次いでいる女中のセイディ・へイトは一 通も手紙を持ってこなかった。テキサスの娘は少々がっかりした。昼になると 彼女はお昼ご飯を食べにホテルに戻ろうと言い張った。父親が言うとおり、そ のとき彼らはカールトン・ホテルからずいぶん離れたところにいたのだけれど。
彼女の大移動は報われた。第二の手紙が待っていたのだ。読みながら彼女は息 を呑んだ。
親愛なるカールトン・ホテルのお嬢さま。
私は午前三時にこの手紙を書いています。庭のむこうのロンドンは墓場のよ うに静かです。こんな遅くに手紙に取り掛かるというのは、昨日ずっとあなた のことを考えていなかったということでも、昨夜の七時に机にむかって手紙を 書こうとしなかったということでもないのです。信じてください。私を妨害で きるとしたら、それはなにかとてつもなく驚くべき、ぞっとするような事件く らいなものです。 そして、そのとてつもなく驚くべき、ぞっとする事件が起きたのでした。 このニュースを強烈な恐ろしい一文で一気にあなたにぶつけてみたい。書こ うと思えば書けるのですよ。でもそれはあとのためにとっておきましょう。ロ ンドンの霧のように深い謎につつまれた悲劇がアデルフィ・テラスのこの静か な、小さなアパートに降りかかりました。地下の部屋ではウオルタースの家族 が打ちひしがれ、まんじりともせず、黙って座っています。部屋の外の暗い階 段からは時折、不吉な使命を帯びた男たちの足音が聞こえてきます…… いや、やはりいちばんはじめから話さなければなりません。
昨日の晩はストランド街のシンプソンズで、早めの夕ご飯を食べました。あ まりに早かったので、私のほかに客はほとんど誰もいませんでした。あなたへ の手紙で頭がいっぱいでしたので、急いで食事を済ませ、部屋に帰りました。
鍵を取り出そうとアパート前の通りに立ち、ポケットを探っていたとき、国会 議事堂の大時計が七時を打ったことをはっきりと覚えています。大きな鐘の音 が平和な大通りに、声高の、親しげな挨拶のように響き渡りました。
書斎にたどり着くと、わたしはさっそく机にむかって手紙を書きはじめまし た。頭の上ではフレイザー=フリーア大尉の動き回る音が聞こえました。夕食 に出かけるための身支度でも整えているのでしょう。一階下の粗野なアメリカ 人が六時というとんでもない時間に夕ご飯を食べたと知ったら、どんなにショ ックを受けるだろうかとニヤニヤしながら考えていたのですが、そのとき、突 然、上の部屋から客らしい人物の荒々しく断固とした声が聞こえたのです。そ れにつづく大尉の答は落ち着いていて、もっと毅然としていました。この会話 はしばらくつづき、ますます興奮したものになっていきました。なにを言って いるのか、一語も聞き取れませんでしたが、私は口論がかわされているのじゃ ないかと不安な気持ちになりました。そしてあなたへの手紙を書くという、私 にとって最も大切な仕事を、こんなふうに邪魔されることに不愉快を感じたこ とを覚えています。
五分ほど議論がつづいたあげく、今度は上から争うような、どすんどすんと いう重い音が聞こえてきました。私は大学時代、上の階の血気盛んな連中が若 げの至りで取っ組み合いをする音を聞きましたが、それを思い出しました。し かしこれはもっと凄みと緊張感があって、わたしは胸騒ぎがしました。しかし 私に関係したことではないのだからと考え直し、気持ちを手紙に集中しようと したのです。
争いはこの古アパートを土台から揺るがすような、とてつもなく重いどさっ という音とともに終わりました。私は座ったまま、なぜかとても憂鬱な気持ち で聞き耳を立てていました。なにも聞こえませんでした。外はたそがれが長く つづき、完全な闇にはなってはいません。廊下に出ると、倹約家のウオルター スはまだ明かりを灯していませんでした。誰かが階段を忍び足で降りてきまし た。しかしきしむ音でわかるのです。私は背後のドアの隙間から漏れる一条の 光の中を、彼が通りすぎるのを待ちました。その時です、運命がそよ風となっ て窓から介入してきたのは。ドアはばたんとしまり、大男は暗闇の中、私の脇 を一目散に駈け抜けて階段を下りました。彼が大男だと分かったのは、通路が 狭く、彼が横を通るとき、私を押しのけなければならなかったからです。彼が 声をひそめて毒づくのが聞こえました。
私は急いで廊下の突き当たりの、通りに面した窓から外を見ました。しかし 正面玄関は開きません。誰も出てこなかったのです。一瞬わけがわかりません でしたが、私はすぐ部屋に戻り、バルコニーへ飛び出しました。薄暗い男の影 が裏庭を……私が何度も話したあの庭を……走って行くのが見えました。男は 門を開けようともせず、よじ登って越え、路地に消えました。
私はちょっとのあいだ、考えこみました。確かになんだか変なことが起きた。 しかしここで私がしゃしゃり出ていくのはどんなものだろう。紹介状を差し出 したときのフレイザー=フリーア大尉の冷たい視線は忘れられません。彼があ の陰気な書斎に、彫像のような愛想笑いを浮かべて、身じろぎもせず立ってい る姿が目に浮かびました。今、ノコノコ入って行っても、こころよく迎えてく れるだろうか。
結局、私は、どう思われようとかまうものかと、ウオルタースを探しに下へ 行くことにしました。彼は奥さんと地下室で夕食を食べていました。私はなに が起きたかを話しました。彼は大尉に面会に来た人など通さなかったと言い、 私の心配に対してイギリス流の冷ややかな態度を取ろうとするのでした。しか し私は彼を説きつけて大尉の部屋まで一緒に行ってもらったのです。
大尉の部屋のドアは開いていました。イギリスでは侵入者は厳しく処罰され ることを思い出し、私はウオルタースを先に行かせました。古いシャンデリア のガスの火が弱々しく明滅する部屋の中に、彼は足を踏み入れました。 「大変ですよ、旦那様!」ウオルタースはこんな場面でもまだ召使いの言葉 づかいを忘れないのです。 さて、とうとうあの一文を書くときです。英国インド陸軍フレイザー=フリ ーア大尉はその端正なイギリス的な顔に、ほとんどあざ笑うような笑みを浮か べて、床の上で死んでいたのです!
今、私は大尉が死んでいた部屋とそっくりの自分の部屋で、静かな夜明けを 迎えているのですが、あの時の恐怖は今も強烈に残っています。彼はちょうど 心臓の上から刺殺されたのでした。最初に私の頭に浮かんだのは、机の上にあ った例の奇妙なインドのナイフでした。私は急いで振り返って探そうとしまし たが、ナイフはなくなっていました。そして机を見たとき、この埃っぽい部屋 の中には指紋が、たくさんの指紋があるに違いないことに気がついたのです。
部屋の中は、あの闘争の音のわりには、乱れていませんでした。一つ二つお かしなものが目にとまりました。机の上にはボンド・ストリートの花屋から送 られて来た箱が置いてありました。ふたは開けられていて、中に白いシナギク がたくさん入っているのが見えました。箱の横にはエメラルドでできたコガネ ムシ形のネクタイピンがありました。さらに大尉の死体からさほど離れていな いところには、それが作られているドイツの都市の名をとった、ホンブルグ帽 が転がっていました。
私はこんな場合は現場を乱さないことが大切だということを思い出し、ウオ ルタースのほうを振りむきました。彼の顔色は、今、私が字を書いている、こ の紙のようでした。膝が震えていました。 「ウオルタース。警察が来るまで、ここはそのままにしておくんだ。スコッ トランドヤードに連絡するからついておいで」 「わかりました、旦那様」とウオルタース。
私たちは一階の玄関の電話口へ行き、私がスコットランドヤードに電話をか けました。警部をすぐむかわせると言われ、私は部屋に戻って待機することに しました。
待っているときの私の気持ちはご想像いただけるでしょうね。この謎が解け るまでのあいだ、危険はないでしょうが、かなり厄介な面倒に巻きこまれるで あろうことが予想されました。ウオルタースは私が最初、大尉の知り合いだと いって、ここに来たことを覚えているでしょう。私の感じでは、彼は大尉がイ ンドから帰ってくるや、私たちが親密な間柄じゃないことに気がついたに違い ないのです。彼は私がフレイザー=フリーアとおなじところに下宿することを 強く望んだと、必ず証言するでしょう。さらにアーチーからの紹介状の一件が あります。あれは秘密にしておかなければならない、私はそう確信しました。
最後に、大尉の死の前の喧嘩や、庭を通って逃げた男のことで、私の話を裏付 けてくれる人は一人もいないのです。 えらいことになった、と私は思いました。どんなに愚かな警察官でも、私を 疑惑の目で見ない者はいないでしょう!
約二十分後、三人の男がスコットランドヤードからやってきました。そのこ ろには私は落ち着きを失ってひどく神経質になっていました。ウオルタースが 彼らを中に入れるのが聞こえました。彼らが階段を上り、上の部屋を歩き回る 音も。すぐウオルタースが私のドアをたたき、ブレイ警部が私と話したがって いると言いました。先に立って階段を上っているとき、私がウオルタースに対 して感じていたのは、被告の殺人者が、証言一つで彼を死刑にできる証人に対 して抱くに違いない感情でした。 ブレイは活動的な巨漢でした。髪は、多くのイギリス人がそうであるように 金髪。動きの一つ一つがその敏腕を物語っていました。私は巻き添えを食った だけの男のように何気ない様子を装いながら……しかし惨めなほど失敗してい たと危惧するのですが……二人の男の声が聞え、闘争があり、大きな男が廊下 で私のそばをすり抜け、ついで門をよじ登ったことを話しました。相手はなに も言わず聞いていましたが、いちばん最後に、 「君は大尉と面識があるのかね?」と言いました。 「面識といえるほどのものではありません」と私。アーチーの手紙のことが しきりに頭に浮かんできて、私はおびえていました。「わたしたちは会ったば かりでした。彼の友達の紹介です。アーチボルド・エンライトという名前なん ですが」 「エンライトはロンドンにいて君の証人になってくれるのかな」 「残念ですが、できません。インターラーケンで消息を聞いたのが最後です から」 「そうか。このアパートの部屋を借りることになったいきさつは?」 「初めて大尉を訪問したとき、まだインドからお帰りじゃなかったんです。 ちょうど下宿を探していましてね。それにここの庭がとても好きになったんで す」 こんな言い方をすると、まるでたあいのない言い訳ですね。警部が小馬鹿に したような色を浮かべて私を見ても驚きませんでした。でもあの目つきはひど すぎる。 ブレイは私を無視して部屋の中を歩きはじめました。 「白いシナギク、コガネムシのネクタイピン、ホンブルグ帽」と彼は奇妙な 陳列物が並ぶ机の前に立ち止まって、一つ一つを列挙しました。
巡査が新聞を持って進み出てきました。 「なんだ、それは」ブレイが聞きました。 「デーリー・メールです、警部」と巡査。「七月二十七、二十八、二十九、 そして三十日の分です」 ブレイは新聞を手に取り眺めていましたが、蔑むようにそれらを屑箱に放り 込んでしまいました。そしてウオルタースにむき直りました。 「大尉の家族に連絡したかね?」 「すみません、旦那様」とウオルタースが言いました。「めんくらってしま ったもんで。こんなことは、初めてなもんで。すぐひとっ走りして……」 「いや、かまわん」とブレイは鋭く答えました。「気にしなくていい。こっ ちでやるよ」 ドアをノックする音が聞こえました。ブレイが「入れ!」と言うと、華奢な 感じの、しかし挙動は軍人らしい、ほっそりした青年が入ってきました。 「やあ、ウオルタース!」と彼はにこにこしながら言いました。「なにかあ ったのかい?
僕は……」 彼はフレイザー=フリーアが横たわっている長椅子を見ると突然立ち止まり ました。次の瞬間、彼は死者の脇にいました。 「おい、スティーブン!」彼は悲痛な叫び声をあげました。 「君は誰だ?」と警部は詰問しましたが、私にはその態度がややぶしつけに 思われました。 「大尉の弟さんでして」とウオルタースが口をはさみました。「英国フュー ジリア連隊ノーマン・フレイザー=フリーア中尉でして」 沈黙が訪れました。 「とんでもないことになってしまいましたよ、旦那様」とウオルタースは青 年に話しかけはじめました。
私は若きフレイザー=フリーアくらい打ちのめされた人間を見たことがあり ません。彼を見ていると、長椅子の男との間には美しい兄弟愛があったに違い ないと思われました。とうとう彼は兄から目をそらしました。ウオルタースは なにが起こったのかを説明しようとしました。 「失礼いたしました、皆さん」と中尉。「ひどくショックを受けましたので。 もちろんこんなことは夢にも……僕は兄……兄とちょっと話をしに立ち寄った だけなんですが。それが今は……」 私たちはなにも言いませんでした。彼が真のイギリス人らしく、人前で取り 乱したことを詫びるがままにしておきました。 「お気の毒です」視線をなおも部屋のあちこちにさまよわせながら、ブレイ 警部はすぐそう言いました。「とりわけイギリスは間もなく、大尉のような方 を大いに必要とするでしょうからな。ところで皆さん、私からお話ししておき たいことがあります。私はスコットランドヤード公安課の課長ですが、これは 普通の殺人ではありません。今は言えない理由があって……付け加えれば大英 帝国の利益のためにも……大尉の悲劇的な死は当分のあいだ、新聞から隠して おかねばなりません。もちろん死亡の状況については伏せるということです。
死亡告知を出すだけにしてください、よろしいですか、自然死だと思わせるよ うに」 「分かりました」と中尉は言いました。彼はその語るところ以上に事情に通 じているのです。 「ありがたい」とブレイ警部。「ご家族への連絡は、あなたにお任せしまし ょう。ご遺体もお引取りください。他の方ですが、このことを外部に漏らすこ とは厳禁ですぞ」 ブレイ警部は立ったまま、おやっという様子で私を見ました。 「君はアメリカ人かね」と彼は言いました。私は彼がアメリカ人を好まない のだなと思いました。 「そうです」 「領事館に知り合いはいるかね?」 ありがたい、いるぞ! そこにワトソンという次官がいるのです。彼は大学 の同期でした。私はブレイに彼のことを言いました。 「結構」と警部。「君は行ってもよろしい。しかし自分がこの事件の重要な 証人であることを理解してくれたまえ。もしロンドンを離れようとすれば、刑 務所に監禁だ」 こうして私は、好きでもない謎にひどくからめとられて、部屋に戻ってきた のです。何度も何度も謎に思いをめぐらしながら、今までしばらく書斎に座っ ていました。階段からたくさんの足音が、玄関からはたくさんの声が聞こえて きます。 ここで夜明けを待っているうちに、冷たい端正な顔の大尉がひどく気の毒に 思えてきました。やはり彼も人の子だったのだ、もう二度と聞けない、頭上を 歩く彼の足音が、そう私に語りかけました。 この事件にはどういう意味があるのでしょうか。廊下の男、大声で言い争っ ていたあの男、奇妙なインドのナイフで的確な一撃を与えた男は誰なのか。 そしてとりわけ白いシナギクはなにを意味するのか。またコガネムシのネク タイピンは? あの妙ちきりんなホンブルグ帽は? カールトン・ホテルのお嬢さん、あなたは謎をほしがっていましたね。最初 の手紙を出したとき、私はこんなにも早く、奇々怪々な謎をたっぷりと差し上 げられるとは夢にも思いませんでした。 そして……どうか私の言葉を信じてください……この事件が起きているあい だ、ずっとあなたの顔が私の目の前に浮かんでいたのです……あの輝かしい朝、 ホテルの朝食室で見たあなたの顔が。私があなたにお付き合いを求めたとき、 あなたはその無作法をお許しくださった。私はあなたの目を見たとき、強く、 とても強く、心が動くのを感じたのです。
今、夜明けが庭にも訪れ、ロンドンは動き出そうとしています。というわけ で、今回は……おはようございます、お嬢さん。 イチゴ男