火星の記憶

Part 2

Chapter 2 9,471 words Public domain Markdown

眠りは十億年もつづいたように思われた。ようやく目が覚めたとき、とてつもなく長い時間が過ぎたような気がした。視界はぼやけていたが、目の前に立つ姿は見間違いようがなかった。 アリスだ。ぼくのアリスだ――無事だったんだ。

彼女はベッドの端に腰かけ、彼にほほえみかけていた。彼はなんとか上半身を起こそうとした。「アリス!」彼は涙をこぼした。 そのあとで彼は言った。「ここはどこだい?なにがあったんだ?わけのわからないことがずいぶん起きたように記憶しているんだが――火星への旅行とか」 「あなた、思い出さなくていいのよ」と彼女は言った。「病気になったのよ。むこうにいるとき、ヒステリーか記憶喪失みたいなものにみまわれたの。いまは地球に戻ったのよ。もうすぐ退院できるし、心配することなんてなにもないわ」 「ぼくのせいで旅行は台無しになったんだね」と彼はつぶやいた。「せっかく君が楽しみにしていたのに」 「そんなこと、ないわ。あなたが治ることはわかっていたもの。ひとりでもいっぱい楽しんだのよ。でも、また行きましょうね。あなたが全快したら、お金を貯めて、もう一度行きましょう」 彼は眠そうにうなずいた。「もちろんだ。もう一度火星に行って、そのときこそ本当の休暇を楽しむんだ」 アリスは消えていった。すべてが消えていった。

はるか遠くのほうからドクタ・マーチンの研究室の壁が彼のまわりに迫ってきた。明かりがじわじわとその強さを増した。ドクタ・マーチンは脇に座っていて、頭をゆっくり横に振っていた。「まことに申し訳ない、ミスタ・ヘイスティングス。今度こそ本当の出来事の全容が明らかになると思っていたんですがね。でもよくあることなんですが、あなたの場合も、空想の上に空想が折り重なっていて、真実に到達するには、そのいくつもの層を掘り下げる必要があるんです。でもあなたの場合は、隠された真実を見いだすのにそれほど深く進まなくてもいいようだ」 メルは長いすに横たわったまま天井を見つめつづけた。「それじゃ、宇宙に巨大な黒い宇宙船などなかったと?」 「当然ですよ!それがこの手の分析の危険のひとつなんです、ミスタ・ヘイスティングス。新しく見つかった空想を、求めている真実と勘違いしちゃいけません。またお出でいただいて、検査をつづけなければなりませんね」 「ええ、そりゃもう」彼はゆっくりと起き上がり、医者と看護人に助けられて控え室へ移った。看護人は白くて甘い飲み物の入ったグラスを手渡した。 「活力増進剤ですよ」とドクタ・マーチンは笑った。「深層の検査をやったときにままある疲労感を取りのぞいてくれます。あさってもお待ちしていますよ」 メルはうなずいて廊下に出た。

巨大な宇宙船は存在しない。 ムチのように飛び出す触手で人間をつかまえる奇妙な小型ロボット船は存在しない。

外科医の格好をしたおかしな三人組は存在しない。 そしてアリスも――。

突然、ある考えが槍のように頭の中をつらぬいた。たぶん、いままでのすべてが幻想だったのではないか。いま家に帰ったら彼女が彼を待っているのではないか。たぶん――。 いいや。あれは現実に起きたのだ。事故。ドクタ・ウインタース。病院の手術室の隣にある、氷のような部屋の光景。ドクタ・マーチンはそのことを知らない。メルがそのことを話そうとしていたら、それも空想だと言っただろう。 ちがう。あれはどれも現実だ。 アリスの信じられない、異様な内臓。

巨大な黒い船。

情け容赦ないロボットの捜索隊。 ぼくの悪夢は宇宙で起きたこうしたことに起因しているんだ。しかしそれはどういうわけか、意識的な記憶からぬぐいさられてしまった。悪夢は、思っていたのとはちがって、少年時代に起因するものではない。いまこそ、はっきりしたぞ。 しかしアリスにはいったいなにが起きたのだろう。ドクタ・マーチンによって掘り起こされた記憶の中にはなんの手がかりもなかった。彼女の状態は異常な遺伝の結果なのか、あるいは遺伝子が突然変異した結果なのか。

頭の中に押し寄せる混乱はいままで以上に大きかった。これを鎮めるにはたったひとつの方法しかない――もともと計画していたように火星に行くのだ。 もう一度行ってみよう。黒い船が存在するのかどうか、確かめるのだ。

切符販売担当の女性は親切だったが断固として言った。「こちらの記録では、お客さまはつい最近、火星へ休暇にいらっしゃっています。ご利用客が多い上に、宇宙船の収容能力がたいへん小さいため、休暇旅行は十年に一回だけと制限させていただいております」 彼は背をむけて廊下を渡り、大理石と真鍮でできたコネモーラ宇宙航空会社のビルを出た。

街の中を六ブロックほど歩いたとき、ふとジェイク・ノートンのことが頭に浮かんだ。メルが駆け出しだったころ、ジェイクはローカルニュース編集室のベテラン記者だった。ジェイクはほんの数ケ月前に引退して、ほかの大勢の老人たちと街のとある場所に住んでいた。メルは手近のタクシーに合図して、ジェイクの家へむかった。 「よう、メル。会いに来てくれたとはうれしいな」とジェイクは言った。「ロートルなんざ、消えちまえば、忘れられるものと思っていたが」 「頼みがあるときはすぐ思い出すさ」 「そうだな」とジェイクはにやりとした。「だが、もう、おれにしてやれることなんか、たいしてないぜ。次の給料日まで十ドル貸してやることすらムリだ」 「ジェイク、あんたならできることだよ。これから先、火星に旅行しようとは思っちゃいないだろう?」 「火星だと!おまえさん、おつむは大丈夫かい、メル」 「ぼくは一度行った。もう一度行かなきゃならないんだ。アリスのことでね。ところが行かせてくれないんだ。十年に一回しか行けないなんて知らなかったよ」 ジェイクは思い出した。アリスはこの前戻ってきたとき、彼やほかの記者連中に電話をかけたのだ。メルは病気だ、と彼女は言った。旅行のことは覚えていない、そのことについては彼になにもしゃべらないでほしい、と口止めされたのだ。いまメルは記憶を回復し、ふたたび行こうとしている。ジェイクはどうしていいか、わからなかった。 「おれになにができるっていうんだい?」 「金を渡すから、あんたの名前で切符を買ってくれ。ぼくはジェイク・ノートンとして旅行する。それでうまくいくと思うんだ。細かいことはいちいちチェックしないだろうから」 「そりゃかまわんさ――それがおまえのためになるんなら」とジェイクはためらいがちに言った。彼は、あの日、メルに火星の話しはしないでくれと電話で頼んできたアリスの不安そうな声を思い出していた。ジェイクの知るかぎり、だれも話した人間はいない。

彼は金を受け取り、メルは老人の家で待った。一時間後、ジェイクから電話があった。「通常料金じゃ、いちばん早くても八ケ月後の予約になるんだが、五十パーセントの料金上乗せで切符を取ってくれるダフ屋を知ってるんだ」 メルはうめいた。「いくらかかってもいいから買ってくれ。すぐ行かなきゃならないんだ!」これから十年間、彼は素寒貧になるわけだ。

前のときと様子は少しもちがっていなかった。休暇に行く人や、それを見送りに来た人がごったがえし、やはりバカンスにたいする興奮を発散させていた。船まで同じだった。 ちがっていたのはアリスがいないことだ。彼は部屋に閉じこもっていたので離陸を見ることはなかった。船が水面上を長々と滑走するとき、かすかな揺れを感じた。人工重力に切り替わるときは、その変化もわかった。マーシャン・プリンセス号が冷たい夜のような宇宙を目指しているとき、彼はベッドに横たわり目を閉じていた。

二日間、食事のとき以外は部屋を出ることはなかった。旅行それ自体にはなんの興味もなかったのだ。ただ黒い宇宙船が来たという案内をひたすら待っていた。 しかし二日目の終りになっても案内はなかった。メルは果てしのない星のかなたをながめながら、眠られない夜を過ごした。ドクタ・マーチンの言ったことが正しかったのだ、と彼は思った。黒い船なんかありはしない。一つの空想を別の空想に置き換えていたにすぎないのだ。現実はどこにある?それはこの世のどこかに存在するのだろうか。 しかし黒い船はないとしても、彼の向かう先が依然として火星であることにかわりはなかった。

黒い船があらわれることなく三日目がすぎた。しかしその日の夜、スピーカーから案内が流れた。「乗客の皆様は全員、シャトルから火星定期航路船へお乗り換えの準備をなさってください。手荷物を――」 メルは放送を聞きながら、麻痺したように座っていた。やっぱり事実だったんだ!彼は二隻の船が結合するとき、マーシャン・プリンセス号に軽い振動が伝わるのを感じた。部屋の舷窓から例の正体不明の船が見えた。黒くて、みにくく、どこか死を思わせる。ドクタ・マーチンにこの「空想」を見せてやれたら、と彼は思った。

急いで荷物をまとめて部屋を出、驚き興奮する群衆に加わった。今度はためらうのではなく、巨大な黒い宇宙船の秘密を探り出そうと気をはやらせていた。

一方の船から他方の船に移動したことは、ほとんどわからないくらいだった。どちらの通路も同じ構造だったのだ。しかしメルは連結地点を通るとき、そのことに気がついていた。彼は自分が知る普通の世界とはまるきりちがう不思議な世界に入りこんだことを感じ取った。

廊下のずっと先のほうで群衆の進むスピードが落ちていた。乗務員の前にいくつもの列ができている。切符を調べられているのだ。乗客は振り分けられるようにして、枝分かれした廊下を自室にむかって進んでいった。これまでのところは、なにもかもまったく正常で、メルはすっかりがっかりしてしまった。放送で言われた通りだ。シャトルから火星定期航路船に乗り移っているだけだ。

乗務員が彼の切符に目を走らせ、一瞬ためらうようにそれを持ちながら、メルの顔を確認した。「ミスタ・ノートン――どうぞこちらへ」 乗務員がむかったその方向には乗客はだれもいなかった。別の乗務員が彼のところにやってきた。「あちらですよ」と二人目の男がメルに言った。「乗務員についていってください」

先をいく乗務員のあとを追い、列を離れてゆっくりと廊下を歩き出したとき、メルの鼓動は早くなった。二人は枝分かれし、どこまでも続く静かな廊下を進んだ。人気がまったくなかった。

彼らはそれまでやりすごしてきた幾十ものドアと少しも変わらないドアの前でとうとう立ち止まった。乗務員はドアを開けて脇に立った。「この中です」と彼は言った。メルが中に入るとだれもいない。乗務員はドアの外にとどまっている。 その部屋はオフィスのように飾り付けがなされていた。ぜいたくな絨毯と鏡板が使われている。左手の、別室につながるドアが開いて、ごましお頭の、背の高い男があらわれた。男は権力と力のオーラをまといながら歩いてくるようだった。メルはそのオーラに見覚えがあった。 「ジェイムズ・コネモーラ!」とメルは叫んだ。

男はそれを認めて軽く一礼した。「その通りだ、ミスタ・ヘイスティングス」と彼は言った。 メルはうろたえた。「どうしてぼくのことを?」 ジェイムズ・コネモーラはメルの脇の舷窓からかなたの星を見つめた。「長いこと君を捜していたんだ、知っていて当然だよ」 男の声のなにかがメルをぞっとさせた。「ぼくなら簡単に見つけられただろうに。たかが新聞記者なんだから。どうしてぼくを捜していたんだ?」 コネモーラは部屋の反対側にある深々とした椅子に座った。「見当がつかないかね?」と彼は言った。 「前に起こったことと、なにか関係があるのか」メルは警戒するようにあとじさりし、壁を背にしてコネモーラと向かい合った。「黒い船に乗るかわりに、マーシャン・プリンセス号を抜け出したときのことと?」 コネモーラはうなずいた。「そうだ」 「まだわからないな。どうしてだ?」 「よくある話しだよ」コネモーラは軽く肩をすくめた。「知るべきじゃないことを知りすぎたのだ」 「ぼくには妻の身に起こったことを知る権利がある。妻のことを知っているんだろう?」 コネモーラはうなずいた。 「なにが起きたんだ?火星旅行から帰ったあと、なぜ変わってしまったんだ?」 ジェイムズ・コネモーラが長いこと黙っていたので、メルは声が聞こえなかったのかと思った。「帰ってきた人間はみんな変わってしまうのか?」とメルは訊いた。「火星旅行に行った人間にはなにかが起こるのか?アリスに起こったことと同じことが?」 「君は知りすぎている」コネモーラは独り言のように言った。「だから捜し出してここに連れてこなければならなかった」 「それはどういう意味だ?ぼくは自分の力でここに来た。あんたの事務所はぼくを来させまいとしたんだぜ」 「にもかかわらず、わたしは君がだれかということも、ここに来ているという事実も知っていたんだよ。わたしがなんらかの関わりを持っていたにちがいないとは考えないかね?」 「なんだと?」 「わたしは君が正体をいつわってここに来るようしむけたんだんよ。君がここにいることをだれにもわからないようにするために。もちろん、君が名前を借りたあの老人をのぞいてだが。しかし彼がなにをほざこうと、君がマーシャン・プリンセス号に乗ったなんて、だれが信じる?われわれの記録によれば、ジェイク・ノートンなる人物は地球にいることになっているのだ。メル・ヘイスティングスが乗船したことなど、だれにも証明できない」

メルはゆっくりと息を吐き出した。ふと用心よりも恐ろしさが先に立った。彼はそっと一歩前に足を踏み出したが、その瞬間、凍りついたように動きを止めた。ジェイムズ・コネモーラが膝の上で小型のピストルを傾けたのだ。メルはどうしてそんなものがそこにあるのか、わからなかった。一瞬前にはなかったのに。 「どうする気だ?」とメルは訊いた。「われわれ全員をどうする気だ?」 「君は知りすぎている」わざとらしく途方に暮れたふりをして、コネモーラは肩をすくめた。「わたしになにができるというんだね?」 「ぼくがなにを知っているというんだ。説明してくれ」 「君に説明する?」コネモーラにとって、それは考えただけでもおかしくてたまらないことらしかった。まるでそこにはとてつもなく滑稽ななにかがあるかのようだった。「いいだろう。説明しよう」と彼は言った。「興味を持って話を聞いてもらうのはひさしぶりのことだ。

宇宙にいるのは人間だけじゃなかった。われわれは、われわれよりはるかに進んだ銀河系の種族によって、ネアンデルタール人の時代から定期的に観察され、調査され、研究されてきたのだ。この監視者は、われわれのすることにあるときは小躍りして興奮し、あるときは戦慄を覚えた。 さて、銀河系には少なくとも百万年の歴史を持つある組織が存在する。この組織は銀河系の各世界、各種族の相互発展のためつくられた。また同時に平和を保つためのものでもある。というのは、この組織ができるまえ、恒星間戦争が何度も起き、無意味な争いの中で、偉大な世界が消し去られたことも一度ならずあったのだ。

地球の人間が宇宙に乗り出す準備ができたとき、銀河系評議会は、ほかの多くの機会にもそうしたように、新しい世界が自分たちの一員として認められるべきか、決定しなければならなかった。この決定に新しい世界は加わることはできない。彼らは決定を下される立場だ。宇宙に宇宙船を送り出しはじめた世界は、評議会の一員となるか、宇宙船飛行ができなくなるか、いずれかの道を歩むことになる。世界それ自体がなくなるということもありうる」 「その独裁的な評議会とやらは、世界が存続するにふさわしいかどうかを決定し、好ましくないと判断した場合はほんとうに消滅をはかるのか?」メルはぞっとしながら言った。「そいつらは宇宙の審判者を気取っているのか?」 「早い話がそんなところだ」とコネモーラは言った。「いくら彼らに不愉快な名前をつけたところで、彼らが存在する事実も、人類の歴史と同じくらい長い期間、その活動が成果を収めてきた事実も変えることはできない。 われわれが宇宙船を飛ばすようにならなければ、彼らはその存在をわれわれに知らせることはなかっただろう。しかし飛ばしたとたん、われわれは、われわれが洞穴からはい出したときからそこにいた種族の縄張りに入りこんだわけだ。彼らの権利に文句は言えんよ」 「しかしあらゆる世界に審判を下すなど――」 「われわれはその審判を受け入れるしかないのだ」 「それで、地球にたいする彼らの審判は――?」 「評議会のメンバーになれるほど成熟していない、地球人はいまだに大きなへまをやりすぎる、われわれが火打ち石の使い方を学んでいたころ、すでに光速で銀河系を飛び回っていた種族に加わる資格はない、とね」 「しかし絶滅はさせなかったんだな!」

ジェイムズ・コネモーラは窓の外の星を見た。「どうだろうかね」と彼は言った。「どうだろうかね」 「そりゃどういう意味だい?」メルはうわずった声で言った。 「われわれには彼らが見たことのないような欠点がある。つまり道具を生み出す技術は発達させたが、それを使う能力を持っていないのだ。たとえば巨大なコミュニケーション・システムをつくったが、そのシステムは現実にはコミュニケーションを阻害している」 「そんなバカな」とメルは言った。「そいつらは狼煙《のろし》のほうが、家庭にある立体スクリーンよりすぐれているとでも思っているのか?」 「実を言うと、そうなのだ。そしてわたしも同意見だ。狼煙に頼らなければならなかった頃、人は空中にメッセージを発するとき、自分には言うべきなにかがあることをちゃんと確信していた。しかしわれわれの驚くべきスクリーンは、おたがいのあいだに疑似コミュニケーションという越えることのできない壁をつくり、コミュニケーションを妨げるのだ。われわれは音と光りの集中砲火を浴びるが、コミュニケーションの内容はゼロに等しい。

同じことが輸送機関の発明についても言える。われわれは世界のあらゆる場所、そしていまや宇宙へも旅することのできる、すぐれた手段を持っている。しかしわれわれは旅をしちゃいないのだ。機械を使って旅することを阻んでいるのだ」 「最初の議論はわかるが、そいつはうなずけないな!」とメルは言った。 「なるほど肉体は機械に乗って新しい場所に移動するが、心は家にとどまったままなのだ。どこへ行くにも、われわれは型にはまった考え、片寄った思考、文化概念をひきずっていく。機械が出会わせてくれるものと、少しでも心で触れ合おうとはしない。われわれは旅をしないのだ。宇宙を動き回るが、旅をするわけじゃない。 これが彼らの非難する点だ。そしてそれは正しい。われわれは昔から変わってはいないのだ。宇宙旅行を、つまらないこと、くだらないこと、愚かしいことのために使っている。せっかくの天才もおもちゃになるだけ。原子時計を床にぶつけて遊んでいる子供みたいなものさ。それがわれわれの偉大な発明、発見のすべてに起きたことなのだ。ガソリンエンジン、電話、無線。われわれは自然の驚異の上に途方もなく愚劣な文化を打ち立てた。銀河系のある種族の言葉には、われわれのようなやからにたいして使う、こんな言い回しがある。『もしも天に神がいるなら、神は一万年泣きつづけただろう』。

「しかし本当の問題はこんなことじゃない。ただ単に愚劣な種族はめったに宇宙に飛び出したりしないからな。だが、われわれには彼らが怖れる別の特徴がある。それは破壊性だよ。彼らはわれわれの歴史の趨勢を計算し、未来を推測した。もしもわれわれを宇宙に飛び出させたりしたら、戦争と対立が引き起こされるだろう」 「そんなこと、わかるものか!」 「彼らはわかると言っている。われわれは抗議できる立場にない」 「それでわれわれを滅亡させようとしているんだな――」 「いいや。以前、ほんの数回行われた実験を試してみようとしているのだ。彼らは、彼らが『臨界質量』と呼ぶわれわれの状態を縮減しようとしている」 「臨界質量?原子力に関して使われる言葉だな」 「そうだ。爆発寸前という意味だ。それがわれわれの状態なのだよ。半世紀のあいだに小規模とはいえない核戦争が二回起きた。彼らはわれわれが宇宙に破壊性を持ち込み、宇宙で争い合い、敵意をほかの種族にも広げるだろうと考えている。しかしわれわれを小さな集団に分割し、戦争の道具を取り上げ、別の発達の道をたどらせれば――まあ、われわれを救う可能性もあるというわけだ」 「むちゃくちゃだ!連中はなにを企んでいるんだ?地球人をグループにわけて、ほかの世界に強制輸送し――永久にばらばらにしようというのか――?」 メルは胸に冷たいものを感じた。彼はジェイムズ・コネモーラを見つめ、ゆっくりと宇宙船の部屋の壁を見まわし、外の星へと視線を移した。黒い船。 「この船は――!あんたは乗客をこの宇宙船に移して、ほかの世界に強制輸送しているんだな!いや、しかし、乗客は戻ってきているが――」 「彼らは地球に似た世界のコロニーに送られる――似ていると言っても重要なちがいはあるんだがね。このコロニーはどれも小さい。いちばん大きなものでもたった数千人だ。そこには地球にはないような問題がある――しかもやっかいな問題だ。天然資源も同じじゃない。そこから生まれる文化は地球のものとは大いに異なるだろう。銀河系評議会は結果に大きな関心を抱いている――はっきりした結果が出るまで千年かそこらはかかるだろうが」 「しかし乗客は戻ってきている」とメルはくり返した。「あんたが連れ戻しているじゃないか」 「送り出された地球人ひとりひとりにたいして、身代わりが送り返されるのだ。評議会が提供するアンドロイドだよ」 「アンドロイド!」メルはしだいに理性的でいられなくなった。自分が怒鳴り声を出していることがわかった。「それじゃ、アリスは――死んだアリスはアンドロイドで、妻じゃなかったんだな!ぼくのアリスはまだ生きているんだな!彼女のいるところへ連れていってくれ――」 コネモーラはうなずいた。「アリスはまだ生きている。元気だよ。なんの危害も加えられていない」 「彼女のところへ連れていってくれ!」自分が懇願していることはわかっていたが、胸の張り裂けそうな想いに、自尊心などかまっていられなかった。 コネモーラは彼の懇願を無視しているようだった。「地球の人口は上流階級の人々を取り除くことでゆっくりと減りつつある。アンドロイドはなりかわった人々とそっくりに行動するが、地球人に内在する破壊性には反応しないようあらかじめ調整されている」 猛烈な怒りがメルの中に湧いてきたようだった。「ぼくとアリスを分かれ分かれにする権利はあんたにはないぞ。彼女のところへ案内しろ!」 怒りが燃え上がり、彼は前に飛び出した。 コネモーラの手中にあった小型拳銃が二度火を噴いた。メルは驚愕のその瞬間、身体に二回、衝撃を感じた。こんなふうに終わるはずじゃなかった、と彼は思った。アリスに再会できないまま死んでいくなんて。せめて一度だけでも――

彼は床にくずおれた。痛みは大きくなかったが、死につつあることはわかった。彼はみぞおちの大きな傷を押さえている手を見た。なにかがおかしい。 べとべとしているが、赤い血があふれてはいなかった。かわりにねっとりした緑色の液体がごぼごぼと湧きだし、服や手に広がっていた。人間のものとは思えない異常な緑色。 それはこの前、一度見たことがあった。 アリス。

彼は驚いたように目を見開いてコネモーラを見た。 「なにもかも失敗してしまったのだよ、アンドロイド」とコネモーラはやさしく言った。「君の元になった人間をこの船に連れてきたあと、いつも通り記憶内容をアンドロイドに刻印しなければならなかった。ただしマーシャン・プリンセス号から逃げだそうとした記憶は消したうえで。それがうまくいかなかったのだ。君が体験した悪夢に記憶が残っていた。そして精神復元がすべてを引っ張り出してしまった。 われわれは前もってつくってあった火星旅行の記憶をいつも通りに植え付けるのではなく、記憶喪失状態をつくりだして君の記憶を覆ってしまおうとした。これでうまくいくはずだったのだ、アリスのアンドロイドまで欠陥品でなければ。正常なアンドロイドには事故やその後の発見を防ぐ防御メカニズムがある。しかしアリスのアンドロイドはそれが働かず、君はわれわれの存在を暴露しようと乗り出した。わたしは君を破壊する手立てを――殺す手立てを見つけなければならなかった。

本当に申し訳ないと思うよ。わたしにはアンドロイドの考え方や感じ方はわからない。ときどき君たちが怖くなるんだ。人間にそっくりだからな。しかしわたしは君たちが生産される工場を見たことがある。わたしが知らないことはたくさんあるが、ただはっきりしているのは、わたしが銀河系評議会に従わなければ、地球はとうの昔に破壊されていただろうと言うことだ。 そうだ、ほかにも知っていることがある。アリスとメル・ヘイスティングスは幸せに、満ち足りた生活をしているよ。彼らはセントラル・バレーによく似た、すてきな世界にいる」 彼は目を閉じた。命だかなんだかわからないものが身体から漏れ出していくのを感じながら。結局はめでたしめでたしで終わるのか、と彼は思った。

木でできた笑顔の兵隊のおもちゃが棚から落ちたように、彼は身をよじったまま床の上に横たわっていた。

終わり

翻訳底本: Project Gutenberg 所収 The Memory of Mars by Raymond F. Jones を底本にしました。この翻訳は以前青空文庫に提供したものですが、今回いくつかの字句を変更しました。