Part 7
「…生存上《せいぞんじやう》新生面《しんせいめん》を開《ひら》くのは諸君《しよくん》の任務《にんむ》であります、」と辯士《べんし》は叫《さけ》むだ。此人《このひと》は「戰爭《せんさう》を戢《や》めよ」と書《か》いた文字《もじ》が皺《しわ》でよれ〳〵になつた旗《はた》を揮《ふ》りながら、手《て》で釣合《つりあひ》を取《と》つて、辛《から》うじて小《ちひ》さな圓柱《ゑんちう》の上《うへ》に立《た》つて居《ゐ》るのだ。 「諸君《しよくん》は靑年《せいねん》である、諸君《しよくん》は未來《みらい》に生活《せいくわつ》すべき人《ひと》である。宜《よろ》しく此《かく》の如《ごと》き狂暴《きやうばう》慘酷《ざんこく》なる事《こと》と關係《くわんけい》を絕《た》つて、以《も》つて自己《じこ》の生命《せいめい》を保《たも》つべきである。未來《みらい》の國民《こくみん》の種《たね》を保全《ほぜん》すべきである、我々《われ〳〵》は今日《こんにち》の慘狀《さんじやう》を見《み》るに忍《しの》びぬ。之《これ》を目擊《もくげき》しては眼中《がんちう》の血走《ちばし》るを禁《きん》ぜぬ。實《じつ》に天《てん》が頭上《づじやう》に落懸《おちかゝ》り大地《たいち》が足下《そつか》に裂《さ》けるやうな感《かん》がある。諸君《しよくん》…」 此時《このとき》群衆《ぐんじゆ》が尋常《ただ》ならぬ動搖《どよみ》を作《つく》つたので、辯士《べんし》の聲《こゑ》は其《それ》に消壓《けおさ》れて一《ひと》しきり聞《きこ》えなくなつたが、實《まこと》に靈《たましひ》でも籠《こも》つて居《ゐ》さうな、物凄《ものすご》い動搖《どよみ》であつた。 「假《か》りに我輩《わがはい》は氣《き》が狂《くる》つてゐるとするも、我輩《わがはい》の云《い》ふ所《ところ》は眞理《しんり》である。我輩《わがはい》には父《ちゝ》があり兄弟《きやうだい》があるが、皆《みな》戰塲《せんぢやう》で牛馬《ぎうば》の屍《しかばね》の如《ごと》く腐敗《ふはい》しつゝある。宜《よろ》しく篝《かゞり》を焚《た》いて、穴《あな》を掘《ほ》つて、武器《ぶき》を鑄潰《いつぶ》して埋《う》めて了《しま》ふが好《よ》い、軍人《ぐんじん》を捕《とら》へてその燦《さん》たる狂氣服《きちがひふく》を剝《は》いで、寸裂《すんれつ》して了《しま》ふが好《よ》い。我々《われ〳〵》は最早《もはや》忍《しの》ぶことが出來《でき》ぬ… 同類《どうるゐ》が死《し》につゝあるのである…」 ト云《い》ふところを、誰《だれ》だか、何《なん》でも脊《せ》の高《たか》い男《をとこ》だつたが、撲飛《はりと》ばしたので、辯士《べんし》がころ〳〵と轉《ころ》げ落《お》ちる、旗《はた》が颯《さつ》とまた飜《ひるがへ》つて、又《また》倒《たふ》れる。跡《あと》は直《す》ぐ紛々《ごた〳〵》となつて了《しま》つたので、辯士《べんし》を撲飛《はりとば》した奴《やつ》の面《かほ》をツイ認《みと》める暇《ひま》もなかつた。俄《には》かに其處《そこ》ら中《ぢう》が皆《みな》動《うご》き出《だ》して、揉合《もみあ》ひ、壓《へ》し合《あ》ひ、押《お》し反《かへ》し、喚《わめ》き叫《さけ》ぶ。石塊《いしころ》棍棒《こんばう》が空《くう》を飛《と》び、誰《だれ》を打《う》つ拳《こぶし》だか頭上《づじやう》に閃《ひら》めく。群衆《ぐんじゆ》は靈《れい》ある浪《なみ》の吼《ほゆ》る如《ごと》く哮《たけ》り立《た》つて、私《わたし》を宙《ちう》に釣上《つりあ》げたまゝ、數步《すうほ》の外《ほか》へ運《はこ》んで行《ゆ》き、いやと云《い》ふ程《ほど》垣根《かきね》へ打付《ぶツつ》けて、又《また》後戾《あともど》りして今度《こんど》はあらぬ方《かた》へ逸《そ》れ、到頭《たうとう》高《たか》く薪《まき》を積上《つみあ》げたのに推付《おしつ》けて了《しま》つたので、積《つ》み上《あ》げた薪《まき》が傾《かし》いで、あはや頭上《づじやう》へ崩《くづ》れ落《お》ちさうになる。何《なに》かパチ〳〵と燥《はしや》いだ音《おと》が頻《しき》りにして、材木《ざいもく》にパラ〳〵と中《あた》るものがある。と、靜《しづ》まる――かとすると、又《また》更《さら》にワッと云《い》ふ。鰐口《わにぐち》開《あ》いて叫《さけ》ぶやうな、太《ふと》い大《おほ》きな聲《こゑ》で、人間《にんげん》離《ばな》れしてゐて物凄《ものすご》い。またパチ〳〵と燥《はしや》いだ音《おと》がする。誰《たれ》だか側《そば》で倒《たふ》れたから、見《み》ると眼《め》の在《あ》る處《ところ》に眞紅《まつか》な穴《あな》が二ツ洞開《ほげ》て、血《ち》が滾々《ごぼ〴〵》と流《なが》れて居《を》る。此時《このとき》重《おも》たい棍棒《こんばう》がブンと空《くう》を切《き》つて來《き》て、其端《そのさき》が顏《かほ》に中《あた》ると、私《わたし》は倒《ころ》げたから、踏躪《ふみにじ》る足《あし》の間《あひだ》を無闇《むやみ》に這脫《はひぬ》けて空地《くうち》へ出《で》た。それから何處《どこ》かの垣根《かきね》を越《こ》えて、一つ殘《のこ》らず爪《つめ》を剝《はが》して、薪《まき》を幾側《いくかは》も積上《つみあ》げたのへ攀《よ》ぢ登《のぼ》つた。中《なか》で一|側《かは》體《からだ》の重《おも》みに崩《くづ》れたのが有《あ》つたので、私《わたくし》はグヮラ〳〵と飛散《とびち》る薪《まき》と一緒《いつしよ》に消飛《けしと》んで、四角《しかく》な穴《あな》のやうな中《なか》へ落《お》ちたが、辛《から》うじて其處《そこ》を這出《はひで》ると、轟々《ぐわう〴〵》パチ〳〵ワッと云《い》ふ音《おと》が後《うしろ》から追蒐《おひか》けて來《く》る。何處《どこ》でか半鐘《なんしやう》が鳴《な》る。五階《ごかい》建《たて》の家《いへ》でも崩《くづ》れたやうな、怕《おそ》ろしい音《おと》も聞《きこ》える。黄昏《たそがれ》が凝付《こりつ》いたやうに、中々《なか〳〵》夜《よる》の景色《けしき》にならず、彼方《かなた》の銃聲《ぢうせい》、叫喚《けうくわん》の聲《こゑ》が赤《あか》く色《いろ》づいて夕闇《ゆふやみ》を跡《あと》へ〳〵押戾《おしもど》したやうな趣《おもむき》がある。最後《さいご》の垣《かき》を飛降《とびお》りると、其處《そこ》はめくら壁《かべ》に左右《さいう》を劃《しき》られた、廊下《らうか》のやうな、曲《まが》り拗《くね》つた狭《せま》い橫町《よこちやう》で私《わたくし》は其處《そこ》を駈出《かけだ》した。久《しば》らく駈《か》けて行《い》つて見《み》たが、つんぼ橫町《よこちやう》で、行止《ゆきどま》りは垣根《かきね》、其《その》向《むか》うには又《また》薪《まき》や材木《ざいもく》の積《つ》むだのが黑々《くろ〴〵》と見《み》える。で、又《また》踏《ふ》めば崩《くづ》れて踏應《ふみごた》へのない嵩高《かさだか》な積薪《つみまき》を攀登《よぢのぼ》つては何《なん》だか寂然《しん》として生木《なまき》の匂《にほひ》のする井戶《ゐど》のやうな處《ところ》へ落《お》ち、落《お》ちては又《また》這上《はひあが》つてゐたが、どうも後《うしろ》を振向《ふりむ》いて見《み》る氣《き》になれない。また朦朧《ぼんやり》と薄赤《うすあか》く影《かげ》が射《さ》して、黑《くろ》ずんだ材木《ざいもく》が巨人《きよじん》の亡骸《むくろ》のやうに見《み》えるから、振《ふ》り向《む》いて見《み》んでも、大抵《たいてい》樣子《やうす》は知《し》れてゐる。もう面《かほ》の傷《きず》の出血《しゆつけつ》も止《と》まつたが、面《かほ》が無感覚《ばか》になつて、我《わが》面《かほ》のやうには思《おも》はれず、宛然《さながら》石膏《せつかう》細工《ざいく》の面《めん》を被《かぶ》つてゐるやうな心持《こゝろもち》がする。やがて眞闇《まツくら》な穴《あな》へ落《お》ちた時《とき》、氣《き》が遠《とほ》くなつて遂《つひ》に正體《しやうたい》を失《うしな》つたやうにも思《おも》ふが、眞《しん》に正體《しやうたい》を失《うしな》つたのか、失《うしな》つたやうな氣《き》がしたのか、どつちだつたか分《わか》らぬ、私《わたくし》の覺《おぼ》えて居《ゐ》るのは、唯《たゞ》駈《か》けて行《い》つた事《こと》ばかりだ。 それから久《しば》らく街燈《がいとう》も點《つ》いてゐぬ知《し》らぬ町々《まち〳〵》を駈廻《かけまは》つたが、何方《どちら》向《む》いても、眞黑《まツくら》な、死《し》んだやうな家《いへ》ばかりで、その寂然《しん》とした迷宮《めいきう》の中《うち》を脫出《ぬけだ》すことが出來《でき》なかつた。方角《はうがく》を付《つ》けるのには、立止《たちど》まつて四下《あたり》を視廻《みま》はすが肝腎《かんじん》だが、それが出來《でき》ない。遠方《ゑんぱう》に聞《きこ》える轟々《ぐわう〳〵》といふ物音《ものおと》や、ワッと云《い》ふ人聲《ひとごゑ》が動《やゝと》もすると段々《だん〴〵》追付《おひつ》きさうになる。時《とき》にはふッと角《かど》を曲《まが》らうとして、正面《まとも》に其《その》聲《こゑ》に打付《ぶツつ》かる事《こと》がある。聲《こゑ》は赤黑《あかくろ》い球《たま》になつて舞揚《まひあが》る烟《けむり》の中《うち》から赤々《あか〳〵》と響《ひゞ》いて來《く》る。それッと引返《ひきかへ》して、また後《あと》になる迄《まで》走《はし》る。去《さ》る曲角《まがりかど》で一條《ひとすぢ》燈火《あかり》の射《さ》してゐた所《ところ》があつたが、側《そば》へ行《ゆ》くと、ふッと消《き》えて了《しま》つたのは、何處《どこ》かの商店《しやうてん》で急《きふ》に戶《と》を閉切《しめき》つたのであつた。廣《ひろ》い隙間《すきま》から帳塲《ちやうば》の臺《だい》の片端《かたはし》と何《なん》だか桶《おけ》のやうなものが見《み》えて、忽《たちま》ち寂然《しん》と潜《ひそ》むだやうに暗《くら》くなつた。其《その》商店《しやうてん》から遠《とほ》くは離《はな》れぬ處《ところ》で向《むか》うから駈《か》けて來《く》る人《ひと》に出逢《であ》つた。暗闇《くらやみ》でもう二足《ふたあし》で危《あぶ》なく衝當《つきあた》らうとして、互《たがひ》に立止《たちど》まつた。誰《たれ》だか知《し》らぬが、眞黑《まツくろ》な…、身構《みがまへ》をした人《ひと》の姿《すがた》が見《み》える。 「君《きみ》は彼方《あツち》から來《き》たのか?」 「さうだ。」 「何處《どこ》へ行《い》くんだ?」 「家《うち》へ歸《かへ》るのだ。」 「むゝ、家《うち》へか?」 相手《あひて》は少《すこ》し默《だま》つてゐたが、突然《いきなり》私《わたし》に飛蒐《とびかゝ》つて、推倒《おしたふ》さうとする。咽喉元《のどもと》を探《さぐ》り當《あ》てやうと、搔《か》き廻《まは》す冷《つめ》たい指先《ゆびさき》が衣服《きもの》に絡《から》まつてやツさもツさしてゐる暇《ひま》に、私《わたくし》はその手《て》に喰《く》ひ付《つ》いて、振捥《ふりもぎ》つて置《お》いて駈出《かけだ》した。相手《あひて》は人《ひと》も通《とほ》らぬ町筋《まちすぢ》を靴音《くつおと》高《たか》くしばらく追蒐《おツか》けて來《き》たが、其中《そのうち》に後《おく》れて了《しま》つた――大方《おほかた》喰付《くひつ》いてやつた處《ところ》が痛《いた》むだのであらう。
如何《どう》してか、フト吾《わが》住《す》む町《まち》へ出《で》た。矢張《やツぱり》街燈《がいとう》もない町《まち》で、家々《いへ〳〵》は死《し》んだやうに、火影《ほかげ》一《ひと》つ射《さ》す處《ところ》もなかつたから、これが吾《わが》町《まち》とは氣《き》が附《つ》かずに駈通《かけとほ》つて了《しま》ふ所《ところ》であつたが、偶《ふ》と目《め》を擧《あ》げて見《み》ると、我家《わがや》の前《まへ》だ。が、私《わたくし》は久《しば》らく躊躇《ちうちよ》してゐた。多年《たねん》住慣《すみな》れた家《いへ》ではあるけれど、吐《つ》く息《いき》が荒《あら》ければ悲《かな》しげに物《もの》に響《ひゞ》く、此《こ》の死《し》んだやうな變《かは》つた町中《まちなか》で見《み》ると、我家《わがや》のやうには思《おも》はれない。躊躇《ちうちよ》してゐる中《うち》に、や、顛《ころ》んだ時《とき》に鍵《かぎ》を落《おと》しはせぬかと思《おも》ふと、愕然《ぎよツ》として氣《き》も坐《そゞ》ろになり、遮《しや》二|無《む》二|捜《さが》して見《み》れば、なに、鍵《かぎ》は外隱袋《そとがくし》にあつた。で、錠《ぢやう》をカチリと云《い》はせると、其《そ》の反響《こだま》が高《たか》く變《へん》に響《ひゞ》いて町中《まちぢう》の死《し》んだやうな家《いへ》の戶《と》が一|時《じ》に颯《さツ》と開《ひら》いたやうな心持《こゝろもち》がした。 …初《はじめ》は床下《ゆかした》に隱《かく》れて見《み》たが、それも佗《わび》しく、且《か》つ眼《め》の前《まへ》に何《なに》かちらついて見《み》えるやうで無氣味《ぶきび》だつたから、窃《そツ》と内《うち》へ忍《しの》び込《こ》むだ。暗黑《くらやみ》を手探《てさぐ》りで方々《はう〴〵》の戶締《とじま》りをし、さて勘考《かんかう》の末《すゑ》道具《だうぐ》を押付《おしつ》けて置《お》かうとしたり、それを動《うご》かす每《たび》に怕《おそろ》しい音《おと》がガランとした家中《いへぢう》に響《ひゞ》き渡《わた》る。これに又《また》膽《きも》を冷《ひや》して、「えい、」と思切《おもひき》つて、「このまゝで死《し》なば死《し》ね。如何《どう》して死《し》んだつて、死《し》ぬのは一《ひと》つだ。」 洗面臺《せんめんだい》にまだ生溫《なまあたゝか》い湯《ゆ》があつたから、手探《てさぐ》りで面《かほ》を洗《あら》つて、布片《きれ》で拭《ふ》いたら、面《かほ》の皮《かは》が釣《つ》れて傷《きず》がヒリ〳〵傷《いた》む。鏡《かゞみ》で見《み》やうとして、マツチを點《つ》けて、そのちら〳〵と弱《よわ》い火影《ほかげ》に透《とほ》して見《み》ると、暗黑《くらやみ》に何《なん》だか醜《みにく》い無氣味《ぶきび》な物《もの》が居《ゐ》て、私《わたくし》の顏《かほ》をぢろりと見《み》たので、狼狽《あわて》てマッチを棄《す》てゝ了《しま》つた。が、どうやら鼻《はな》がめツちやになつて居《を》るらしい。 「もう鼻《はな》なんぞ如何《どう》なつたつて構《かま》はん。滿足《まんぞく》だつて仕方《しかた》がない。」 かう思《おも》ふと、愉快《ゆくわい》になつて來《き》た。芝居《しばゐ》で盜賊《ぬすびと》の役《やく》でも勤《つと》めて居《ゐ》るやうに、奇怪《きくわい》な身振《みぶり》や顏色《かほいろ》をしながら、ブフエーへ行《い》つて、殘物《ざんぶつ》を探《さが》し出《だ》した。探《さが》すに何《なに》も身振《みぶり》をする必要《ひつえう》はない。それはさうとも思《おも》ひながら、其《その》癖《くせ》面白《おもしろ》くて身振《みぶり》が止《や》められなかつた。ひどく飢《かつ》えてゐる積《つも》りで、矢張《やツぱ》り奇怪《きくわい》な顏色《かほつき》をしながら、物《もの》を喰《く》つて居《ゐ》た。
眞暗《まツくら》で寂然《しん》としてゐるのが無氣味《ぶきび》だつたから、庭《には》の覗窓《のぞき》を開《あ》けて、聽耳《きゝみゝ》を引立《ひツた》てると、戶外《そと》はもう馬車《ばしや》一《ひと》つ通《とほ》らぬから、初《はじめ》は矢張《やはり》寂然《しん》としてゐるやうに思《おも》はれて、もう銃聲《じゆうせい》も止《や》むだらしい、――と思《おも》ふ側《そば》から、幽《かすか》に遠《とほ》く人聲《ひとごゑ》がする。叫聲《さけびごゑ》も、笑聲《わらひごゑ》も、何《なに》かグヮラ〳〵と崩《くづ》れる音《おと》も、物《もの》に紛《まぎ》れずして、やがてそれが判然《はつきり》と手《て》に取《と》るやうに聞《きこ》えて來《く》る。空《そら》を瞻《み》ると、赤黑《あかぐろ》い物《もの》がサッと飛《と》んで行《ゆ》く。向《むか》ひの納屋《なや》も庭先《にはさき》の敷石《しきいし》も、犬小舎《いぬごや》も、矢張《やはり》ぼッと薄赤《うすあか》く染《そま》つて見《み》える。 「ネプツーン!」 と窃《そツ》と窓《まど》から犬《いぬ》を呼《よ》んで見《み》た。
犬小舎《いぬごや》では何《なに》も動《うご》く氣色《けはひ》がなく、側《そば》の鎖《くさり》の切《き》れたのが赤黑《あかぐろ》く煌々《きら〳〵》と見《み》えるばかり。が、遠方《えんぱう》の叫聲《さけびごゑ》や、何《なに》やらの崩《くづ》れ落《お》ちる音《おと》が、次第《しだい》に高《たか》くなつて來《き》たから、私《わたし》は覗窓《のぞき》を閉《し》めて了《しま》つた。 「段々《だん〳〵》押寄《おしよ》せて來《く》る!」 隱《かく》れ塲所《ばしよ》を探《さが》す氣《き》で、ストーヴの戸《と》を開《あ》けたり、塗込《ぬりご》め煖爐《だんろ》を探《さぐ》つたり、戸棚《とだな》を開《あ》けたりしてみたが、そんな物《もの》では間《ま》に合《あ》はぬ。部屋々々《へや〳〵》をも歩《ある》き廻《まは》つて見《み》たが、書齋《しよさい》だけは覗《のぞ》く氣《き》になれなかつた。屹度《きツと》兄《あに》が肱掛椅子《ひぢかけいす》に腰《こし》を掛《か》けて、書物《しよもつ》に埋《うま》つたテーブルに對《むか》つて居《ゐ》ると思《おも》ふと、餘《あン》まり好《よ》い心持《こゝろもち》がしない。 と、次第《しだい》に歩《ある》いてゐるのは私《わたくし》一人《ひとり》でないやうに思《おも》はれて來《く》る。まだ幾人《いくたり》か近《ちか》くの暗黑《やみ》を默《だま》つて歩《ある》いてゐる者《もの》があつて、殆《ほとん》ど私《わたし》と擦《す》れ〳〵になる事《こと》もあるやうだ。一|度《ど》其中《そのうち》の誰《だれ》やらの息《いき》が領元《えりもと》に觸《ふ》れて慄然《ぞツ》と總毛立《そうげだ》つた事《こと》もある。 「誰《だれ》だ?」と私《わたし》は小聲《こゞゑ》でいつて見《み》たが、返事《へんじ》がない。
又《また》歩《ある》き出《だ》すと、不気味《ぶきび》な奴《やつ》が默《だま》つて跡《あと》に踉《つ》いて來《く》る。加減《かげん》が惡《わる》いので、それでこんな氣《き》がするのだ、さう云《い》へば熱《ねつ》も出《で》て來《き》たやうだ――と思《おも》ふけれども、恐《おそ》ろしさを如何《どう》することも出來《でき》ん。寒氣《さむけ》でもするやうに身體《からだ》が慄《ふる》へて、頭《あたま》に觸《さは》つて見《み》ると、火《ひ》のやうに熱《あつ》い。 「チヨッ、書齋《しよさい》へ行《い》かう。何《なん》と云《い》つても他人《たにん》よりか好《い》い。」 兄《あに》は果《はた》して肱掛椅子《ひぢかけいす》に倚《よ》つて、書物《しよもつ》に埋《うま》つたテーブルに對《むか》つて居《ゐ》たが、今《いま》は彼時《あのとき》のやうに消《き》えもせぬ。帷《カーテン》を卸《おろ》した隙《すき》から外《そと》の明《あか》りが薄赤《うすあか》く射《さ》してゐるけれど、物《もの》を照《て》らす程《ほど》でもないから、兄《あに》の姿《すがた》はぼんやり見《み》える。私《わたくし》は兄《あに》とは懸《か》け離《はな》れて、ソフアに腰《こし》を卸《おろ》して成行《なりゆき》を見《み》て居《ゐ》た。書齋《しよさい》は靜《しづ》かで、のべつに轟《ぐわう》といふ音《おと》、何《なに》かのグッラ〳〵と崩落《くづれお》ちる音《おと》、其處此處《そここゝ》の叫聲《さけびごゑ》が幽《かす》かに聞《きこ》えてゐたのが、次第《しだい》に近《ちか》く押寄《おしよ》せて來《く》る。赤黑《あかぐろ》い光《ひかり》は益々《ます〳〵》強《つよ》くなり、肱掛椅子《ひぢかけいす》に凭《よ》つた兄《あに》の、眞黑《まツくろ》な、鑄鐵《いてつ》で作《つく》つたやうな半面《よこがほ》が、その細《ほそ》い赤《あか》い線《せん》の中《うち》に見《み》えるやうになつた時《とき》、 「兄《にい》さん!」 と呼《よ》んでみた。 が、默《だま》つて居《ゐ》る。石碑《せきひ》のやうに凝然《ぢツ》と眞黑《まつくろ》に居竦《ゐすく》まつてゐる。隣室《りんしつ》の床板《ゆかいた》がピシリと爆《はぜ》て、急《きふ》に妙《めう》に寂《しん》となる。澤山《たくさん》な死骸《しがい》の中《なか》にでもゐるやうだ。音《おと》と云《い》ふ音《おと》は皆《みな》消《き》えて、赤黑《あかぐろ》い光《ひかり》までしんめりとした死《し》の影《かげ》を宿《やど》して、凝《こツ》たやうに動《うご》かなくなり、其色《そのいろ》も稍《やゝ》薄《うす》れる。この寂《さび》しさは兄《あに》からと思《おも》つて、其通《そのとほ》りを云《い》ふと、 「いや、己《おれ》の所爲《せゐ》ぢやない。窓《まど》を覗《のぞ》いて御覽《ごらん》。」 帷《カーテン》を引除《ひきの》けて――私《わたし》はたぢ〳〵となつた。 「おゝ、この故爲《せゐ》か!」 「家内《かない》を呼《よ》んで來《き》て呉《く》れ。彼《あれ》はまだ見《み》たことがないから」、と兄《あに》がいふ。
嫂《あによめ》は食堂《しよくだう》で何《なに》か裁縫《さいほう》をしてゐたが、私《わたし》が行《ゆ》くと、針《はり》を縫物《ぬひもの》に差《さ》して、言《い》はれる儘《まゝ》に起上《たちあが》り、私《わたし》の跡《あと》に隨《つ》いて來《く》る。窓々《まど〳〵》の帷《カーテン》を皆《みんな》引除《ひきの》けたら、薄赤《うすあか》い光《ひかり》が、廣《ひろ》い入口《いりぐち》を射《い》て、思《おも》ひの儘《まゝ》に室内《しつない》へ流《なが》れ込《こ》むだが、何故《なぜ》だか内《うち》は明《あか》るくはならないで、矢張《やはり》暗《くら》かつた、唯《たゞ》窓《まど》だけ四角《しかく》に赤《あか》く大《おほ》きく燦然《ぼツ》と明《あか》るく見《み》えた。
皆《みな》で窓際《まどぎは》へ行《い》つて仰《あふ》いで見《み》ると、家《いへ》の壁《かべ》や軒蛇腹《のきじやばら》から、直《す》ぐ火《ひ》のやうに眞紅《まツか》な、平坦《たひら》な空《そら》になつて、雲《くも》も日《ひ》も星《ほし》も麗《つ》けずに、其儘《そのまゝ》地平線《ちへいせん》の彼方《かなた》に没《ぼつ》したやうに見《み》える。俯《ふ》して見《み》れば、矢張《やはり》平坦《たひら》な赤黑《あかぐろ》い野《の》が死骸《しがい》で埋《うづま》つて居《ゐ》る。死骸《しがい》は皆《みな》裸體《はだか》で、足《あし》を此方《こちら》へ向《む》けて居《を》るから、此方《こちら》からは唯《たゞ》蹠《あしのうら》と三|角《かく》の顎《あご》の下《した》が見《み》えるばかりだ。寂然《しん》としてゐる――皆《みな》死骸《しがい》と見《み》えて、際限《はてし》もない野《の》に置去《おきざ》りにされた負傷者《ふしやうしや》らしい者《もの》は一人《ひとり》も見《み》えなかつた。 「段々《だん〳〵》殖《ふ》えて來《く》る」、と兄《あに》が云《い》ふ。
兄《あに》も窓際《まどぎは》に立《た》つて居《ゐ》たが、母《はゝ》も妹《いもうと》も家内中《かないぢう》殘《のこ》らず此處《こゝ》に居《ゐ》る。誰《だれ》も面《かほ》は能《よ》く見《み》えなかつたが、唯《たゞ》聲《こゑ》でそれと知《し》れた。 「そんな氣《き》がするンだわ」、と妹《いもうと》が云《い》ふ。 「いや、殖《ふ》えて來《く》るのだ。まあ、見《み》て居《ゐ》て御覧《ごらん》。」 成程《なるほど》、死骸《しがい》は殖《ふ》えたやうだ。如何《どう》して殖《ふ》えるのかと、凝然《ぢツ》と注目《ちうもく》して居《ゐ》ると、とある死骸《しがい》の隣《となり》の、今迄《いままで》何《なに》も無《な》かつた處《ところ》に、フト死骸《しがい》が現《あらは》れた。どうやら、皆《みな》地《ち》から湧《わ》くらしい。空《あ》いた處《ところ》がズン〳〵塞《ふさ》がつて行《い》つて、大地《だいち》が忽《たちま》ち微白《ほのじろ》くなる。微白《ほのじろ》くなるのは、蹠《あしのうら》を此方《こちら》へ向《む》けて、列《なら》んで臥《ね》てゐる死骸《しがい》が皆《みな》薄紅《うすあか》いからで、それにつれて室内《しつない》もその死骸《しがい》の色《いろ》に薄紅《うすあか》く明《あか》るくなる。 「さあ、もう塲所《ばしよ》がない」、と兄《あに》が云《い》ふ。 「もう此處《こゝ》にも一人《ひとり》居《ゐ》るよ」、と母《はゝ》がいふ。
皆《みな》振向《ふりむ》いて見《み》ると、成程《なるほど》背後《うしろ》にも一人《ひとり》仰反《のけぞ》つて倒《たふ》れてゐる。と、忽《たちま》ちその側《そば》へ一人《ひとり》現《あらは》れ、二人《ふたり》現《あらは》れる。跡《あと》から〳〵湧《わ》いて出《で》て、薄紅《うすあか》い死骸《しがい》が行儀《ぎやうぎ》よく並《なら》び、忽《たちま》ち部屋《へや》々々《〳〵》に一杯《いつぱい》になる。
保母《ほぼ》が、 「坊《ぼツ》ちやん逹《たち》のお部屋《へや》にも出《で》て來《き》ましたよ。私《わたくし》見《み》て參《まゐ》りました。」 妹《いもうと》が、 「逃《に》げて行《ゆ》きませう。」 兄《あに》が、 「出道《でみち》がない。御覽《ごらん》、もう此通《このとほ》りだ。」 成程《なるほど》、死骸《しがい》は其處《そこ》ら中《ぢう》に素足《すあし》を投出《なげだ》し、腕《うで》を聯《つら》ねて、ギッシリ詰《つま》まつてゐる。それが見《み》る〳〵蠢《うご》めき出《だ》して、恟《ぎよツ》とする間《ま》に、皆《みな》行儀《ぎようぎ》よく列《なら》むだまゝ、むく〳〵と起上《おきあが》る。新《あたら》しい死骸《しがい》が地《ち》から湧《わ》いて出《で》て、舊《もと》から在《あ》るのを推上《おしあ》げたのだ。 「かうして居《ゐ》ると、首《くび》を締《し》められる。窓《まど》から逃《に》げませう。」 と私《わたし》が云《い》ふと、兄《あに》が、 「いや、窓《まど》からはもう逃《に》げられん!
駄目《だめ》だ! それ、あれを御覽《ごらん》!」 …窓外《さうぐわい》には、赤黑《あかぐろ》い光《ひか》りの凝《こ》つた中《なか》に赤《あか》い笑《わらひ》が見《み》える。
血笑記 終
明治四十一年八月五日印刷 血笑記奥付 明治四十一年八月八日發行 正價金八拾五銭
著者 長谷川二葉亭 東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地 不 許 發行者 西本波太 東京市小石川區久堅町百八番地 複 製 印刷人 山田英二 東京市小石川區久堅町百八番地 印刷所 博文館印刷所 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 發行所 東京市麹町區飯田町 易風社 六丁目二十四番地 振替口座 一二〇三四番
Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)
誤植と思われる箇所は岩波書店発行二葉亭四迷全集第四巻(昭和三十九年 第一刷)を参照し以下のように訂正した。
原文 生若《まなわか》い (p.25) 訂正 生若《なまわか》い 原文 見《み》たばかりて (p.59) 訂正 見《み》たばかりで 原文 狂人《きちちがひ》 (p.64) 訂正 狂人《きちがひ》 原文 血潮《ししほ》 (p.71) 訂正 血潮《ちしほ》 原文 見《み》れぼ (p.72) 訂正 見《み》れば 原文 便《たよ》りない聲《こゑ》て (p.85) 訂正 便《たよ》りない聲《こゑ》で 原文 二|本指《ほんゆび》て (p.96) 訂正 二|本指《ほんゆび》で 原文 聞《きこ》る! (p.108) 訂正 聞《きこえ》る!
原文 貴方《あなた》を此樣《こん》にすれば (p.121) 訂正 貴方《あなた》を此樣《こん》なにすれば 原文 折合《をりあ》ふ事《こと》が出來《き》ん (p.125) 訂正 折合《をりあ》ふ事《こと》が出來《でき》ん 原文 一所《ひところ》 (p.125) 訂正 一所《ひとところ》 原文 線《せん》か (p.138) 訂正 線《せん》が 原文 紙《かみ》に歿《のこ》つた (p.148) 訂正 紙《かみ》に殘《のこ》つた 原文 遂《お》うて (p.149) 訂正 逐《お》うて 原文 薄無味惡《うすきみわる》かつたが (p.162) 訂正 薄氣味惡《うすきみわる》かつたが 原文 ちらりとしたばかりて有《あ》つたのだ (p.163) 訂正 ちらりとしたばかりで有《あ》つたのだ 原文 銳《するど》い目色《めつき》て (p.171) 訂正 銳《するど》い目色《めつき》で 原文 ピシャり (p.172) 訂正 ピシャリ 原文 迯《にげ》けろ (p.175) 訂正 迯《にげ》ろ 原文 慓《ふる》ひ出《だ》す (p.175) 訂正 慄《ふる》ひ出《だ》す 原文 冷《つた》たい (p.187) 訂正 冷《つめ》たい 原文 向《むか》ふから來《き》る (p.208) 訂正 向《むか》ふから來《く》る 原文 失《うし》つたやうにも (p.230) 訂正 失《うしなつたやうにも》 原文 唯《たゞ》蹶《あしのうら》と (p.243) 訂正 唯《たゞ》蹠《あしのうら》と 原文 蹶《あしのうら》 (p.245) 訂正 蹠《あしのうら》 原文 切《きれ》れ (p.237) 訂正 切《き》れ ●文字・フォーマットに関する補足 113頁「弟は高笑をして、」「妹も合槌を打つて、」、118頁「弟《おとうと》はふと立止《たちど》まつて、」の行は一字字下げした。 233頁の草書体の「志」は「し」に置換えた。「熱」の字は原文では「灬」の上が「執」の字。