Part 3
…もう眠《ねむ》つてゐたら、ドクトルが窃《そツ》と突《つゝ》いて覺《おこ》すから、私《わたし》は目《め》を覺《さま》すが否《いな》、呀《あツ》といつて跳起《はねお》きた。誰《だれ》でも覺《おこ》されると、斯《か》う聲《こゑ》を立《た》てたものだつた。で、天幕《テント》の外《そと》へ駈出《かけだ》さうとする私《わたし》の手《て》を、ドクトルは確《しか》と執《と》つて、而《そ》して謝罪《わび》をいふ。 「唐突《だしぬけ》に覺《おこ》して濟《すみ》ませんでした。お睡《ねむ》からうとは思《おも》つたが…」 「何《なに》しても五|晝夜《ちうや》になるンですもの…」と、私《わたし》は言《い》つたが、半分《はんぶん》は夢《ゆめ》で、其儘《そのまゝ》又《また》昏々《うと〳〵》となつた。久《しば》らく眠《ね》てゐたやうだつたが、ドクトルが私《わたし》の橫腹《よこはら》や足《あし》を窃《そつ》と突《つゝ》き〳〵又《また》話《はな》し出《だ》す聲《こゑ》が耳《みゝ》に入《はい》る。 「しかし止《や》むを得《え》んので。貴方《あなた》もお辛《つら》からうが、實際《じつさい》止《や》むを得《え》んので。どうも私《わたし》にや……安閑《あんかん》として居《を》れん。どうも私《わたし》にやまだ負傷者《ふしやうしや》が取殘《とりのこ》してあるやうに思《おも》はれて…」 「負傷者《ふしやうしや》とは?
今日《けふ》一|日《ンち》收容《しうよう》してゐたぢやないですか?
私《わたし》を覺《おこ》さんだツて好《よ》さゝうなものだ。餘《あんま》り酷《ひど》い!
私《わたし》は五|晝夜《ちうや》も眠《ね》なかつたのだ。」 「まあ、然《さ》う憤《おこ》つたものでない」、とドクトルは口《くち》の中《うち》で言《い》つて、無器用《ぶきよう》な手附《てつき》で私《わたし》の頭《あたま》へ帽《ばう》を冠《かぶ》せてから、「皆《みんな》寐《ね》込《こ》んで了《しま》つてゝ、幾《いく》ら覺《おこ》しても、起《お》きんのですもの。機關車《きくわんしや》の車輛《しやりやう》が七|臺《だい》用意《ようい》してあるのだが、乗《の》つて行手《ゆきて》がない。そりや私《わたし》も察《さつ》しる…が、何卒《どうぞ》、まあ、行《い》つて下《くだ》さい。皆《みんな》寐《ね》込《こ》んで了《しま》つてゝ、如何《どう》しても行《い》かうと言《い》はん。私《わたし》だってコクリとなりさうで仕方《しかた》がないのだ。何日《いつ》寢《ね》たつけか、もう覺《おぼ》えがない位《くらゐ》のもので、そろ〳〵幻覺《げんかく》が始《はじ》まりさうな氣《き》がする。まあ、寢臺《ねだい》をお降《お》りなさい、片《かた》一|方《ぱう》の足《あし》から。そう〳〵…」 ドクトルは蒼褪《あをざ》めた顏《かほ》をしてふら〳〵してゐる。一寸《ちよツと》でも下《した》に居《ゐ》たら、其儘《そのまゝ》何《なん》晝夜《ちうや》も打通《ぶツとほ》しに寢《ね》かねない樣子《やうす》だ。私《わたし》も足《あし》に他愛《たあい》がない。と、鼻《はな》の先《さき》に眞黑《まつくろ》な物《もの》が一|列《れつ》見《み》える。それが餘《あま》り突然《とつぜん》で、意外《いぐわい》で、地《ち》から湧《わ》いたやうだつたから、何《なん》でも歩《ある》きながら昏々《うと〳〵》してゐたに違《ちが》ひないが、その眞黑《まつくろ》な物《もの》は汽車《きしや》だつた。暗《くら》くて能《よ》くは見《み》えなかつたが、其《その》側《そば》をノソリ〳〵と默《だま》つて彷徨《うろつ》いてゐる者《もの》がある。機關車《きくわんしや》にも車輛《しやりやう》にも燈火《あかり》が點《つ》いてゐなかつた。唯《たゞ》蓋《ふた》をした火口《ほぐち》から朦朧《ぼんやり》した火影《ほかげ》が薄赤《うすあか》く線路《せんろ》へ落《お》ちてゐたのみで。 「何《なん》ですか、これは?」と私《わたし》は逡巡《しりごみ》をした。 「汽車《きしや》で行《ゆ》くのです、汽車《きしや》で。今《いま》の話《はなし》をもう忘《わす》れましたか?」とドクトルがいふ。
寒《さむ》い晚《ばん》でドクトルは震《ふる》へてゐる。私《わたし》もそれを見《み》ると、身體中《からだぢう》を擽《くすぐ》られるやうな氣持《きもち》で、矢張《やツぱり》ガタガタ震《ふる》へる。 「酷《ひど》いなあ!私《わたし》を見立《みた》つて連《つ》れて行《ゆ》くのは酷《ひど》い」、と私《わたし》は大聲《おほごゑ》にいふと、 「靜《しづ》かに、靜《しづ》かに」、とドクトルは私《わたし》の腕《うで》を抑《おさ》へた。
誰《だれ》だか暗黑《くらやみ》から、 「此《この》鹽梅《あんばい》ぢや有《あり》ツ丈《たけ》の砲《はう》で一|齋《せい》射擊《しやげき》をやつたつて、皆《みんな》ビクともしないな。敵《てき》も矢張《やツぱり》寢込《ねこ》んでゐるだらうて。今《いま》なら側《そば》へ行《い》つて片端《かたツぱし》から引括《ひツくゝ》れる。己《おれ》は今《いま》哨兵《せうへい》の側《そば》を通《とほ》つて來《き》たのだが、先生《せんせい》一寸《ちよツと》人《ひと》の面《かほ》を見《み》たばかりで、何《なん》とも言《い》はん。凝然《ぢツ》としてゐた。屹度《きツと》矢張《やツぱり》眠《ね》てゐたんだらう。能《よ》くつんのめらないで居《ゐ》たものさ。」 と斯《か》う言《い》つて欠《あく》びをした。で、さら〳〵と服《ふく》の擦《す》れる音《おと》のしたのは、大方《おほかた》伸《のび》をしたのだらう。私《わたし》は車輛《しやりやう》へ攀《よ》ぢ登《のぼ》らうとして胸《むね》を其《その》端《はし》に掛《か》けると――忽《たちま》ち夢《ゆめ》に入《い》つて了《しま》つた。誰《だれ》だか後《うしろ》から持上《もちや》げるやうにして載《の》せて吳《く》れたが、私《わたし》は其《その》人《ひと》を蹴飛《けと》ばして、又《また》寐《ね》こけた。と、夢《ゆめ》の中《うち》にこんな話《はなし》が斷續《とぎれ〳〵》に聞《きこ》える。 「六ウエルスト行《い》つてからだ。」 「忘《わす》れたのかランプを?」 「いや、彼奴《あいつ》は行《い》くまい。」 「此處《こゝ》へ寄越《よこ》せ。少《すこ》し後《あと》へ退却《すさ》らせた。さうだ。」 汽車《きしや》が居去《ゐざ》る、何《なに》かガタ〳〵と鳴《な》る。安樂《あんらく》に橫《よこ》になつて斯《か》ういふ音《おと》を聽《き》いてゐると、私《わたし》は次第《しだい》に目《め》が覺《さ》めて來《き》たが、ドクトルは反《かへツ》て寢入《ねい》つてゐる。其《その》手《て》を握《にぎ》つて見《み》ると、死人《しにん》の其《それ》のやうに頽然《ぐたり》として重《おも》たい。汽車《きしや》はもう動《うご》き出《だ》して、心持《こゝろも》ち震動《しんどう》しながら、探足《さぐりあし》で行《ゆ》くやうに、用心《ようじん》しつゝ徐々《そろり〳〵》と進《すゝ》む。看護手《かんごしゆ》の醫學生《いがくせい》がランプに火《ひ》を點《とぼ》すと、其《その》光《ひかり》に車室《しやしつ》の羽目《はめ》や戶《と》の黑《くろ》い孔《あな》が照《てら》し出《だ》された。憤々《ぷん〳〵》怒《おこ》りながら、醫學生《いがくせい》が、 「馬鹿《ばか》々々《〳〵》しい!
今《いま》時分《じぶん》行《い》つたつて仕樣《しやう》がない。貴方《あなた》、先生《せんせい》が寢込《ねこ》まない中《うち》に覺《おこ》して下《くだ》さらんか?寢込《ねこ》ん了《ぢま》つたら、もう駄目《だめ》です。僕《ぼく》も覺《おぼ》えがある。」 二人《ふたり》して搖覺《ゆりおこ》したら、ドクトルは起直《おきなほ》つて不思議《ふしぎ》さうにキヨロ〳〵して又《また》寢倒《ねこ》けやうとするのを、どツこい、然《さ》うはさせなかつた。 「今頃《いまごろ》ウオツトカを一|杯《ぱい》キユウと引懸《ひツか》けるなんぞは惡《わる》くないな」、と醫學生《いがくせい》がいふ。 で、コニヤクを一口《ひとくち》づゝ飮《の》むだら、睡氣《ねむけ》は奇麗《きれい》に去《と》れて了《しま》つた。黑々《くろ〴〵》と大《おほ》きい四|角《かく》な戶《と》が薄赤《うすあか》くなり、終《つひ》に赤々《あか〳〵》と點《てら》し出《だ》されて、小山《こやま》の向《むか》ふの空《そら》一杯《いつぱい》に火影《ほかげ》が深々《しん〳〵》と映《うつ》る。宛然《さながら》眞夜中《まよなか》に日《ひ》が出《で》たやうだ。 「あれは遠方《ゑんぱう》ですな。二十ウエルストも離《はな》れた處《ところ》だ。」 「寒《さむ》い、」といつてドクトルは齒《は》を切《くひしば》つた。
學生《がくせい》は一寸《ちよつと》戶《と》の外《そと》を覗《のぞ》いて私《わたし》を麾《まね》くから、覗《のぞ》いて見《み》たら、地平線《ちへいせん》の處々《ところ〴〵》微《ぼつ》と赤《あか》く音《おと》もさせず鎭《しづ》まり返《かへ》つてゐる兵火《へいくわ》の映《うつ》りが、其《それ》から其《それ》へと連續《れんぞく》して、宛然《さながら》數《す》十の太陽《たいやう》が一|度《ど》に出《で》るやうで、もう左程《さほど》暗《くら》くもない。遠方《ゑんぱう》の山々《やま〳〵》は黑々《くろ〴〵》と浪《なみ》のうねつたやうに起伏《きふく》して劃然《くつきり》浮出《ふきだ》し、近《ちか》くの物《もの》は皆《みな》しんめりとした寂《しづ》かな光《ひかり》を受《う》けて赤々《あか〳〵》と見《み》える。學生《がくせい》の面《かほ》を見《み》ても、矢張《やつぱ》り血《ち》に染《そま》つたやうに赤《あか》く、此世《このよ》の人《ひと》の色《いろ》でない。血《ち》が飛散《ひさん》して空氣《くうき》となり光《ひかり》となつたやうに思《おも》はれる。 「負傷者《ふしやうしや》は餘程《よつぽど》有《あ》りますか?」 と聞《き》くと、學生《がくせい》は手《て》を掉《ふ》つて、 「狂人《きちがひ》が多《おほ》いのです。負傷者《ふしやうしや》より狂人《きちがひ》の方《はう》が多《おほ》いのです。」 「本當《ほんたう》の狂人《きちがひ》が?」 「假《うそ》の狂人《きちがひ》といふのも無《な》いでせう。」 と此方《こちら》を振向《ふりむ》いた學生《がくせい》の目差《めざし》は凝然《ぢつ》と据《すわ》つて、物凄《ものすご》く、冷《つめ》たい恐怖《きやうふ》に充《み》ちて、例《れい》の日射病《につしやびやう》で殪《たふ》れた兵《へい》の目差《めざし》其儘《そのまゝ》であつた。 「好加減《いゝかげん》な事《こと》を…」と面《かほ》を反《そむ》けると、 「其樣《そん》な事《こと》言《い》つて、ドクトルも矢張《やつぱ》り狂《くる》つてますぞ。まあ、一寸《ちよつと》御覽《ごらん》。」 ドクトルには私逹《わたしたち》の話《はなし》が聞《きこ》えないやうだつた。土耳古《トルコ》人《じん》のやうに箕踞《あぐら》をかいて、ふら〳〵しながら、唇《くちびる》と指先《ゆびさき》を音《おと》もさせず顫《ふる》はせてゐる其《その》目差《めざし》は矢張《やツぱ》り凝《ぢツ》と据《すわ》り、茫然《ぼツ》と鈍《にぶ》く腑《ふ》が脫《ぬ》けたやうだつたが、 「寒《さむ》い、」といつて微笑《にツこり》した。 「貴方《あなた》がたは實《じつ》に酷《ひど》い人逹《ひとたち》だ!」と私《わたし》は大聲《おほごゑ》に言《い》つて車室《しやしつ》の隅《すみ》へ行《ゆ》き、「何《なん》だつて私《わたし》を引張《ひツぱ》り出《だ》したんです?」 誰《だれ》も何《なん》とも言《い》はなかつた。空《そら》は深々《しん〳〵》と益々《ます〳〵》赤《あか》くなつて行《ゆ》く、それを學生《がくせい》は眺《なが》めてゐる。頸窩《ぼんのくぼ》の毛《け》の縮《ちゞ》れてゐるのも若々《わか〳〵》しい。之《これ》を觀《み》てゐると、何故《なぜ》か繊細《かぼそ》い女《をんな》の手《て》が此毛《このけ》を弄《せゝ》つてゐるやうに思《おも》はれてならぬ。それが又《また》癪《しやく》に觸《さは》つて、遂《つひ》に學生《がくせい》迄《まで》が小面憎《こづらにく》くなつて來《き》て、面《かほ》を見《み》ると、胸《むね》がむかつく。 「君《きみ》は何歲《いくつ》です?」といつても返答《へんたふ》をしない。振向《ふりむ》きもしない。 ドクトルはふら〳〵しながら、 「寒《さむ》い!」 學生《がくせい》は餘所《よそ》を向《む》いたまゝで、 「僕《ぼく》は何《なん》だ、僕《ぼく》は此世《このよ》の何處《どこ》かに町《まち》や家《いへ》や大學《だいがく》が有《あ》ると思《おも》ふと…」 ぷつりと言葉《ことば》尻《じり》を切《き》つて、これで言《い》ひたい事《こと》を皆《みな》言《い》ひ盡《つく》したやうに默《だま》つて了《しま》ふ。ふと唐突《だしぬけ》に汽車《きしや》が止《とま》つたので、私《わたし》は羽目《はめ》に衝突《ぶツか》つた。がや〳〵と人聲《ひとごゑ》がする。皆《みな》急《いそ》いで外《そと》へ出《で》て見《み》た。
機關車《きくわんしや》の直《す》ぐ前《まへ》の線路《せんろ》の上《うへ》に何《なに》か橫《よこたは》つてゐる。大《たい》して大《おほ》きな物《もの》でもなかつたが、それからヌツと足《あし》が一|本《ぽん》出《で》てゐた。 「負傷者《ふしやうしや》ですか?」 「いや、戰死者《せんしゝや》です。首無《くびな》しだ。しかし、こりや如何《どう》しても前《まへ》の燈火《あかり》を點《つ》けずにや居《ゐ》られん。これぢや轢潰《ひきつぶ》す。」 足《あし》を突張《つツぱ》つた物《もの》を線路《せんろ》外《ぐわい》へ投《な》げ出《だ》したら、虛空《こくう》を踏《ふ》むで駈出《かけだ》しでもするやうに、一寸《ちよツと》宙《ちう》で踏反《ふんぞ》つて、ポンと眞暗《まツくら》な溝《みぞ》の中《なか》へ陷《はま》つて了《しま》つた。燈火《あかり》が點《つ》く――と、もう機關車《きくわんしや》が眞黑《まつくろ》に見《み》える。 「おゝい!」と誰《だれ》だか小聲《こごゑ》で如何《いか》にも氣疎《けうと》さうに呼《よ》ぶ。
今迄《いまゝで》聞《きこ》えなかつたのが不思議《ふしぎ》な位《くらゐ》だが、何處《いづく》ともなく方々《はう〴〵》に呻聲《うめきごゑ》が聞《きこ》える。高低《たかひく》のない、何《なに》かを搔《か》くやうな、幅《はゞ》のある丈《だけ》不思議《ふしぎ》に悠然《ゆツたり》した――のを通《とほ》り越《こ》して、もう如何《どう》なとなれと投《な》げ出《だ》したやうな呻聲《うめきごゑ》だ。今迄《いまゝで》隨分《ずいぶん》喚聲《わめきごゑ》や呻聲《うめきごゑ》を聞《き》いた事《こと》もあるが、此樣《こん》なのを聞《き》いた事《こと》がない。朦朧《ぼんやり》と薄紅《うすあか》い地面《ぢつら》には何《なに》も見《み》えないから、呻《うめ》くのは大地《だいぢ》か、それとも出《で》ぬ日《ひ》の光《かげ》に照《てら》された大空《おほぞら》かと怪《あや》しまれる。 「四ウェルスト來《き》た」、と機關士《きくわんし》がいふ。 「彼《あの》聲《こゑ》は向《むか》ふの方《はう》でするのだ」、とドクトルは行手《ゆくて》を指《さ》す。學生《がくせい》は愕然《ぎよツ》として徐々《そろ〳〵》此方《こちら》を向《む》き、 「何《なん》ですか彼《あの》聲《こゑ》は? いや、どうも、聽《き》いてをられん!」 「ま、行《ゆ》かう。」 で、私逹《わたしたち》は機關車《きくわんしや》の前《まへ》に立《た》つて步《ある》いて行《い》つた。銘々《めい〳〵》の影《かげ》が繫《つな》がつて長《なが》く〳〵線路《せんろ》の上《うへ》を這《は》つたが、影《かげ》は黑《くろ》くはない、薄朦朧《うすぼんやり》と赤《あか》かった。暗黑《まつくろ》な空《そら》の端《はし》に、處々《ところ〴〵》兵火《へいくわ》がしんめりと音《おと》もさせず鎭《しづ》まり返《かへ》つて見《み》える、それが映《うつ》るからだ。行程《ゆくほど》に例《れい》の物凄《ものすご》い、何《なに》が呻《うめ》くとも知《し》れぬ、奇怪《きくわい》な呻聲《うめきごゑ》が愈々《いよ〳〵》烈《はげ》しくなり勝《まさ》つて、血潮《ちしほ》に赤《あか》い空氣《くうき》が呻《うめ》くのか、乃至《ないし》天地《てんち》が呻《うめ》くのかとばかりに、薄氣味《うすきみ》がわるい。浮世《うきよ》には關繫《かけかまひ》なさそうに、奇《あや》しく、間斷《かんだん》なく呻《うめ》く聲《こゑ》を聽《き》けば、時《とき》としては野中《のなか》の螽斯《きり〴〵す》、單調《たんてう》で暑苦《あつくる》しさうに啼《な》く、夏《なつ》の野中《のなか》の螽斯《きり〴〵す》の聲《こゑ》に髣髴《はうふつ》たることもある。で、段々《だん〴〵》死骸《しがい》が澤山《たくさん》になる。ざツと檢《あらた》めては線路《せんろ》外《ぐわい》へ投出《なげだ》したが、皆《みな》もう何事《なにごと》にも頓着《とんぢやく》のない、物《もの》に動《どう》ぜぬ、頽然《ぐたり》とした死骸《しがい》で、その轉《ころ》がつてゐた跡《あと》には、地《ち》に吮込《すひこ》まれて血潮《ちしほ》が黑《くろ》く膩《あぶら》ぎつて汚點《しみ》のやうに見《み》える。初《はじ》めは數《かず》を讀《よ》むでゐたが、其中《そのうち》に間違《まちが》へたから、それなりにして了《しま》つた。死骸《しがい》は隨分《ずゐぶん》有《あ》つた、――夜氣《やき》水《みづ》の如《ごと》く、其處《そこ》ら一|面《めん》押《おし》なべて呻聲《うめきごゑ》だらけの、氣味《きみ》の惡《わる》い夜《よる》にしてから、餘《あま》り有《あ》り過《すぎ》る程《ほど》に有《あ》つた。 「何《なん》だあれは?」とドクトルが叫《さけ》んで、誰《だれ》を嚇《おど》す積《つもり》なのか、拳《こぶし》を固《かた》めて揮《ふ》つて示《み》せて、「一寸《ちよツと》――聽《き》いて御覽《ごらん》…」 もう頓《やが》て五ウェルストになる。呻聲《うめきごゑ》は愈々《いよ〳〵》判然《はつきり》と際立《きはだ》つて來《き》て、もう此聲《このこゑ》を出《だ》す引歪《ひきゆが》めた口元《くちもと》も眼《め》に見《み》えるやうな心地《こゝち》がする。薄紅《うすあか》い靄《もや》は此世《このよ》の物《もの》とも覺《おぼ》えぬ怪《あや》しき底光《そこびかり》を含《ふく》んで眼《め》も綾《あや》に迷《まよ》ふ中《なか》へ、私逹《わたしたち》が恐《おそ》る〳〵看入《みい》つた時《とき》、殆《ほとん》ど足元《あしもと》の線路《せんろ》の下《した》で、救《すくひ》を呼《よぶ》ぶが如《ごと》く、泣《な》くが如《ごと》く、高《たか》く呻《うめ》く聲《こゑ》がする。聲《こゑ》の主《ぬし》の負傷者《ふしやうしや》は直《す》ぐ見付《みつ》かつたが、手提《てさげ》の光《かげ》に照《てら》し出《だ》された其面《そのかほ》を見《み》れば、面中《かほぢう》が眼《め》ばかりかと思《おも》はれる程《ほど》大《おほ》きな眼《め》だつた。呻《うめ》き止《や》んで私逹《わたしたち》の面《かほ》や手提《てさげ》を旋次《せんぐり》に看《み》る其《その》眼《め》の中《うち》には、人影《ひとかげ》火影《ほかげ》を認《みと》めて喜《よろこ》んで狂《きやう》せんとする色《いろ》の外《ほか》に、尙《な》ほそれが直《す》ぐ幻《まぼろし》と消《き》えやうかと、畏《おそ》れて狂《きやう》せんとする色《いろ》も動《うご》いてゐた。或《あるひ》は斯《か》う火《ひ》を翳《かざ》して屈《こゞ》み掛《かゝ》つた人《ひと》の姿《すがた》が、血塗《ちみどろ》の夢《ゆめ》の中《うち》にもや〳〵となつた事《こと》が、既《も》う幾度《いくたび》も有《あ》るのかも知《し》れぬ。
尙《な》ほ進《すゝ》まんとして、忽《たちま》ち又《また》二人《ふたり》負傷者《ふしやうしや》に出遭《であ》つた。一人《ひとり》は線路《せんろ》の上《うへ》に倒《たふ》れてゐて、今《いま》一人《ひとり》は溝《みぞ》の中《なか》で呻《うめ》いてゐた。此等《これら》を收容《しうよう》する時《とき》、ドクトルは怒《いかり》に身《み》を戰《わなゝ》かせて、此方《こちら》を向《む》き、 「如何《どう》です?」 といつて面《かほ》を反《そむ》けた。數步《すうほ》すると、向《むか》ふから輕傷者《けいしやうしや》が、片手《かたて》で片手《かたて》を支《さゝ》へて、一人《ひとり》で步《ある》いて來《き》た。仰向《あふむ》いて來《き》て私逹《わたしたち》に衝當《つきあた》りさうだつたから、道《みち》を開《ひら》いて通《とほ》してやつたが、一|向《かう》氣《き》が附《つ》かぬらしい。恐《おそ》らく私逹《わたしたち》の姿《すがた》が眼《め》へ入《はい》らなかつたのであらう。機關車《きくわんしや》の前《まへ》でト立止《たちどま》つて直《す》ぐと身《み》を轉開《かは》して其《その》橫《よこ》へ出《で》て、今度《こんど》は車輛《しやりやう》に沿《つ》いて行《ゆ》く。 「こら、お前《まへ》その汽車《きしや》に乗《の》れ!」とドクトルが呼《よ》び掛《か》けたが、返答《へんたふ》もしなかつた。
此等《これら》を手始《てはじ》めとして、淺《あさ》ましい姿《すがた》が頓《やが》て線路《せんろ》の上《うへ》にも側《そば》にも頻《しきり》に出遭《であ》つて、深々《しん〳〵》と赤《あか》く兵火《へいくわ》の照反《てりかへ》した野《の》は、魂《たましひ》でも入《はい》つたやうに、一|面《めん》にざわつき出《だ》し、大叫喚《だいきうくわん》、號泣《がうきふ》、呪咀《じゆそ》、呻吟《しんぎん》の聲《こゑ》がクワツと起《おこ》る。隆然《むつくり》と高《たか》くなつた黑《くろ》い物《もの》の影《かげ》が蠢《うご》めきのた打廻《うちまは》る所《ところ》を見《み》れば、まだ夢《ゆめ》ながら籠《かご》を出《だ》された蟹《かに》のやうに、手足《てあし》を張《は》つて、可怪《をかし》げな形《かたち》をして、どたりとして動《うご》き得《え》ぬのもあれば、しどろに覺束《おぼつか》なく藻搔《もが》くのもあつて、どれも〳〵人らしくない。或《あるひ》は默《だま》つて言《い》ひなり次第《しだい》になるのもある、或《あるひ》は呻《うめ》き、泣《な》き、惡體《あくたい》吐《つ》いて、この夜《よ》の血羶《ちなまぐさ》く人間《にんげん》の生死《しやうし》に與《あづか》らぬらしい光景《やうす》も、かうした深傷《ふかで》を負《お》うたのも、死駭《しがい》の中《なか》に獨《ひと》り取殘《とりのこ》されてゐるのも、皆《みな》我我《ひと》の所爲《せゐ》でも有《あ》るやうに、救《すく》はうとする我々《われ〳〵》を嫉視《しつし》するのもある。車室《しやしつ》にはもう負傷者《ふしやうしや》の容《い》れ塲《ば》がなく、私逹《わたしたち》の着《き》てゐる服《ふく》までグッチョリ血《ち》に濕《ぬ》れて、宛然《さながら》血雨《けつう》の中《うち》に立盡《たちつく》してゐたやうになつたのに、まだ負傷者《ふしやうしや》を運《はこ》んで來《き》て、蘇《よみがへ》つたやうに見《み》える野《の》は何時《いつ》までも物凄《ものすご》く蠢《うご》めき渡《わた》る。
或者《あるもの》は自分《じぶん》も這《は》ひ寄《よ》り、或者《あるもの》はふら〳〵として倒《こ》けては起上《おきあが》り〳〵來《く》る。中《なか》にも一人《ひとり》殆《ほとん》ど走《はし》つて來《き》たのがあつた。と、見《み》ると、面《かほ》はひしやげて、一《ひと》つ殘《のこ》つた眼《め》ばかりが物凄《ものすご》いすさまじい光《ひかり》を湛《たゞ》へ湯上《ゆあが》りの人《ひと》のやうに、殆《ほとん》ど一|糸《し》をも着《つ》けてゐない。私《わたし》を衝退《つきの》けて、一《ひと》つ眼《め》でドクトルを探《さが》し出《だ》し、呀《あツ》といふ間《ま》に無手《むず》と左手《ゆんで》に胸倉《むなぐら》を取《と》つて、 「うぬ…者面《しやツつら》打曲《はりま》げるぞ!」 と、かう一《ひと》つ喚《わめ》いて置《お》いて、それから小突《こづ》きながら、悠々《ゆツたり》と、其《その》癖《くせ》口汚《くちぎた》なく毒《どく》づく。 「貴樣《きさま》の面《つら》をグワンとやるのだ。このド畜生《ちくしやう》め!」 ドクトルは振放《ふりはな》して、ヤツと立向《たちむか》ひ、息《いき》を塞《つま》らせ〳〵罵《のゝし》つた。 「野郞《やらう》、軍法《ぐんぱふ》會議《くわいぎ》に掛《か》けるぞ!
監倉《かんさう》だぞ!
人《ひと》の職務《しよくむ》の邪魔《じやま》しやがつて… この野郞《やらう》! この畜生《ちくしやう》!」 中《なか》へ入《はい》つて引分《ひきわ》けたが、引分《ひきわ》けられても兵《へい》は尙《な》ほ罵《のゝし》り止《や》まず、久《しば》らくは唯《たゞ》、 「こン畜生《ちくしやう》!
者面《しやツつら》打曲《はりま》げるぞ!」 とばかり。
私《わたし》はもう耐《た》へられなくなつたから、一|服《ぷく》して休《やす》まうと、片脇《かたわき》へ退《の》いた。手首《てくび》の血《のり》はパサ〳〵に乾《かは》いて、黑《くろ》手袋《てぶくろ》を穿《は》めたやうに、指《ゆび》もぎこちなく、マッチやシガレットをつい取落《とりおと》す。斯《やうや》く喫《の》み出《だ》すと、烟草《たばこ》の烟《けむり》も平常《いつも》のやうにもなく變《へん》に見《み》えて、其《その》味《あぢ》も全《まつた》く異《かは》つてゐる。こんな烟草《たばこ》は後《あと》にも前《さき》にも喫《の》んだ事《こと》がない。其《その》時《とき》學生《がくせい》の看護手《かんごしゆ》が側《そば》へ來《き》た。一|緒《しよ》に汽車《きしや》に乗《の》つて來《き》た彼《あの》男《をとこ》だのに、何《なん》だか數年《すねん》前《ぜん》に逢《あ》つた人《ひと》のやうに思《おも》はれて、さて何處《どこ》で逢《あ》つたかゞ憶《おも》ひ出《だ》せない。學生《がくせい》は直《ひた》と踵《かゞと》を地《ち》に着《つ》けて行進《マーチ》の步調《ほてう》で步《ある》いて來《き》たが、私《わたし》の身體《からだ》越《ご》しに何處《どこ》ともなく遠《とほ》くの空《そら》を眺《なが》めて、 「これだのに皆《みんな》寢《ね》てゐるのだ。」 と何《なん》だか落着《おちつき》拂《はら》つてゐる。私《わたし》は自分《じぶん》の事《こと》のやうに憤然《やつき》となつて、 「だつて、君《きみ》、十日《とをか》も獅子《しゝ》のやうに奮鬪《ふんとう》したのだもの、其《その》筈《はず》ぢやないか?」 「これだのに皆《みんな》寢《ね》てゐるのだ。」 と學生《がくせい》は私《わたし》の身體《からだ》越《ご》しに空《そら》を眺《なが》めながら、反覆《くりかへ》していつて、さて私《わたし》の面《かほ》を覗《のぞ》き込《こ》むやうにして、人差指《ひとさしゆび》を鼻《はな》の先《さき》で揮《ふ》り〳〵、矢張《やツぱり》膠《にべ》もなく落着《おちつき》拂《はら》つた調子《てうし》で、 「能《よ》く聽《き》いて置《お》きなさい、能《よ》く。」 「何《なに》を?」 學生《がくせい》は愈々《いよ〳〵》面《かほ》を覗《のぞ》き込《こ》むで、理由《わけ》ありさうに人差指《ひとさしゆび》を揮《ふ》り〳〵、辻褄《つじつま》の合《あ》つた話《はなし》の積《つもり》らしく、矢張《やツぱ》り一《ひと》つ事《こと》をいふ。 「能《よ》く聽《き》いて置《お》きなさい、能《よ》く。皆《みんな》にも然《さ》う言《い》つて貰《もら》ひたいのだ。」 佶《きツ》と私《わたし》を見据《みす》ゑたまゝ、も一|度《ど》人差指《ひとさしゆび》を揮《ふ》つて見《み》せて、ピストルを取出《とりだ》すや、ドンと一|發《ぱつ》我《われ》と我《わが》顳顬《こめかみ》へ擊込《うちこ》んだ。けれども私《わたし》は少《すこ》しも驚《おどろ》かず、平氣《へいき》でシガレットを左《ひだり》の手《て》に持易《もちか》へて、指《ゆび》で其《その》創口《きずぐち》を觸《さは》つて見《み》て、汽車《きしや》の在《あ》る方《はう》へ行つた。 「あの學生《がくせい》はピストルで自殺《やり》ましたぞ。尤《もつと》もまだ息《いき》はあるやうだが…」 と私《わたし》がドクトルにいふと、ドクトルは私《われ》と我《わが》頭《あたま》に武者振《むしやぶ》り附《つ》いて、唸《うな》るやうに、 「馬鹿《ばか》め!… もう汽車《きしや》は一|杯《ぱい》だ。彼處《あすこ》にも今《いま》に自殺《やり》さうなのが一人《ひとり》居《ゐ》るのだ。私《わたし》だつて然《さ》うだ」、と忌々《いま〳〵》しさうに叱《しか》るやうに言《い》つて、「自殺《やり》かねない。全《まつた》く! だから、貴方《あなた》は――步《ある》いて行《い》つて貰《もら》ひませう。もう載《の》せる餘裕《せき》がない。其《それ》が不服《ふゝく》なら、吿發《こくはつ》なさい。」 と喚《わめ》き〳〵餘所《よそ》を向《む》いて了《しま》つた。今《いま》に自殺《やり》さうだといふ男《をとこ》の側《そば》へ行《い》つて見《み》たら、それは看護手《かんごしゆ》で矢張《やツぱり》學生《がくせい》出《で》らしかつた。立《た》ちながら車輛《しやりやう》の羽目《はめ》へ額《ひたへ》を押當《おしあ》てゝ、肩《かた》で浪《なみ》を打《う》たせて泣《な》いてゐる。 「泣《な》くな〳〵」、と私《わたし》は其《その》浪《なみ》を打《う》つ肩《かた》へ手《て》を遣《や》つた。 が、振向《ふりむ》きもせず、返答《へんたふ》もせず、泣《な》いてゐる。看《み》ると、頸窩《ぼんのくぼ》が自殺《じさつ》した學生《がくせい》のそれのやうに若々《わか〳〵》しく、矢張《やツぱ》り無氣味《ぶきび》だ。酔漢《よひどれ》が汚《むさ》い物《もの》でも吐《は》いてるやうに、意久地《いくぢ》なく兩足《りやうあし》を踏擴《ふみはだ》けてゐたが、首筋《くびすぢ》の血《ち》に塗《まみ》れてゐたのは大方《おほかた》手《て》で抑《おさ》へたからだらう。 「泣《な》くなと言《い》へば!」と私《わたし》は癇癪聲《かんしやくごゑ》を振立《ふりた》てた。 と、其《その》看護手《かんごしゆ》は蹌踉《よろ〳〵》と車輛《しやりやう》を離《はな》れて、投首《なげくび》して、老人《らうじん》のやうに背《せ》を圓《まる》くし、私逹《わたしたち》を棄《す》てゝ置《お》いて、何處《どこ》ともなく闇黑《くらやみ》の中《うち》へ行《ゆ》く。何故《なぜ》だか、私《わたし》も其《その》跟《あと》に隨《つ》いて、汽車《きしや》を後《あと》にして、何處《どこ》を目的《めあて》ともなく、久《しば》らく二人《ふたり》で步《ある》いて行《い》つた。看護手《かんごしゆ》は泣《な》いてゐるらしかつたが、私《わたし》も何《なん》だか佗《わび》しくなつて、泣出《なきだ》し度《たい》やうな氣持《きもち》がする。 「一寸《ちよツと》待《ま》て!」と大聲《おほごゑ》に言《い》つて私《わたし》は立止《たちど》まつた。 が、看護手《かんごしゆ》は背《せ》を圓《まる》くして、重《おも》たさうな足取《あしどり》で行《ゆ》く。肩《かた》を窄《すぼ》めて足《あし》を引摺《ひきず》り〳〵行《ゆ》く姿《すがた》は、宛然《さながら》の老人《らうじん》だ。軈《やが》て明《あかる》く見《み》えても照《て》りもせぬ薄紅《うすあか》い靄《もや》の中《うち》に其《その》姿《すがた》は消《き》えて、私《わたし》一人《ひとり》になつて了《しま》つた。
左手《ゆんで》に遠《とほ》く朦朧《もうろう》として一|連《れん》の火影《ほかげ》が流《なが》れるやうに過《す》ぎて行《ゆ》く。汽車《きしや》が戾《もど》つて行《ゆ》くのだ。私《わたし》は死《し》んだ者《もの》死《しに》かゝつた者《もの》の中《なか》に一人《ひとり》取殘《とりのこ》されたのだが、死《し》んだ者《もの》死《しに》かゝつた者《もの》で收容《しうよう》漏《もれ》になつた者《もの》はまだ何位《どのくらゐ》あつたか知《し》れぬ。近《ちか》くは寂然《しん》としてゴソリともいはぬけれど、離《はな》れては野《の》に魂《たましひ》の有《あ》るやうにザワ〳〵と蠢《うご》めく――と、さ、一人《ひとり》だから思《おも》はれたのかも知《し》れぬ。兎《と》も角《かく》も呻吟《しんぎん》の聲《こゑ》は絕《た》えぬ。子供《こども》の泣《な》くやうな、夥多《あまた》の子犬《こいぬ》が棄《す》てられて凍《こゞ》え死《し》なむとして啼《な》くやうな、繊細《かぼそ》い、便《たよ》りない聲《こゑ》で地上《ちじやう》一|面《めん》に擴《ひろ》がつて、之《これ》を聽《き》いて居《ゐ》ると、銳《するど》い〳〵際限《はてし》もない氷《こほり》の針《はり》を惱《なう》に突徹《つきとほ》されて、そろり〳〵と拔差《ぬきさし》されるやうな氣持《きもち》がして…。
(斷篇第六)