Part 2
叔父を見舞つた日から又數日過ぎた。
一日として鶴のことを考へない日はなかつた。自分には鶴と一緖になつて始めて全人間《ホールのにんげん》たることが出來るやうに思へた。何かかくにつけ、讀むにつけ、見るにつけ鶴が居たらと思ふ。嬉しい時も淋しい時も悲しい時も、美しいものを見る時も、甘味《うま》いものを食ふ時も鶴と一緖だつたらと思ふ。
自分はよき父と、よき母と、よき兄と、よき義姉と、よき姪と、よき友を持つてゐる。『君程仕幸な人はない』とよく友は云ふ。自分もさう思ふ。しかし自分は更に愛するものと、賴つてくれるものを望む。自分は女に餓えてゐる。
自分は『この上例の人と夫婦になれたら末恐ろしい』と一二年前に麻布の友に話したことがあつた。しかし末恐ろしい程の幸福を正道を踏んで味つて見たい。自分の運命を犧牲にすることなしに味つて見たい。
自分は五年前からこの幸福に憧がれてゐる。さうして鶴も自分を戀してゐてくれるやうに思つてゐる。自分が鶴を戀してゐるやうに鶴も自分を戀してゐるやうに思つてゐる。さうして自分が鶴と夫婦になれた時のことを夢みてゐるやうに鶴も自分と夫婦になれる時のことを夢みてゐるだらうと思つてゐる。 それにしても川路氏から何とか云つて來さうなものだ。
自分は不安を感じながら樂しみにして、希望に燃えて川路氏から何とか云つてくるのを待つてゐた。もう川路氏は鶴の處へ行つて下さつたヾらう。何とも云つてこないのは面白くない返事だつたからかも知れない。いや用があつてまだ行つて下さらないのだらう。それとも鶴の自家で最後の决斷を與へる爲に返事をおくらしてゐるのかも知れない。お目出たい自分にはどうもその方がほんとのやうに思へる。 あれは三月二日の晚のことだつた。待ちに待つた川路氏から手紙が來た。自分は、『幸あれ』と心に祈りながら不安と希望に燃えながら封を切つた。さうして讀んだ。自分は腹が立つた。
鶴の父に川路氏は逢つていろ〳〵話して下さつたのだが、先方は依然として、鶴のまだ若いこと、鶴の兄のまだ嫁《よめ》をもらはないことを云つて、今その話はきめたくないと斷つたさうである。さうして他からも醫學士とか何十萬圓の金持の息子とかからも結婚を申し込んで來たが此方と同じ答へで斷つてゐると云つたさうである。川路氏はもつとつつこんで云はうと思つたけれども反つてそれが爲に話をやぶるやうなことがあつてはいけないと思つて、曖昧にして歸つて來られたさうである。
川路氏は手紙に、なほ他の方法で骨折る心算だが時期をまつ方がいヽと思ふと書き加へてあつた。
自分は全身に力を入れた。さうして自分は勇士である、勇士であると鼓舞したが、やヽともすると淚が出てくる。もう駄目になつたのだ。とりつく島もないのだと思はないではゐられなかつた。十時頃床に入つた。さうして泣いた。 しかし何時のまにか寢ぐるしい眠りに入つた。一時頃目が覺めた。自分をあはれむ情が强く起った。自分はたまらないので起きて日記をつけた。
三日 一時頃目覺む。
自分は悲しく思つた。餘りだと思つた。はがゆく思つた。どうかしたいやうに思ふ。自分は淚ぐんだ。
自分は足かけ五年前から一日も彼女のことを忘れたことはない、これは自業自得である。この罪は自分にあつて他人にあるのではない。しかし自分は自分を憐まないではゐられない。かくまで目出たく出來てゐる自分を憐まないではゐられない。
彼女を戀し始めたのは三十〇年九月である。それから滿三年半たつてゐる。この間自分は何時でも彼女と結婚したい、結婚しなければいけないと思つてゐた。 さうしてその裏には彼女の爲にもそれがいヽことだと信じてゐた、彼女もそれを望んでゐるやうに思はれた。
馬鹿だ〳〵かくまで自惚れる自分は馬鹿にちがいない。 かくて自分は母や父を無理に賛成さした、それまでに十九ケ月を要した。自分はかくまで苦んでゐるのだ。 かくて自家の人を始めとして川路氏や友に非常な同情を得たのである。同情をかち得る身はたまらないものである。自分は平氣な顏をしてゐる、又平氣な時が多い、しかしこの爲に何度泣いたか、何度胸がせまつたか、何度不安になつたかわからない。 この憐な自分に本人の鶴がいさヽかの同情をもたないならば自分はこの緣談をこちらからお斷りしたく思ふ。
緣談に冷淡なのは父であらう。しかし鶴がどうかしてくれるならば鶴の父ももつとどうにかなつたらう。
鶴は自分のことなんか、なんとも思つてゐないのだらう。
鶴がなんとも思つてゐないならば自分は鶴を妻にすることを好まない、多くの人をわづらはしてまで鶴の夫になりたくない。それ程お目出度い男になりたくない。
勝手になれである。
鶴に自分の妻になることが幸福でなければ、自分に鶴の夫となることが幸福なわけはない。
自分を夫にもつことをいやがるやうな女、そんな女は妻にしたくない。そんな女を妻にして喜ぶ程自分は肉慾許りの男ではない。
鶴の心が見たい。
鶴はもう自分のことを知つてゐるはづだ。知つてゐながら僕の不安な狀態にゐることに向つて、いさヽかも同情せずこの不安の狀態から救はふとすら思はないならば、鶴に自分の妻たるの資格はないのだ。 たヾ鶴が自分を愛し自分を憐れんでゐるが、鶴自身の力のないことを知つて默つてゐるならば鶴は憐な人間である。
自分には鶴はこの憐な人間のやうにも思はれる、さう思はれる限り、自分はこのことを思ひ切らない。 かくてこそ思ひ切らないことが男らしく自分には思へ、思ひ切らないことがいヽことのやうに見えるのである。 この思ひ方がまちがつてゐるならば自分は思ひ切つて見せる。
彼女の心が見たい。
彼女の心は見ることは出來まい、彼女はとらわれてゐる女であらう。父と兄に自分の運命をたくしてゐる女であらう。それをいヽことに思つてゐる女であらう。
情の動くまヽに自分の身を任すことを罪惡としか思へない女であらう。 かヽる女に自我はない。
自我のない女に自分の心の内の秘密を人にもらすだけの勇氣はない。自分にきく機會がないが、他の人に聞いてもらつても駄目だらう。 しかし聞いてもらいたい、かう云ふ問題について女は可なり大膽である。女の一生はこの問題できまるのだから。しかしよし聞くことが出來ても力なき鶴の答はオヽソリチーのないものだらう。
時期をまつより他はない、不安をつヾけるより他はない。 しかし不安な狀態をつヾけるのはいやなものだ、もうつヾけすぎた。
鶴が自分を愛してゐるか、愛してゐないかヾ知りたい、それを知れば思ひ切るのも切りいヽし、不安をつヾけるのもつヾけ甲斐が出來るわけだ。(夜、二時十分) 自分は日記にこれだけ書いたら少しは頭が休まつたやうに思つたので寢やうとした、しかしまだ興奮してゐる、自分は又おきた、目出度しと云ふ題をつけて次の新体詩を泣ながらかいた。 [#ここから1字下げ] 『思ひ切れ〳〵 今となつて彼女のことを思ひ切らざるは 餘りに女々し 多くの男に戀さるヽ女 汝のことのみ思ふはずなし
思ひ切らず〳〵 我思ひ切らず
女々しき汝よ 思ひ切らざるにあらず 思ひ切れざるなるべし 男なる汝よ 男らしく思ひ切れ 汝を愛せず、汝の爲をはからぬ 女を思ひ切れ
我を愛せず?
我が爲をはからず? そを我は眞に知るまで 思ひ切らず〳〵 思ひ切れざるに非ず 思ひ切らざるなり。
汝三度求婚して 三度とも彼女の父よりていよく斷られたるに なほ彼女が汝を愛しつヽありと思ふか
我れは思ふ〳〵 彼女の父の言葉 我をしてしか思はさヾる爲には 餘りによわし
目出度き哉 甚もつて目出度き哉 我は目出たし 目出度し 汝の思ひおるよりも 更に目出たし 我、彼女を見すてることを 見す〳〵彼女を不幸におとすことヽ思ひおる也 されば我、思ひ切らず 思ひ切らざるを以てほこりとす
我たヾ驚く 云ふべき言葉を知らず
さなり〳〵 汝の忠吿をきかんには 我餘りに目出たし 目出たし〳〵 目出たき故に他人と自分を苦しめる程 目出たし [#ここで字下げ終わり]
九
自分はその翌日、即ち三月四日に鵠沼の東屋に行つた。春休には間があるので客は少なかつた。自分は二階の江の島の見える、日照りのいヽ室を占領した。
自分はこヽへ來て、勇氣を養はうと思つたのだ。鶴のことはすべて川路氏と運命に任せ、その事に就ては一切考へず、身体と思想を健全にしやうと思つた。自分はこの頃少し神經質になりすぎてゐると思つたのだ。
本もなるべく讀まずに四日間濱や田圃を步きまわつた。さうして五日目に自家《うち》に歸つた。
自分はそれからなるべく鶴のことを考へないやうにしたが、やヽともすると考へられてくる。さうして三月の十五六日になると何時の間にか自分と鶴は夫婦になるやうな氣になつた。
自分はまだ鶴が自分を戀してゐるやうに思つてゐる。それにもまして運命が自分と鶴とを夫婦にしなければおかないやうな氣がする。 『なぜ?』と聞かれても『なぜだか』としか答へられない。自分の頭は理窟ぽいがどうしてかこの不合理なことを信じてゐる。信じ切つては居ないがさう思はれる。 この自分の氣持は說くことの出來ないものである。しかし一昨年の一月五日に小說風にその說明をしやうとしたことがある。その終りにこんなことが書いてある。 * * * * * ………彼女が熱烈に自分を戀する故かとも思つた。しかし彼女のそぶりはどうもさう熱烈に自分を戀してゐるやうには見えない。少くも嫌つてはゐないやうだが、愛しても居ないかも知れない。さうして見た處、さう熱烈な女らしくはない。自分が彼女と結婚しないと自棄《やけ》を起して自殺しはしまいかと無理に想像して見るが、どうもさう云ふ女らしくはない。自家の人の命ずる處にゆきさうな溫和しい、どつちかと云ふと昔風な、女らしい女である。どうも之も結婚しなければならない理由になるには薄弱だ。 どうしても自分が彼女を戀してゐる。さうして彼女と夫婦になりたく思つてゐる。さうしてならないではならないと感じてゐるとしか云へない。 しかし自分にはかう云ふ感じがたヾ無意味なものとは思へない。思ひたくないからかも知れないが思へない。さうしてかう思つてゐる。 この事實、往來で時々逢ふ近所の十七八の女、優しくつて、美しくつて、淋しくつて、溫和しさうな、それで可なり快活な女。その女とは話たこともなければ挨拶したこともない。名も知らなければ性質も知らない。たヾ自分が十五六の時から逢つて逢ふ度に互に見かはす、さうして見かはした暫くの間、何時でもいヽ感じのした女。その女を自分は一昨年からほんとに戀し出した。さうして自分はその女と夫婦になりたく思つてゐる、さうして又今迄になく道德的にも夫婦にならなければならないと思つてゐる。 この事は自分には未だ甞つて經驗したことのないことである。自分は今迄の戀に於て自分は結婚する資格ないものと思つてゐた。しかるに今度の戀は自分に彼女と結婚せよと命じてゐる。
自分はこの事實の裏に自然の命令、自分の深い神秘な默示があるのではないかと思ふ。この默示は 『汝、彼女と結婚せよ、汝の仕事は彼女によつて最大の助手を得ん。さうして汝等の子孫には自然の寵兒が生れるであらう』 と云ふのだ。
之が自分の迷信である、どうしてか、さう思へる。さうして運命がお夏さんを戀させて失戀させたのは彼女と自分を結びつけるためではなかつたらうかと。
自分は今迄下等なことをした。しかし自然の默示には背かなかつたと思つてゐる。さうして近頃になつて自分は自然の默示を幾分か解し得た心算《つもり》でゐる。 されば自分はこの迷信してゐる默示に從はないことを恐れてゐる。自分はこのことを父にも母にも云はない。云つた處が笑はれるにきまつてゐる。しかし自分一人ではさう思つてゐる。それで父や母の氣嫌を一時そこねてもこの迷信に從はうと思つてゐる。父や母に背くのはいやだ。しかしまだ救はれる。自然に背くのは末恐ろしい。
自分はこの迷信をほんとの迷信かと思ふ。さうして父や母を喜ばせやうかと思ふ。しかし自分はもしこれが迷信でなかつたら大變と思ふ。 だから自分は父や母に得手《えて》勝手《かつて》なわからずやの我儘者と思はれても彼女に求婚して斷られるまでは誰とも結婚しないでよさうと思つてゐる。
自分は出來るだけ自然の默示と迷信してゐることに從つて成功しなかつたら萬止むを得ないが、自分の意志で背きたくないと思つてゐる。 それに淺はかな人智で自然を試みるのはわるいが、そのことが迷信か迷信でないかを知りたく思つてゐる。 かく云ふとも『それは君が彼女と結婚したいからそんな理窟をつけるのさ』と云ふ人があれば、自分はたヾ默するより仕方がない。 * * * * * かヽる迷信を持ち得る自分はいかなる時も鶴と自分とは運命によつて合一されると云ふ希望を持ち得る。
始めはかう云ふ希望をもたうと知らず〳〵の内に苦心したかも知れない。しかし足掛五年の月日はこの希望を習慣にしてしまつた。いくらこれを否定する出來事が起つても、いくらこれを否定する理窟が立つても、何《い》つのまにか鶴と自分とは夫婦になるやうな氣がする。
十
四月一日の朝、自分は早く起きた。天氣がよくつて氣持のいい朝だつた。自分は新聞投入凾を見に行つた。自分の心は一種の興奮をしてゐる。
四月一日に自分は鶴の學校の卒業式のあることを知つてゐる。一昨年に自分はこの日鶴が紋附を着て學校に行くのを見た。さうして何處へ行つたのか夕方紋附を着て歸つてくるのを見た。自分はその時鶴が學校を卒業したのだなと思つた。その日朝日新聞に鶴の學校の優等生の名が九人程出てゐた。鶴の名はその内になかつた。
鶴は學問は餘り出來がいヽのじやないな、なまじつか優等生で卒業すると人の注意を惹いて鶴を妻にもらひたく思ふ人が出ないとも限らない。優等生でなくつてよかつたと思つた。しかし鶴は學校が始まると依然と學校に通つた。自分は未だ卒業しなかつたのだな、道理で優等生の内に名がなかつたのだなと思つた。 その後自分は川路氏から鶴の學校の成績を聞いた。さうして成績のいヽのを得意に思つた。去年の四月一日の朝日新聞にも鶴の學校の卒業生で優等の人の名が十許りのつてゐた。しかし自分は鶴の今年卒業すると云ふことを知つてゐたから別に注意しなかつた。
今年こそ鶴は卒業するのだ。かう思つた自分は四月一日に早く起きて新聞を見に行つたのだ。未だ來て居なかつた。自分は朝の空氣をすいながら庭を步きまわつた。さうして新聞配逹の鈴の音を聞きおとすまいとした。暫くして鈴の音がした。自分は一種の不安と耻かしさを覺えた。しかしすぐ見に行つた。
果して出てゐた。さうして鶴の名は第四番目にあつた。さうして卒業生は百三人である。自分は微笑んだ。さうして鼻が高いやうに思つた。 この時自分の學習院を卒業する時、三十何人の内|終《びり》から四番だつたことを思ひだした。自分はこの偶然の暗合(?)を面白く思つて更に微笑んだ。
父や母は新聞を讀んだが鶴のことには氣がつかずにゐた。自分は一時頃に母の室に行つて何げなく鶴の優等生で卒業したことを云つた。
母は『さうかい』と冷淡に云つて、『中々出來ると見えるね』とつけ加へた。自分は『さうと見えますね』と冷淡を裝つて云つた。母は改めて『あのことが早くきまるといヽね。中々いヽ人はないからね、この頃は妾はたヾお前のことだけが氣になるのだ、早くきまるといヽと思つてゐるのだ』と云つた。
自分は母がこのことに冷淡だと思ふと、このことがきまらないとまいるやうに何げなく見せかけるが、かう云はれると 『僕のことは心配する必要はありません。世の中に自分程心配する必要のない人は少ないでしやう』と安心させるやうな辨解するやうなことを云ふ。 『それでも妾にはいろ〳〵話しておきたいことがあるからね』と母は云つた。かう云はれると自分は嬉しく思ふ。さうして我知らず微笑む。鶴と母との間のうまくゆくことを信じてゐるが。母が鶴をもらうことに始め不服だつたヾけに時々は心配する。今は母がこの話に乘り氣になつてゐると思ふと嬉しい。 それにしてもうまくゆくか知らん。 その晚自分は隼町の友を訪ふた。いろ〳〵の話をしてゐる時、友は『昨晚堀出しものをした』と云つた。 『なんだ』と聞くと、 『フイデユスのいヽ繪のあるユーゲンドを捜して來た』と云つて古いユーゲンドを出して見せた。どんな繪かと急いであけて見ると、 怒濤の内を一艘のボートが走つてゆく。ボートは後半が一寸見えるだけだ。そのボートの上に若い男と女がのつてゐる。女は一心に行手を見ながら全身に力を入れて舵をとつてゐる。結つてない髮は風になびいてゐる、男は全力をもつて漕いでゐる。一言以て云へば二人は死物狂ひで或目的に向つてすヽんでゐる所がいかにも强く顯はされてゐる。
目的地は何處だ?ツーア ブラウトインゼル(許嫁の島まで)である。 『いヽだらう』と友は云ふ。 『いヽね』と自分は云つた。 しかし自分は之を見てゐる時、自分のことを思つた。自分の戀を思つた。自分の鶴と結婚しやうとしつヽあることを思つた。さうして二人を羨《うらや》ましく思つた。もし鶴がこの繪の女のやうに全力を盡して自分との結婚の爲に働いてくれたら、どんなに嬉しいだらうと思つた。自分は繪を見とれてゐるふりしてこんなことを考へた。 さうして 『いヽね、中々いヽ、フイデユスは鉛筆畵がいヽね』と自分は今迄考へた末の結論のやうな顏して云つた。 『ほんとに巧いね、氣持がいヽ』と友は云つた。
自分はなほ繪を見とれながら、鶴が自分を愛してゐなかつたら、自分の努力は滑稽なものだと思つた。さう思ふとなほ二人が羨《うらや》ましい。二人の敵は多いだらう。しかし二人の目的に向つてすヽむ時に疑惑がない。努力すればするだけの結果が顯はれるのだ。互に勵ましてゆくことが出來るのだ。互にたすけあつてゆくことが出來るのだ。互に戀してゐることを信じてゐられるのだ。
自分は羨ましく思はないではゐられなかつた。
鶴が自分を眞に愛してゐてくれ、さうして自分と夫婦になるために心から骨折つてくれたならばどんなに嬉しいだらう。それでこそ張合があるのだ。
自分は默つてフイデユスの繪を下に置いた。さうして友といろ〳〵外の話をした。
話をしながら時々フイデユスの繪を見た。さうして鶴のことを考へた。 どうしてゐるだらう。自分のことをどう思つてゐるだらう。まさか、いやな破廉耻な、厚顏《あつかま》しい。ひつこい蛇のやうな人間とは思つてゐまい。などヽも考へた。 さうして十一時迄友の處に居た。
十一
もう一年以上鶴に逢はない、もう一生鶴に逢はないかも知れない。今度逢へれば許嫁《いヽなづけ》としてヾあらう。
自分はよくさう思ふ。さうして鶴はさぞ大人になつたらう。美しくなつたらうと思ふ。しかしどんなになつたか想像することは出來ない。時には鶴は病氣をしてやしないかと思ふこともある。負傷をしやしないかと思ふ時もある。さうして鶴の醜くヽなつたこと、不具になつたことを想像することもある。その時鶴の前に跪いて私は貴女を愛してゐます、私の妻になつてくれませんか、と云ふことを想像して見る。自分は鶴の美しい顏を愛してゐる。しかしそれにもまして鶴の性格を愛してゐる心算でゐる。 しかしかう思ふ時、自分は十年前に一人の同年輩の美しき男を戀した時のことを思ひ出さないではゐられない、實に美しい人だつた。多くの學生はその人の心をとることに苦心した。その時自分はその人の不意に醜くヽなることを空想した。さうして多くの人のその人を捨てた時、自分はその前に跪いて私は心から貴君を愛してゐます、と云ふことを想像してその人の醜くヽなるといヽと思つたことがあつた。さうしてその時自分はその人の心を愛してゐると思つてゐた。
處がその人が齡とると共に醜くヽなつた。齡のせいかも知れないが、醜くヽなると共にその人を戀することが出來なくなつた、さうしてその人の性格の醜い所も氣がつくやうになつた。
父や川路氏の聞いた所によると鶴はすべての人から評判のいヽ人である。よすぎる程の女である。自分の目に映じた通りに鶴の近處の人も友逹も先生も賞めてゐるさうである。賞める許りである。しかし自分の鶴を戀し得たのは鶴の顏が美しかつたからである。美しい許りではない、美しい點だけで鶴より優つてゐる人は近處にもゐる。しかし醜くかつたら、又十人並以上でなかつたら自分は鶴をかくまでには思ひはしなかつたらう。自分は鶴の顏の醜くヽなる事を恐れてゐる。しかし今となつて鶴が醜くヽならうとも自分は鶴を捨てはしない。その時自分は鶴と結婚が出來たら喜ぶであらう。自分は始めは鶴の顏や姿を愛したらう。しかし今は鶴そのもの、目に見えないものを愛してゐると信じてゐる。しかし鶴の美しいことを望む、切に美しくなることを望む、しかし他の男の注意を惹くことを恐れる。さうしてもう鶴は多くの男の注意を惹いたにちがいない。鶴の父は他からの緣談を斷つてゐると云ふではないか。 なにしろ鶴がどうなつたか自分は知りたい。處が運命の神はこの願ひを五月十二日に叶へてくれた。 この日は水曜日で中野の友の休みの日だ。自分は天氣がいヽので不意に八時頃中野の友を訪問することにきめた。さうして直ちに自家を出た。九時頃友の家についた。暫く話してから散步した。靑々した麥畑や、雜木林の中を澄んだ空や、黑い土を見ながら步いた。都會に許り居る自分にはこの半田舎の空氣はなんだか懷かしい。 『僕も家を持つたら中野に來やうかな』と云つた。 『是非來玉へ』と友は云つた。さうして思ひついたやうに『例の話はどうなつた』と云つた。 『相變らずさ、だめとも思ふが、うまくゆくやうな氣もする』と答へた。 『どうかなりさうなものじやないか』と友は云ふ。 『もうするだけのことをしたのだから仕方がないさ』 『甘くゆくやうな氣がするがね』 『僕もさう云ふ氣がするが、駄目な方が本當だらう』 自分はかう云つた時淋しい氣がした。さうして友のかはりにわきに鶴が居たらと思つた。
自分は話頭を變へた、さうして十一時半頃まで友の所に居て歸路についた。中野の停車塲まで友は送つて來た。電車は來てゐない。さうして中々來ない。自分は來てくれない方がいヽのだ。自分は中野の友の所へ來る時、歸る時、鶴と電車で同車することを想像しないことはない。さうして電車をまてばまつ程鶴に逢ふ機會の多いやうに思へて嬉しい。 その内に電車が來た。自分は友と挨拶して電車にのつて眞中より少し後ろに腰をかけた。のつて暫くしてから出た。鶴は停車塲で電車を待つてゐるかも知れないと思つた。しかし今十二時頃だから飯を食つてゐるだらうと思ひ返した。しかし何時ものやうに大久保につくことを樂しみにしてゐた。電車が柏木に着いて一寸止つて柏木を出た。自分の胸はせばまるやうに覺えた。之は珍らしいことではない。さうしてかう云ふ感じを何十度味つたか知れないが、鶴に逢つたことはたヾ一度だつた。それは去年の四月四日である。
電車が大久保につく時、自分はこわ〳〵プラツトホームを見た。六七人まつてゐる人があつた。その内に若い女が一人ゐた。鶴じやないかと思つてゐる内に電車は益々近づいて止つた。
鶴だつた!
鶴はこの瞬間に自分に氣がついたらしかつた。後ろから乘らうとした足がこの時ピタツ[#「ピタツ」に傍点]と止つた。鶴は引きかへして前から乘つた。自分と見合つた時、目と目があつた。鶴は赤い顏して目をそむけた。さうして自分の腰かけてゐる右側に腰をかけた。鶴と自分の間には三人の人がゐた。
自分は鶴の大人になつたのに驚いた。鶴は相變らず粗末な着物を着て薄くお白粉をぬつてゐた。自分は鶴程美しい女を見たことはないと思つた。
優しい、美しい、さうして表情のある顏、生々した目、紅の口唇、顏色もいヽ、自分は鶴の顏をもつとはつきり見たいと思つた。しかし間にゐる人が邪魔になる。赤い髮の毛が一寸見えるだけだ(鶴の髮毛は赤い)自分のわきには勞働者がゐた。その隣りが軍人で、その隣りが四十許りの女で、その向ふに鶴がゐるのだ。
自分は向い側の空いてゐる席に鶴の腰かけなかつたのを殘念に思つた。しかしあわてた樣子、自分と顏をあはせるのを氣まりわるく思つて同じ側に腰をかけたことを嬉しく思つた。
新宿で可なり人がのつた。代々木では殆んど滿員になる程人がのつた。自分は老人か子供を負《おぶ》つてゐる人が來てくれるといヽなと思つた。さうすれば自分は何げなく立つことが出來る。さうして鶴を見ることが出來る。しかし自分の前には男の人のみ立つてゐる。
千駄ヶ谷で少しおりた。信濃町では五六人おりて、三四人のつた。四谷につく少し前に自分は立つた。鶴の方を見た。鶴と自分の目は逢つた。鶴はすぐ目を轉じた。自分は思ひ切つて鶴の前を通つて止ることにした。電車はとまりかけたが鶴はたヽない。さうして自分に顏を背けてゐる、電車はほんとに止つた。自分は鶴の前を通らうとした。この時不意に鶴は立つた。自分は嬉しかつた。自分の手は鶴の背中にふれた。自分は鶴についで電車を降りやうとした。この時入口のそばにゐた子供をつれた人が立つた。自分は厚顏《あつかま》しくその男をかきのけて鶴のすぐあとに從ふ勇氣がなかつた。自分は鶴と自分の間に二人を入れた。
自分は電車をおりると二人を逐ひこした。さうして改札口を鶴について出やうとした。しかし鶴は改札口に逹した時一寸後ろを見た。自分を見た。さうして身體を少し右によせて自分に先にいらつしやいと云はぬ許りの態度をとつた。自分は夫の權威を以つてさきに出た。しかし自分の心はあがつてゐた。切符を改札掛に渡さうとして落してしまつた。自分は落ちた切符をたヾ眺めて改札掛の拾ふのを見て、なるたけ落ついて停車塲を出た。出て右に折れて段々を左側のはしを通つて登つた。さうして自分はふり向いた。鶴と又顏をあはせた。一階段を登りおはつてふりかへると鶴は自分の通つたあとを登つてくる。矢張左側のはじを通つて。
自分は段を上りきる前に又ふり向いた。鶴は靜かに自分の步いた所を步いてくる。自分は登りきつて右に折れて麹町通の方へ行つた。ふり向くと鶴は段々を上りきつて未だ自分のあとをついてくる。自分はもう夢中だ、嬉しい。 『お鶴さん』と聲をかけたい程自分は親しさを感じた。さうしてさう聲をかけても鶴はおどろかないで、 『なに御用?』と笑ふやうな氣がした。自分は足はおそくなつた。自分は電車道をよこぎつて麹町通の左側を通つた。鶴は電車通をよこぎらずに右側を步いてくる。
自分は何度ふり向いたか知れない。その都度、鶴と顏をあはせた。あはせるとあはてヽ自分は顏を元に戾した。鶴も顏をそむけたやうに思ふ。
自分は鶴が自分を愛してゐてくれたと思はないではゐられなかつた。自分の心は嬉しさにおどつた。
眞心は眞心に通ずる。自分が鶴を戀してゐるやうに、矢張り鶴も戀してゐてくれたのだ。
自分の足はおどつた。自分の足はつい早くなつた。六丁目あたりに來てふり向いた時、最早鶴の姿は見えなかつた。自分は鶴は何處かの商店《みせ》に入つてゐるのではないかと思つたが見えなかつた。しかし自分は嬉しくつてたまらなかつた。自分は自家に急いだ。
鶴は自分を戀してゐるのだ。鶴は自分の妻になるのだ。二人は夫婦になる運命を荷つて生れて來たのだ。 なにしろ今日は嬉しい日だ。記念とすべき日だ。鶴も嬉しく思つてくれてるだらう。自分は自家に歸つてこの喜をもらさないではゐられなかつた。母に逢つて今日鶴に逢つてよ。鶴はそれは美しくなつてよ。僕は萬龍より鶴の方が何十倍美しいか知れないと思ひましたよ。と云ひたかつた。母は萬龍を或日見て、美しい〳〵と感心してゐたことがあつた。さうして鶴のことはさう美しいとは云はない。母に三年前自分は鶴の自分の室の窓の前を通る處を見せたことがある。
何しろ自分はおちついてゐられない。しかし母に打ちあけて云ふのは氣まりがわるかつた。晝飯食つてからもじつとしてはゐられないので神田に行つた。さうして一人鶴のことを思つて微笑《ほヽえ》んだ。
美しい、美しい、優しい、優しい、氣高い、氣高い、鶴は女だ!
自分はその夕、麻布の友を訪れて、『鶴に逢つたよ』と簡單に話した。友は『さうかい、そりやよかつたね』と云つた。
十二
自分は五月十二日に鶴に逢つてから愈々鶴と夫婦になれるやうに思つた。さうして鶴と夫婦になれたあとのことを考へた。
自分は夫婦となつたあと何時迄も幸福にゐられるやうな氣がする。世間の普通の夫婦間のやうに二人の間に面白くないことが起るとはどうしても想像が出來ない。淫慾をつヽしみ。お互にいたわつて感謝しつヽゆくならば不和はおこり得ないやうに思はれる。しかし人々は經驗ある人々はかう思ふ自分の考を若いと云つて、獨身の空想と云つて心から冷笑することを知つてゐる。
世に自己一個の經驗を笠にきて總ての若者が自分の踏んだ道をその通りふむときめて、先生顏する奴程自分にとつて癪にさわる奴はない。時分は理想的の結婚をし、理想的の家庭をもつて見せ、彼等の鼻をあかしたく思ふ。自分は彼等のやうに細君を玩弄物とは見ない。姙婦の醜くヽなること、ヒステリー的になることを自然と思つてゐる。その苦痛に多大の同情をはらつて見せる。自分は性慾の價値を眞に發揮して見せる。眞の戀を味つて見せる。自分は彼等の見出すことの出來ない禍根を見出して未だ芽の内に枯して見せる。自分と鶴の戀は彼等の戀と全然別種であることを事實によつて證明して見せる。
男女の眞の戀は種々の形をとるも永遠不滅のものであることを事實によつて證明して見せる。 しかしもし鶴と自分との禍を生むならば、どうして禍が生れるかを眞にきわめたく思ふ。
自分は鶴と結婚する爲に他人から嘲笑されるであらう。しかしその嘲笑はやがて羨望になり、更に一轉して尊敬になり、自分の結婚は理想的結婚のある雛形となり得ると信じてゐる。
何にしろ自分は自分の鶴に對する戀程、智的な運命のことを考へ、自分の仕事のことを考へ、二人の個性のことを考へた戀はないと思つてゐる。さうしてこの戀の成就によつて幾多の事實、かくれたる事實を知ることが出來るやうに信じてゐる。
自分は今や鶴と自分の夫婦になれることを殆ど疑はないやうになつた。たヾその時間が早いか遲いかヾ問題であると思ふやうになつた。しかしさすがに時々は不安になる。だめなやうな氣がする。しかし又何時のまにかうまくゆくやうに思ふやうになる。さうして別に理由もなく不斷はうまくゆくやうにきめてゐる。
五月も六月も自分は川路氏からいヽたよりがあるのを空しく待つてゐた。七月も八月も空しく果報を待つた。九月の始めに一寸沼津の千本濱に行つた。――自分は夏中東京にゐた――こヽに一週間許りゐて自家に歸る時なぞは不在に川路氏から鶴の自家でとう〳〵承知したと云ふ返事が來てゐるやうな氣がしてたのしみにして歸つて來た。しかし何にも云つて來なかつた。九月も無事に過ぎた。
十月の或日自分は氣分のいヽ淋しい秋の氣を深く呼吸しながら庭を步いてゐたら女中が來た。さうして自分に一通の手紙をわたした。
自分の胸はおどつた。川路氏からの手紙である。
自分は封を切つた、さうして讀んだ。自分は全身に力を入れた。目から淚がながれた。
鶴は人妻になつたのである。
自分は耐えやう、〳〵としたが耐え兼ねて聲出して泣いた。自分はどうしていヽかわからなくなつた。自分は夢中で庭を步きまわつて自分の室に入つて机の上に泣き伏した。 * * * * * 鶴は柏木にゐる金持の長男で、今年工學士になつた人の妻になつたのである。
十三
その後自分は鶴のことを空想の倉から出して記憶の倉の中に入れやうと努力した。しかしそれは徒らに淋しい苦しい努力であつて無益《むだ》な努力であつた。時間の手に任せるより仕方がない。
自分は花をすべてとりさられた花園の内を淋しい心をもつて自分をあざけりながら步きまわつてゐた。
女に餓えてゐる自分は他日また女を戀し得るかも知れぬ。して今の失戀を祝福する時が來るかも知れぬ。しかし今の自分にはそんな考は何にもならない。たヾ淋しい、情けない。やヽともすると淚ぐむ。
自分は旅行しやうかと思つた。このまヽゐては身体をこわしはしないかと思つた。しかし自分は自分を勇士と思つてゐる。自分を戀せぬ女が人妻にならうともそは自分にとつて幸なることであらうとも不幸なことではないはずだ。さう云ふ女を妻にしなかつたことは喜ぶべきである。自分は自業自得の失戀の爲に身体をこわすことを恐れるやうな人間ではないはずだ。自分はするだけのことをした以上は運命を甘受するだけの哲人にならなければならない人間だ。
自分は東京にとヾまることにした。さうして淋しい心をかくして平氣な顏をしてゐた。父や母や川路氏はこれならあんなにまで結婚させやうと心配しないでもよかつたと思はれたにちがいない。 しかしするだけのことをしなければどうして我慢が出來やう。それがせめてもの慰藉じやないか。最愛の兒を失つた母にとつて出來るだけのことをしたと云ふのが唯一の慰藉じやないか。
十一月三日の晚に自分は今年工科を卒業した友を訪れた。さうして何げなく鶴の夫のことを聞いた。友はよく知つてゐた。さうして快活ないヽ人だと云つた。立派な身体したいヽ人だと云つた。さうして近頃戀女房をもらつて元氣だと云ふことまでしやべつた。
自分は何げなく『さうかい』と云つた。友は話したあとで不意に『なぜ聞くのだ』と聞いた。自分は顏のほてるのを覺えた。さうしてやヽともすると淚が出さうなのでよわつた。 『一寸聞きたいことがあつたからさ』とわけのわからないことを云つた。
友は別に追窮しなかつた。 * * * * * 其後暫らくして自分は何時のまにか鶴は自分を戀してゐてくれたのだが父や母や兄のすヽめで進まずながら人妻になつたのだと理由もなしに思ふやうになつた。さうしてそれから一月もたつた。今は鶴をあはれむやうな氣分になつた。さうして鶴の運命が氣になりだした。
自分はこの感じがあやまつてゐるか、いないかを鶴に逢つて聞きたく思つてゐる。 しかし鶴が『妾は一度も貴君のことを思つたことはありません』と自ら云はうとも、自分はそれは口だけだ。少くも鶴の意識だけだと思ふにちがいない(完)⦅四十三年二月⦆
附錄(「お目出たき人」の主人公の書けるものとして見られたし)
二人⦅拙著『荒野』より⦆
こヽに男と女があつた、二人とも戀を知りそめる年頃である。二人は見たことはあるかも知れない、いや確にある。男の十三、女の十の時二人は往來で逢つたことがある。その時男は可愛らしい女と思つた、女は立派な男と思つた。しかし二人はそのことを忽ち忘れた。夢にも見なかつた。二人の家は相去ること一町半。
無論二人は話したことはない、名も知らない、第一男は女のこの世にゐることすら知らない、女は男のこの世にゐることすら知らない。しかし二人の間に全く關係はなかつたらうか。意識にのぼらぬあるものが二人の間を結びつけてはゐなかつたらうか。
男の理想の女として心に描いてゐる女こそ、その女ではないだらうか。男を假りに一郞と名づける、女を靜と名づける。一郞のぼんやり考へてゐる理想の女をつくつて、生きた女としたならば靜が出來はしないだらうか、靜の理想の男を假りに全知全能の神が作つたとしたならば一郞が出來はしまいか。
二人は畵家ではない、理想の人の顏を想像することは出來ない。二人は彫刻家ではない理想の人の骨格を知らない。二人は詩人ではない理想の人の性質を知らない。しかし二人の意識せぬあるものが戀ひしたふものがある、それは一郞にとつての靜、靜にとつての一郞であつた。
一郞が何故か知らぬが、何者かにあこがれ淋しい氣がする時、靜も何故か知らぬが、何者かに憧れる氣がして淋しくなる。
靜が不意に愉快を感ずる時、一郞も理窟なしに愉快になる。二人の間には何ものかあるに違ひない。同じ震動をして音を發するものヽ一つが音を發する時他のものも知らずに音を發する。二人の間は恰もこのやうであつた。 しかし二人はそのことを知りやうはずはない、全く知らない、不意に淋しくなり、不意に愉快になることを不思議とすら思はない。 ある日偶然に二人は往來で逢つた。よささうな人と一郞は思つた、よささうな方と靜は思つた。この時二人は戀に落ちたのである。しかし二人はそれを知るはずはない。一郞は靜のことの頭をはなれないのを不思議に思ひ、靜は一郞のことの頭をはなれないのを情けなく思つた。二人は互に忘れやうとした。しかし忘れやうとすればする程思ひ出される。二人は自分のいくぢのないのに愛想がつきた。 その夜、一郞は靜のことを、靜は一郞のことを忘れやうと思ひつヽ考へて、禁斷の果を味ふやうに不安と喜を感じた。二人は共に嚴格なる家に人となつて戀は耻かしいもの、罪なものと思つてゐる。
二人は互に名を知らない、住んでる所を知らない。しかも姿を思ひ出さうと思つてもどうしても姿は浮んでくれない。しかし忘れることは出來ない。憧れる心はいや强くなる。以前は何故か知らずに何者かに憧れたが、今は何故かは矢張り知らぬが、憧れるものに目鼻が出來た。憧れるものが意識にのぼつた。
勿論二人はこのことを正しいことヽは思はなかつた、麗はしいことヽも思はなかつた、當然のことヽも思はなかつた。互に共鳴してゐると云ふことは夢さら知らない。
其後同じ所で二人は二三度逢つた。逢ふわけである、一郞は何ものかに憧れる時、ひとりでに足が其處に向く、靜もその時そこに我れ知らず足が向くのであつた。しかし意識にのぼらぬあるものが、二人を其處に導くので多くは意識の爲にさまたげられて、二人は十に一つも逢えなかつたのである。
二人の思ひはいや增さつた。二人は淋しい所を好むやうになつた。二人は一層陰氣になつて思ひに耽るやうになつた。
一郞はどうしてかく迄自分は女々しいかと、自分を鞭打ち勇氣をつけやうとする。靜は又どうしてこんなにあの方を思つてゐるのだらうと時々自分を責めて忘れやうとする。しかしその甲斐はない、やヽともすると二人は戀しく思ひ、なつかしく思ひ、淋しい感じがして淚ぐまれる。さうかと思ふと、愛してゐるにちがひない、愛してゐらつしやるにちがひないと思はれ、ひとりでに微笑まれることもある。嬉しさうな顏をするかと思ふと、すぐ寂しい情けないやうな顏をする。しかし二人はこのことを人に知られることを恐れた。して耻かしいことのやうな氣がする。
意識にのぼることならば二人はどうかしてヾも壓へつけることが出來たであらう。しかし二人の戀し、なつかしの情は意識にのぼらぬ所よりくる。『どうしてこんなに』とは二人の自問して自答し能はざる問題であつた。
一日靜が机に向つてぼんやりしてゐる時、母は心配さうに靜に『お前この頃どうかおしではないか』と聞いた。靜は何氣なく『いヽえ』と云つたが、母の去つた後、一しほ悲しくなつて机に泣き伏した。母に心をうちあければよかつたとも思つた。暫くして不意に心をとりなほし、一人我家を出て例の所へ行く。はからずも一郞に逢つた。二人の目は合つた、はなれた、又合つた、又はなれた。二人は通り過ぎた、二人は夢中に數步步いた。一郞がこわ〴〵ふり返つた時、靜はふり向きたいのを耐えた時であつた。靜は外のものを見るふりしてふり返つた時は一郞の頭の元に戾つた時であつた。
二人は嬉しさを感じた。しかし互に愛してゐるとは確かには思はれない。二人は心をうちあけた事はない。目と目と語ることを知らない。心と心の語ることはなほ更知らない。二人は嬉しい内に淋しく悲しく感じた。 かくて一年は過ぎた、二年は過ぎた。
二人の間は依然として互に戀しなつかしと思ふのみ、相手の自分を愛することは依然として疑問である。二人は二年の間にいく度か目と目で話はしたらう、心と心と話はしたらう、しかし互に相手の名も知らず、家も知らない、心も知らない。
二
戀に悶えるものにとつて二年は短くはない。一郞は屢々父か母に自分の心をうちあけやうと思つたが、まだ大學にも入らぬ身もて、それに相手が自分を愛してゐることすらわからぬのに、その女の人の性質もしらぬ自分が、話をしたことすらない自分が、どうしてその女を心から愛してゐると親に云へやう。取りあげられずに笑はれるにはきまつた話と、たヾ心に秘して悶えてゐた。
靜も亦、自分の心を母に打ち明けやうと時々は思つたが、相手の方の名も知らず、性質も知らずたヾ往來で時々逢ふとより外說明のしやうもない人を戀しと云ふはいくら母に對しても氣まりがわるく。それに云つたからとてどうかなると云ふことでもないと思へば一人心に秘して悶えてゐた。
二人は時々はあてもなく神にお願ひをしてみることもあるが。自分ですら痴情としか思へぬことを、神樣が罸し玉ふことはあらうとも、きヽ玉ふことはないとしか思へない。二人は考へれば考へる程、忘れなければならないと思ふが、もと〳〵意識上のことではないから、忘れることも出來ない。色々のことをして思を外に轉じやうとするが、何時のまにか、二人の知らないあるものは相手を抱かんと捜してゐる。
二人は胸の悶を慰める爲に快活を裝ふて見るが、悅ぶは親ばかりで。裝ひのとれる時、なほさらさびしい。月の夜は同じく庭を散步して淚を流すこともあるが、一町半程はなれてゐる所に同じ思の人があるとは、夢さら思へない。電話で遠くの人と話すことの出來るのを疑ふ人はないが、意識にのぼらぬものを人は知りやうはずはない。
二人とてお互に愛してゐないとは思へないのである、しかしそれは痴情の仕業と心得てゐる。得手勝手に無理にさう思つて自分の心を慰めてゐるのだと思つてゐる。くり返し云ふ、目と目と話すこと、心と心と話すことは二人は知らないのである。二人は學校の稽古より外何ものも學ぶことを欲せぬものである。
二人は逢ふ前には今度逢つた時には向ふの人の自分を愛してゐるかゐないかを見きはめやうと思ふが、偶然に逢ふとびつくりして何もかも忘れてしまう。我に歸つた時は二人の通りすぎたあとである。かくて又一年すぎた。
靜の齡は十九になつた。母も父も靜の結婚のことを心配する齡となつた。しかし二人の間の有樣は依然として元の通りである。二人はたヾ自分が相手を愛すると云ふことのみ明らかになつて、相手が自分を愛すると云ふことは益々疑問となる許り、考へれば考へる程わからなくなる、末には二人は相手の人のよしあしすら疑ふやうになつた。それに色々と考へれば自分の愚かなることが明らかに目につき、自分で自分を冷笑することすら時々ある。理性の前にこの感情を持てゆく時、二人は赤面して忘れなければならないと思ふ。
或時靜に緣談がおこつた。靜はたヾそのことを否定した。しかし否定する理窟はなかつた。靜自身も否定する理窟を見出せなかつた。兩親は惡くない緣と思つたが、愛する靜がいやだと云ふのだからその緣談を斷つた。斷つたあと靜は何となく馬鹿なことをしたと思つた。もう少しさきの人を見てからことわつてもよかつたと思つた。靜の斷つた原因は、さきの人がいやだつたからではない、一郞のことを思つてゐたからである。その緣を斷つたから一郞と一緖になれるとは夢さら思はないが、そこにわからぬあるものがあつて思慮もなく靜をして斷らしたのであつた。されば考へると何となく惜しいことをしたやうな氣がする。 それから三四ケ月たつて又緣談が靜の身におこつた。今度は前より父は進んでゐる。しかし靜は今度も理由なしに氣がすヽまない。父は色々とさきの人の身分のいヽこと、學問のあること、眞面目なことを說いた。靜は父の云ふことを皆な信じて、父のゆけと勸めるのを至當のことヽ思つた。しかし何となくゆきたくない、いやだとも斷言をしなかつたが、靜のそぶりは明らかにゆくことを欲しないと云ふことを示した。それに幸に母が占に見てもらつた所が、年まわりがわるいと云はれたので、母も進まない。遂に母の靜があんなにいやがりますからと云ふので、父も不承々々に承知してその緣談を斷つた。斷つて見ると靜にはなんとなく惜しいことをしたやうに思はれる。さうして一郞のことをそんなにまで考へてゐることが、いかにも愚かに考へられてきた。話したこともなく名も知らず性質も知らぬ男の人を、なぜこんなにまで自分は思つてゐるのだらう。その内に自分も年をとる、あの方も結婚なさる………と考へられてくる。靜は自分を馬鹿だと思はざるを得ない。 その年の九月、一郞は法科の一回生になつた。
二人の心はます〳〵あせる。一郞は靜がもう誰かの妻となるべき年になつてゐると思つてゐる。しかし心に思うことを云ひ出す氣にはなれない。二人は前よりもしげく例の通に行くが、二人は今や意識に支配されて例の通に行くのであるから、調が狂つて一郞が失望して門へ入る時、靜がいら〳〵して門を出る時であつたり、靜が泣きたい思をして己が室に入つた時、一郞が靜を見んとて下駄をはく時であつたりして、二人は鶍の嘴のくいちがうやうに、くいちがうことが度々あつた。愛してゐないのだ、愛してゐらつしやらないのだと二人は時々嘆息する。 かくてその年も過ぎた。
三
一郞には靜が自分を愛してゐないとも思へるが、全然愛してゐないとは益々思へなくなる。あのまなざしは必ず自分を愛してゐるに違いないと時々は思ふのである。愛してゐるならば一緖になりたいと云ふことを自分から云ひ出さなければならないと思ふ。さうして云ひ出さないのはたヾ人から笑はれるのがいやだからである。あの女が自分を嫌つてゐるならば云ひ出しても斷られるだけであの女に迷惑をかけるわけはない。それを云ひ出されないのは自分が世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人に笑はれるのを恐れてあの女と自分の幸福を捨てるのは愚かなことであると思ふ。時にはあの女の方から一緖になりたいと云つて吳れるといヽがと一郞は思ふこともある。しかしそれは望めぬことで、望めた時は一郞の理窟がその女の厚顏なのを罵倒する時である。そのことを一郞も知つてゐる。一郞は無風流な男であるが、靜のことを思ふ時新體詩風のものを作ることがある。ある日一郞は偶然に靜に逢つた、その後ろ姿を見送つて自分に夫婦になりたいと云ひ出す勇氣のないことを責めつヽ、我家に歸つて日記に次ぎのことを書いた。
汝が後ろ姿、あはれ。
見送りて思ひぬ 我罪人よ。
我罪人よ、許してよ 我が心知らば 我と共に泣きて 汝は許さん、いとしの汝よ。 しかしかく思ふかと思ふと、又一郞は自分をもて、到底彼女の夫たる資格なきものと思ひ、自分をそれ程までに愛するわけはないと思ふ。さうすると今迄、自分があの女と一緖になることが、あの女を救ふことのやうに思つてゐたのが我ながらおかしくなる。そんなに自分を愛するわけはないと常に終りには一人ぎめにきめて、淋しき笑ひを見せる。 ある日のこと、一郞は今迄にない程淋しく悲しく感じ、机にもたれてと息をついた。その内に目が潤つてくる、淚がとめどもなく流れる、戀しなつかしの情が高まる。今迄にもわけわからずに、よく淋しくなり、一人で泣いたことがあるが、この時程ひどく感じたことはない。一郞は何故か少しも知らない、暫くして淚がとまつた。一郞は人に知らさぬやうに水で顏をふいて例の所に行つて見たが、靜の姿は見えない。常になく自棄になつて我が室に歸つて机に向つてどかつと坐ると、又耐えられなく悲しくなる。氣をまぎらさうと散歩したが、どうも淋しくて仕方がない。耐えに耐えたが、やヽともすると淚ぐむ。さうして靜のことが頭に浮んで追へども去らない。一郞も我れながら愛相がつきた。この時は靜が父と母の勸めに從つて、進まぬ氣と、我儘をすてヽ親を喜ばす爲に身を犧牲にする覺悟を以て、ある人と夫婦になることを承知した時である。夫となる人は靜自身の目より見るも自分にはよすぎる人と思はざるを得ない。無論意識にのぼる所だけでさう信ずるのである。 その後暫くは二人の悶えの時であつた。靜には幾分か理由があると思へたが、一郞は何故か知らなかつた。
或朝一郞は何心なく新聞を見ると我胸を射るものがある。戀しと思ふ人の顏が見知らぬ男の顏とならんでゐる。
一郞は矢張りあの女は自分を愛してゐなかつたのかと數日後悶えの薄らぐと共に思つた。さうして淋しい微笑を見せた。日記をとつて 彼女嫁す、我が知らざる人に、 幸あれよ彼女に! さはれ。 むつまじくあれ、彼女夫婦、 さはれ。
我祝す、 さはれ〳〵。 と書くと共に、深き淋しさを感じ、又泣き伏した。 その時は靜が、夫に淋しき心を秘して微笑んで見せた時であつた。
四
その後、數年して一郞も妻をもつ身となつた。一郞の妻は十人の見る所、靜よりも美しく氣高き女であつた。
今は靜も一郞も、自分の家庭を以て幸福な家庭と思つてゐる。さうだ意識し得る範圍内に於て二人の家庭は共に幸福なる家庭である。靜の夫は靜の信じた通りよき夫であつた。一郞の妻もよき妻である。
靜は一郞のことを殆んど忘れた。一郞は靜のことを殆んど覺えてゐない。しかし不意に二人は思ひだすことがある、その時二人は若き血に從はなかつたことを常に感謝する。もう暫くたてば二人はお互に思ひ出さなくなるだらう、さうして見ぬ昔に歸るであらう。されど二人の意識にのぼらぬ或者は、依然として共鳴するものヽやうに共鳴するだらう。
二人は今なほ時々淋しさを感ずるのである。何故か知らぬが何者かに憧るヽことがある。さうして一郞の不意に愉快になる時、靜の不意に愉快になる時であり。靜の不意に悲しくなる時、一郞の悲しくなる時である。二人の心の調べは、依然として調和されてゐる。
靜は夫を愛し、一郞は妻を愛してゐる。しかし二人の夫婦の間は、意識なしには感情の調和は望めない。二人の夫婦は意識上の夫婦である。意識にのぼることにて夫婦間になくてはならぬことは皆滿されてゐる。幸に二人は意識し得ないものヽ存在を認めないから今の自分を以て滿足してゐる。 されど、今も二人の感じて知り能はざる或ものは孤獨に泣いてゐる、さうして互に戀ひ慕つてゐる。 (四十年一月)
無知萬歲
[#ここから1字下げ] 十八歲許りの若者は机に向つてペンを持つて紙に何か書いて居る、大きな机の上にランプが乘つて居る。
若者の後ろに甲乙の二人の黑い裝束の人が居る、乙は女だ、二人共年は未詳。
若者の机の上に目覺し時計が置いてある、一時の處を指して居る。 [#ここで字下げ終わり]
甲、幸福を夢みて居る。
乙、『二人に幸あれ』と書いて居ます。
甲、『二人に幸あれ』とは夫婦になる時を指すのでしよう。しかし夫婦になるのが果して二人の幸福かどうかは靑年にはわかる譯はありません。
乙、『自分は不幸でもいヽ、彼女と結婚したい』と書きました。
甲、さうでしよう、然し不幸が來た時靑年は結婚した事を祝するでしやうか。
乙、その時になつて見なければ分らないでしよう。
甲、この靑年は分るつもりで居ます。
乙、『もし結婚することが出來なかつたらたまらない』と書きました。
甲、たまらなくつても仕方がないと云ふ事は知つて居るでしよう。
乙、知つて居ても書きたくないのでしよう。
甲、靑年は今希望に燃えて居ます、早く未來の來ることを望んで居ます。
乙、二人が夫婦になつた時の事を考へて居るのでしよう。
甲、今はなれると信じて居るやうです。
乙、さう信じて居る者は幸ですね。
甲、この男は今の戀が破れるともう一生戀人が得られないと思つて居ます。
乙、貴君《あなた》は第二の戀をする時があるのですよと今云つたら何と云ふでしよう。
甲、怒《おこ》るでしよう、淋しがるでしよう、不快に思ふでしよう。
乙、きつと夢中で打ち消すでしよう、さうして不幸の運命を自分が持つて居る樣に感ずるでしよう。
甲、その第二の戀も破れて第三の戀をする時があると云つたらどうでしよう。
乙、知らぬが佛です。
甲、一寸先は闇を喜んでいヽ譯です。
乙、その第三の戀も破れて 甲、三十歲の時、今彼が最嫌つて居る世間普通の結婚をするのだと云つたら自殺する程まいるでしよう。
乙、その妻は美しくなくつて强情ぱりだと知つたら 甲、さうして一年目に一人の男の兒をあげること 乙、さうしてそれが二月目に死ぬこと 甲、その翌年に又男の兒を產むこと 乙、さうしてその翌年に夫婦別れをすること 甲、さうしてその翌年に美しい自分より十歲若い妻君をもつこと 乙、その細君が一年目に產で死ぬこと 甲、それから一年目に初めて藝者買をしてそれを妾におくこと、それに一人の男の兒が產れるので翌年は本妻に直《なほ》すこと 乙、その女が亂《みだ》らで役者買をすること 甲、さうして繼兒をいぢめること 乙、憎くもあり、美しくもありて細君に就いて悶えること 甲、それから益々道樂をし出すこと 乙、そうして五十二歲で五人の親としてこの世を去ること 甲、その五人の兒の内二人の女の兒は自分の子でないこと 乙、さうして總領が道樂息子になること 甲、二番目のは病身なこと 乙、三番目の子は彼の死ぬ時五歲のこと 甲、長女は十四 乙、次女は七つ 甲、一家は總て亂らな細君の勝手になり 乙、死ぬ時一家の滅亡を豫期しなければならないこと 甲、さうして三十四五まで文士として相當の位置を占めて居たがやがて人から顧みられなくなり、四十位には老ぼれ扱ひをされること 乙、などを知らないので呑氣なことを書いて居ます。 『自分は餘りに幸福な人間である自分の如きものを愛する女はない樣に思ふが彼女は確かに愛して居る、恐らく彼女と自分は夫婦になれるであらう。
世の中に自分程幸福なものがあろうか末恐ろしい氣がする』 と書いて居ます。
甲、末恐ろしいは唯筆先で書いたのでしよう。
乙、世の中に自分程不幸な人があるだろうかと書く時のあることは夢にも知らないでしよう。
甲、知らないことをこの靑年の爲めに祝しましよう。
甲乙、無知萬歲! [#ここから2字下げ] 若者ペンを置きて立ち上がり、 [#ここで字下げ終わり] 若者、神樣どうか我等二人に幸を與へて下さい、二人を夫婦にして下さい。 [#ここから2字下げ] 甲乙互に見かわす。(完) (四十二年九月) [#ここで字下げ終わり]
生れなかつたら?