Part 2
あくる日の朝、鈴木はいつものやうに庭を掃除すると、包みをかゝへて、神田の私立大學へ出かけて行つたが、夕方になつても歸つて來なかつた。三時半に電燈がついて、四時半ごろからそろ〳〵暗くなつて、追ひ追ひ風呂を沸かす刻限の近づくに隨ひ、佐伯と照子は何となく其れが氣がゝりになり出した。 「鈴木はどうしたんだらうね。大變歸りが遲いやうぢやないか。」 晚飯が出來上がりかけた時、とうとう叔母がこんな不審を打ち始めた。しかし、飯が濟んで臺所が片附いて了つても、鈴木はなかなか戾つて來ない。 「ほんたうにどうしたんだらう。をかしいぢやないか。―――雪や、お前御苦勞だが、鈴木が居ないから、湯殿を焚きつけておくれ。」 叔母の不審は夜の更けると共に次第に强くなつて、口叱言がだんだん激しくなる。 「ま、もう八時だよ。冗談ぢやないどうしたつてんだらう。」―――最初は叱言のやうに口を尖らして、ブツブツやかましく呟いて居たのが、やがて泣き出すやうな、恐怖に襲はれたやうな調子と變じ、 「雪や、鈴木は今朝何時ごろに出て行つたのだい。」 風呂から上がつて來て、柱時計を眺めながら、かう尋ねた時の叔母の顏つき[#「つき」に傍点]と云つたら、まるでべそ[#「べそ」に傍点]をかいて居た。 「左樣でございますね。たしか七時半ごろでございましたらうよ。先《せん》の時分は、いつでもおかみさんの御寢間の廊下へ手をついて、『行つて參ります。』つて聲をかけたのに、此の頃は掃除をすますと、默つて出て行くんでございますよ。そりや、をかしいやうにムツツリして居りますの。」 お雪は人の心配なんぞ少しも氣に留めないで、至極無邪氣に、こんな事を訴へる。 「今朝は別段、いつもと變つたやうな樣子はなかつたかい。」 「さあ、………尤も此の二三日は大分不機嫌で、あたしと喧嘩ばかりして居りましたつけ。」 「内々《ない〳〵》で荷物でも運んで居るらしい風は、見えなかつたか知ら。」 「いゝえ、そんな樣子は………」 皆まで云はせず、叔母はもどかしさうにつかつか[#「つかつか」に傍点]と玄關橫の書生部屋へ駈け込み、戶棚から押し入れから、本箱の蓋まで開《あ》けツぴろげて、血走つた瞳を据ゑつけて一々中を檢べて見たが、 「をかしいねえ、………着物もそつくり[#「そつくり」に傍点]して居るし………」 と、云つたまゝ、呆然と彳んで了つた。 「さう云へば此處に、法律の本らしいものが、五六册立てゝございましたのに、其れが見えないやうでございますよ。」 アツケに取られたお雪は、叔母のうしろから附いて來て、暫くぽかん[#「ぽかん」に傍点]とした後、やうやう氣が付いたのか、かう云つて剝げかゝつた一閑張《いつかんばり》の机の上を指差した。
此の騷動の最中、照子は二階へ上つたきり姿を見せなかつた。實は叔母も、とうから照子に相談して、憂ひを共にしたかつたのだが、鈴木の事を云ふと、「あんな奴に何が出來るもんですか。」とか、「恐がればいゝ氣になつて增長するばかりです。」とか、てんで[#「てんで」に傍点]馬鹿にし切つて相手にならないので、遠慮して居るのであつた。けれどもかうなると、叔母も到底一了見で疊んで置く譯に行かないから、冷やかされると知りつゝ、 「照ちやん、照ちやん。」 と、今にも大變事が起りさうな惶てかたをして、けたたましく梯子段を駈け上つた。 「お前、鈴木がいまだに歸つて來ないんだよ。」 「そんなら屹度、内を逃げ出したんでせう。」 男の枕許の火鉢にあたりながら、照子は雜作もなく斷言して、母の方を振り向いても見ない。 「さうかねえ。………また例の癖が始まつたんぢやないか知らん。お前何か、鈴木を怒らせるやうな事でもしたのかい。」 女房が亭主に寄り添ふ如く、母は娘の傍へべつたり据わつて、救ひを求むるやうに膝をつけた。するとお雪が、 「おかみさん、おかみさん………」 と、階下から喉笛《のどぶえ》の吹き裂けさうな、甲走《かんばし》つた聲をあげて、 「硯箱の中に、何だか置き手紙が入れてございますよ。」 「さうかい。ちよいと二階へ持つて來ておくれ。」 續いて、再びばた〳〵と梯子段を駈け昇る音がして、お雪が爆裂彈でも運ぶやうに、氣味わる〳〵赤い封筒の書面を持つて來る。 「いゝから、お前は下へ行つておいで。」 受け取ると等しく、叔母は、狀袋の頭を引きちぎりながら、お雪を追ひ返して、勸進帳を讀むやうに、手紙を兩手で胸のあたりに支へ持つた。
斷《ことわ》つて置くが、狀袋の表には、「御主人樣」とでもあるべき處を、わざわざ「林久子殿」と叔母の本名を麗々《れい〳〵》しく楷書で認《したゝ》めてある。本文の方は半紙二枚へ、大小不揃ひの拙劣な文字が、穗の擦り切れた筆で、而も墨|黑々《くろ〴〵》と走り書きしてある。
讀んで行くうちに、叔母の眼つきは胡散らしく光つて、自然と眉を顰め唇を結び憎らしさうな恐ろしさうな、いろいろな表情を湛へたが、最後まで讀み終ると、全く顏が土氣色《つちけいろ》になつて、 「まあ、お前さん逹此れを見て御覽。」 と、二人の前へ投げ出した。人相見《にんさうみ》の所謂「死相」とは、蓋し此の時の叔母の容貌などを云ふのだらう。まるで魂飛《こんと》び神失《しつしん》して、ろくろく舌の根も動かせないらしい。
果して、どんな凄い文句が列べてあるのか知らん。―――佐伯は眩暈を堪《こら》へつゝ深い谷底を瞰下《みお》ろすやうに、蒲團から乘り出して、手紙の方へ上體を匍匐《ほふく》させた。 もう讀まない先から例の動悸が、心臓を破れんばかりに叩いて居る。照子は火鉢の緣へ頤を載せて、對角線の方面から、斜めに覗き込んで居る。 [#ここから1字下げ] 予は今夜を限りとして、二度と再び此の家に戾らぬ決心ナリ、最早や此の家の飯を喰ふも家族の顔を見るも不愉快となりたり、其の理由原因ハ、各自の胸にきいて見れば直《たゞち》に了解する筈なれど、就中《なかんづく》照子と佐伯とは、必ず思ひあたる節アラン。しかし、今一應此處に宣言すべければ、よく熟慮反省して過《あやまち》を改めよ。然らば或は、予も其の罪を赦してやる可し。
予ハ第一に照子の母たる久子の罪を鳴らさゞる可からず。汝は夫敏造氏の死後果してよく未亡人たるの勤めを完うセシヤ。敏造氏生前の遺訓に背《そむ》き、夫が唯一の忘れ紀念《がたみ》なる娘の敎育法を誤解して、照子をして今日の如く墮落せしめたるは汝の罪にあらずして何ぞや。敏造氏の生前に比べて林家の家風の頽廢せる事殆んど言語に絕エタリ、予の如きは之を憂へて幾度か忠吿したるも、汝は更に耳を傾けず、却つて予をうるさがり、甚しきは予を嘲笑して毫《がう》も反省する所アラズ。實に家名を傾くるものと云ふべし。
殊に敏造氏が娘照子を予に娶《めあ》ハセンとの遺志ありし事は明白なるに不拘《かゝはらず》、今に至つて言を左右に託し、其の婚約を破棄せんとするのみか、嘗て婚約したりし事さへも頻りに打ち消さんとするは、亡夫を欺き予を欺くの罪極めて大なり。地下の敏造氏若し靈あらば、必ズヤ泣かん。 アヽ予は汝等母子の爲めに實に半生を誤られたり矣。サレド記憶せよ、予ハ汝等に對して復讐せずんば已《や》マズ。予が敏造氏ヨリ受ケタル恩惠ヤ甚大なりと雖も汝等は予の敵ナルと同時に敏造氏の敵なるを以て、毫も假借《かしやく》スル理由ナシ。而も、事|茲《こゝ》に至る迄、予ハ幾囘カ敏造氏の知遇を思ひ、汝等の墮落を憐みて、忍び得るだけは忍びたるなるをや。
終りニ臨みて、尙佐伯に一言せん。もはや此の場合となりては最後の手段を下すに一刻の猶豫もなり難けれど、汝にして直ちに悔い改め、予が昨夜提出シタル條件を卽時實行して、林の家を立ちのかば、或は許容の道ナキニ非ズ、予ハたとへ家にあらずとも、汝等の行動ハ常に怠リナク監視しつゝあり。若し飽く迄も予に反抗するならば、それだけの用心が肝要なり。少くとも闇夜に外出する時は注意すべし。 [#ここで字下げ終わり] これで手紙は終つて居る。脅迫狀を投げ込まれたら、嘸かし恐ろしいだらうと想像して居たのが、實際にぶつかると案外恐ろしいものではない。多少薄氣味惡いだけの話である。 「はゝ、とうとう奴さん癇癪玉を破裂させましたね。」 かう云つて、佐伯は叔母の方を向いた。ところが、手紙よりも叔母の顏を見て居ると、却つて恐ろしさが感じさせられる。 「何を云つたつて、ウツチヤラかして置けば、又直き戾つて來るわ。」 照子はスツカリ手紙を讀んだ癖に、ろくろく眼を通さないやうな風をして云つた。 「ほんとに戾つて來るか知ら、あたしや今度はどうかと思ふよ………」 叔母は胴ぶるひをしながら、及び腰になつて火鉢へ掴まり、再び疊の上の書面を視詰めて居る。 「………内に居れば居るで、始終ブツブツ云つてるし、逃げ出せば逃げ出すで心配だし、あたしや彼奴にはもうもう困り切つちまふよ。それでもまあ内に居る間は斬るの突くのツて心配がないからいゝが、外へ出た日にや、何を企《たく》らんでるか判りやしないもの、ヒヨツトしたら今夜あたりだつて、内の廻りをうろついて居るかも知れない。」 三人は暫く默つて、聞くともなしに戶外の物音に耳を澄ました。晝間でもあまり人通りの繁からぬ往來の夜は眞つ暗で、板塀にぴツたり體を着けて居たら、二三尺離れるとなかなか見付かりさうもない。其の外路次の芥溜《ごみた》めの蔭でも、裏の庭木戶の片隅でも、身を隱すには究竟《くつきやう》の場所柄である。……… すると、ぱた、ぱた、と遠くの方から、人の忍び寄るやうな跫音が、三人の耳へ響き始めた。草履《ざうり》穿きか乃至は跣足《はだし》で極めて靜かに步くものがあるらしい。ぱた、ぱた、ぱた、と、音は一定の間隔を置いて幽《かす》かながらも、次第次第に内の前へ近づいて來る。やがて其の物音は、ハツキリと確實に聞き取れるやうになつて、ゴム底の足袋を穿いた車夫が、メリケンの俥を挽いて走つて居るのだと判ると同時に、家の前をどんどん素通りして行つて了つた。 「何かい、………近頃になつてお前さん逹は、鈴木に腹でも立たせるやうな事をしたのかい。」 「さうね、」………と照子はわざと仔細らしく考へて見て、「あたしなんか、てんで鈴木の方から口を利かない位なんだから、別段怒らせるやうな眞似をした覺えがないわ。」 「しかし、お前この頃二階へ上り詰めぢやないか。―――もうかうなれば、内輪同士で隱し立てをしたつて詰まらないから、本當の事を云つておくれよ。謙さんにしてもお前にしても、何か鈴木の氣に觸《さは》るやうな事があつたのぢやないかい。」 「氣に觸るやうな事ツて、どんなこと?」 「どんな事にも、こんな事にも、此の頃のやうに一日二階へ上つたきりぢや、誰だつて變に取らうぢやないか。わたしは親の慾目から、まさかそんな不行蹟はあるまいと思ふけれど、鈴木の疑ふのは、そりや尤もだよ。―――だから、お前さん逹から正直なところを聞かして貰ひたいのさ。」 「疑ふ人にはいくらでも疑はせてお置きなさいな。世間が何と云つたつて、おツ母《か》さんさへ、信じて居て下されば有難いわ。」 「それ、さう云ふ言ひ草がお前、親を馬鹿にすると云ふものだよ。折角お前の肩を持たうと思つたつて、傍から親を馬鹿にするやうな素振りがあつちや、わたしに腹を立たせるばかりぢやないか。」 かう云つて、叔母は佐伯を振り返つて、半分は賛成を求めるやうな、半分は實否を糾問《きうもん》するやうな口調で、 「ねえ謙さん、照子が萬事あれだから、わたしやほんとに手が付けられないんだよ。いくら親の眼が曇つて居たつて、お前さん逹が何をして居るかぐらゐ、大凡《おほよそ》見當はついて居ますよ。いろ〳〵と若い時分から苦勞した年寄が見れば、とやかう隱し立てをしたところで、直ぐ判るんだからね。今となつて別に叱言を云ふんぢやないから、お前さんから正直な話を聞かして貰ひませう。」 「はあ、僕も大變叔母さんに御心配を掛けちまつて、申譯がありませんが、そりや實際のところ、………」 咄嗟の場合、噓を云はうか、本當を云はうか、自分でも十分に決心しかねて、佐伯は夜具の襟から首を出したが、照子が頻りと眼くばせをするので、忽ち膽玉を太くした。 「………僕等は何の祕密もないんです。全く照ちやんの云ふ通りなんです。」 「ふうん」と、叔母は不服らしく頷いて、よく中年の男がするやうに、小紋縮緬の羽織の袖の中で、片一方の肘を突つ張つた。此の際事實の眞相を捕捉しようとする慾望よりも、二人に輕蔑されまいとする努力の方が、叔母の頭を占領して居るらしい。 「そりやおツ母さんの方が無理だわ。昔の人は、男と女が仲好くしてさへ居れば、直ぐと疑をかけるけれど、つまり此の頃の若い人間の氣持が解らないんだわ。年寄と云ふものは酸いも甘いも嚙み分けた苦勞人になればなる程、變な方へばかり氣を廻すのね。兄さんだつて、あたしだつて、立派に敎育を受けさせて貰ひながら、いまだに親の監督がなければ間違ひがあると思はれて居ちや、ほんとにやり切れないわ。男だらうと、女だらうと、趣味が一致すれば、自然と話が合ふのは當り前ぢやありませんか。誰がそんな嫌らしい事をするもんですか。」 「いゝえね、何も嫌らしい事があつたと云ふんぢやないから………」 今更叔母はアタフタして、眞赤になつて喰つてかゝる照子を制しながら、 「そんな高い聲を出さずと、もつと隱かに話をしたら判るぢやないか。―――まあ、お前逹に詰まらない疑を掛けたのは、私が惡かつたから堪忍しておくれ、ね。しかし、二人がさう云ふきれい[#「きれい」に傍点]な間柄なら、尙更痛くない腹を捜られるのは嫌だし、馬鹿を相手に喧嘩するのも下らないから、一層素直に先方の言ひ分を立てゝ、お氣の毒だが謙さんに内を出て貰つたらどうだらう。」 「そんな事をするに當らないわ。」 照子は怒りに乘じて、一氣に母の提案を揉み消しにかかる。 「おツ母さんがソレだから、彼奴はます〳〵增長するのよ。兄さんが餘所へ越したつて、私が每日のやうに遊びに行くから、やつぱり同じ事だわ。鈴木の威嚇《おど》かしぐらゐで兄さんを追ひ出したら、それこそ世間の物笑ひだわ。第一、嫌な噂が、いよ〳〵本物らしく取られちまふぢやありませんか。」 「けれどお前、命には換へられませんよ………」 こはい物が直ぐ眼の前に在るやうな顏をして、とうとう叔母は本音を吐いた。 「謙さんが出てさへ吳れゝば、それで納得すると云ふのだから、强ひてあぶない眞似をするには及ばないぢやないか。」 「それがおツ母さん感違ひをして居るのよ。兄さんが出れば出るで、今度は私に遊びに行くなとか、許嫁の約束を履行しろとか、一々云ふ事を聽いて居た日にや、際限がないわ。」 それから凡そ小一時間も、親子は盛んに云ひ爭つたが、結局埒が明かなかつた。 「兄さん、おツ母さんが何と云つたつて、遠慮しなくつていゝ事よ。おツ母さんはいつも泥棒を恐がる癖に、内の中に男が一人も居なかつたら、却つて無用心で仕樣がないわ。」 照子にかう云はれると、佐伯も自ら進んで處決する覺悟にはなれなかつた。自分も照子も、こんなに荒んで了ひながら、まだ何處か知らに戀らしい感情の殘つて居るのが、非常に不調和な、理解し難い心理狀態のやうに思はれた。 「そんならお前逹のいゝやうにおし、私やどうなつたつて知らないから。」 叔母は不平たらたら二階を退却したが、照子の下りて來るまではお雪を寢かさず、自分も長火鉢に倚りかゝつてまんぢり[#「まんぢり」に傍点]ともしなかつた。 「照ちやん、何だか氣懸りになるから、今夜からお前も此の座敷へ寢ておくれな。」 先刻あれ程口論した事を忘れて、意地も張りもなく、オメオメと嘆願すると、照子は意地の惡い笑ひ方をして、 「だつて、あたしの傍に寢て居ればおツ母さんも捲き添へを喰ふわ。」 などゝ云つた。
其の晚は殊に戶締りを嚴重にし、便所の電燈をつけ放しにして寢て了つたが、明くる日の晝間になつても、叔母の不安は容易に治まらない。戶外の格子が開く度每に、ギクリとして浮き足になり、襖の蔭からおづおづ玄關を窺つて居る。 「雪や、お前使ひに出る時には、よウく内の近所を氣を付けておくれ。」 「はい、別段だアれも居りませんやうでございますよ。」 こんな問答が、ひそかに交換される。
日が暮れて夕飯が濟むと、宵のうちから雨戶を立て切つて、叔母はつくねんと居間に据わつて居る。長火鉢には炭火がパチパチ鳴りながら眞赤に燃え上り、鐵瓶の湯が、さも心丈夫に、賴もしさうに沸《たぎ》つて居る。
照子は相變らず二階へ行つて下りて來ない。 「ちよツ。」 と、叔母は舌打ちをして、心の中で「ほんとに彼《あ》の娘《こ》は仕樣がない。人の心配も知らないで、好い氣になつて佐伯にへたばり着いて居る。………また佐伯にしたつてさうだ。どのくらゐ私が苦勞をして居るか解つたら、さツさと家を立ち退いて了ふのが當り前ぢやないか。もう一度二階へ行つて、賴んで見ようか知らん。」 バタリ、と、緣側の戶が風を孕んで内の方へめりこんだかと思ふと、今度は外の方へ吸ひつけられるやうにぎい[#「ぎい」に傍点]と動く。不意に凩《こがらし》が吹き起つたのらしい。こんな晚に火事でもあつたら………萬一|彼《あ》の馬鹿が附け火でもしたら大變である。 ぼん、ぼん、ぼん………と柱時計が八時を打つ。とたんに叔母は立ち上つて、恨めしさうに二階を仰ぎながら、梯子段を上がりかけると、「おかみさん、ちよいと」と雪が眞靑な顏をして手水場《てうづば》から飛び出して來た。 「あの、氣のせゐか、何だか變でございますよ。ちよいといらしつて下さいまし。」 「變だつて、何が變なの。」 「はゞかり[#「はゞかり」に傍点]の窓の外で、人の跫音が聞えるんでございます。」 「きつと風の音だらう。」 二人は一寸《いつすん》と傍を離れないやうにして便所の奧へ忍び込み、暫く息を凝らして見たが、跫音らしいものは更に聞えない。唯時々、非常にかすかに、人間の呼吸をするのが、すう、すう、と響いて來るやうである。それだつて、果して呼吸の響きかどうか、興奮した神經には判別がつかないが、たしかに本當だとすれば、何物かがこつそりと便所の羽目へ體をつけて、室内の樣子を捜つてゐるのだと推定される。 「噓をおつきな、なんにも變なことはないぢやないか。」 「左樣でございましたねえ。さツきはどうもをかしいと存じましたけれど、やつぱり氣のせゐでございましたよ。」 互ひに慰めるが如く、囁いて、座敷へ戾らうとしたが、大便所と小便所との境の所まで來ると、忽ち二人は凍り着いたやうにぴたり[#「ぴたり」に傍点]と立ち止まり、默つて顏を見合せて了つた。恰度彼等の囁きが終るか終らないうちに、「えへん」と云ふ咳拂ひが外に聞えたのである。何か人間以外にあんな聲を出すものがあるか知らん……… 二三分の後、叔母は齒の根と膝頭をワクワクさせて、二階へ這ひ上つた。 「いゝえ、あたしもさう思つたんだけれど、風の音ぢやないらしいんだよ。どうしよう謙さん、お前さん一ツ走り交番まで行つて來てくれないか。」 「よく確かめても見ないで、交番へ駈けつけるなんて馬鹿氣てるわ。よしんば本當だつて、泥棒なら嫌だけれど、鈴木だつたら構はないから放つてお置きなさいよ。」 「まあ、下へ行つてよく檢べて見ませう。」 かう云つた佐伯は、多少眼の色を光らせて居たが、兎に角勇氣凛々たるものであつた。大方照子に臀を押されて、否應なしに奮發したのだらう。「人殺し」―――言葉だけでも物凄いのに、不思議な事には、自分ながらをかしい程落ち着き拂つて二人の先へ立ちながら、便所へ下りた。 「どうも、僕にはそんな音が聞えませんな。一つ緣側の戶を外して、庭へ出て見ませう。」 「謙さん何をお云ひだい。戶なんぞ開けたら、尙あぶないぢやないか。―――わたしは戶外《おもて》へ逃げて行くよ。」 「なあに、大丈夫です。」 高い橋の欄干から身投げをするやうな、ひやツとした心地を壓へ付けて、戶袋に近い雨戶を一二枚繰り開ける。と、眞つ暗な庭から、素晴らしい勢で寒風がひゆうツと舞ひ込んだ。
照子は電燈の綱を延ばして、佐伯の後から庭の木の間の彼方此方へ光線を振り向け始めた。最初に左の塀の隅の、桐の木の周圍がまざまざと明るみへ浮んで、春日燈籠の靑苔まで、鮮やかに照される。同時に佐伯の總身を襟元から爪先へかけて、薄荷《はくか》のやうなものが一遍スウツと流れて通つた。自分ではまだ落ち着いて居る積りなのに、知らず識らず動悸が裏切りをして居る。
左の端から右へ右へと、電燈は隈なく植込みの隙を發《あば》いて、次第に便所の方へ肉薄した。夕方、二階の窓から棄てた敷島の吸ひ殻が、飛び石の御影《みかげ》の上に落ちて居る所まで、佐伯の眼にありあり映つて居る。 「照ちやん、もつとあかり[#「あかり」に傍点]を前へ出して御覽。」 かう云つて、彼は庭下駄を穿いて、便所の蔭へ步いて行つたが、中途で蜘蛛の巢に襟を掠められた。
見ると鈴木は、じめじめした掃除口の闇にうづくまつて、羽目へペツたり背中を押しつけ、雨蛙のやうにどんよりと、眠るが如く控へて居る。此の場になつて、別段逃げようとも、飛びかゝらうともしない。 「君はこんな所へ何しに來たんだ。………」 と、佐伯が威丈高に立ちはだかつた所は、巡査が乞食を取り調べる光景によく似て居る。 「………さつさと出て行き給へ。」 ぱさ、ぱさ、と八つ手の葉が何處かで鳴つて居る。餘程地面が濕氣て居ると見え、庭下駄が赤土へ粘り着いて、いざと云ふ時に佐伯は素早く退《の》けさうもない。 「いや、」 と云つた鈴木の聲は、心に重いこだはり[#「こだはり」に傍点]があるらしく皺嗄れて居た。唇の動くのが全く分らないで、唯黑い影が物を云ふやうである。 「出て行かうと行くまいと、私の勝手だ。君が干涉せんでもいゝでせう。」 「馬鹿を云ひ給へ。人の家《うち》へ入《はひ》り込んで、自分の勝手だと云ふ奴があるか。用があるなら、表から尋ねて來給へ。一體何だつてそんな所にしやがんで[#「しやがんで」に傍点]居るんだ。」 「何でもいゝぢやありませんか、私には私の考があるんですから。」 事に依つたら、此の男は氣が違つたのぢやあるまいか。自分より先に、此の男が發狂したとすれば痛快である。大いにいたはつて、親切にしてやらうかな―――こんな事を佐伯はちらりと考へた。しかし、發狂したのなら、尙更刃物を振り廻しかねない筈だが、相變らずムツツリして、ジツと蹲踞《うづくま》つて居る。 「下らない事を云つて居ないで、さツさと出給へ、出給へ。」 いきなり彼は鈴木の襟首を掴んで引つ張つた。 「そんなになさらんでも、お邪魔なら出ますよ。………」 鈴木は少しも抵抗せずに、素直に起き上つて、 「出てもよござんすが、實は鼻緖を切つちやつたんです。ちよいと、其處へ腰をかけさせてくれませんか。」 かう云つて、跛《びつこ》を曳き曳き、緣側の方へ步いて行つた。
戶袋の傍にはまだ照子が電燈を持つて立つて居た。 「鼻緖を直すなら早くし給へ。」 こんな叱言を浴せられつゝ、鈴木はぢろりと照子を睨んで、廊下へ腰を下ろし、レザーの鼻緖のついた、ぴたんこな山桐の下駄を、片一方の足から外した。此處に居た時分には持つて居なかつた古い茶色の二重廻しを、何處から工面して來たのかぼてぼて[#「ぼてぼて」に傍点]と着込んで、鳥打帽を眼深《まぶか》に冠り、頻りと前壺《まへつぼ》を鹽梅して居る。 「あゝあ、私は不仕合はせな人間ですな。惚れた女は取られるし、………」 不意と嘆息を洩らして照子にあてつけて見たが、一向手ごたへがないらしいので、 「ねえ、照ちやん。」 と、今度は正面から切り出した。但し、やつぱり女の方へは背中を向けて、上體を下駄の處へ跼《かゞ》ませながら……… 「ねえ、照ちやん。」 と、再び疊みかけた時、照子はキリヽとした調子で、後ろからどやしつけるやうに云つた。 「照ちやんなんて云はないでおくれ。あたしやお前に名前を呼ばれるやうな弱味はないんだから。」 「はゝゝゝ、お孃さんと云つたのは昔の事です。もう私はこちらの書生ではないのですからな。今ぢや緣もゆかりもありませんよ。」 「緣もゆかりもなけりや、さつさと出て行つたらいゝぢやないか。」 「さう急《せ》き立《た》てないでも直きに出て行きますよ。………だが、照ちやん、あなたは佐伯に欺されて居るんですぜ。こんな男が何で便りになるもんですか。」 「餘計な世話を燒かなくつてもいゝ事よ。うるさいから早くしておくれな。」 かう云ふと、照子は電燈の綱を鴨居へ懸けて、すたすた奧へ引つ込んだが、八疊の居間から、玄關まで打つ通しに襖が明け放されて、門口の格子ががらんと開いたまゝ、叔母もお雪も姿を見せなかつた。 「さあ出來ました。………」 ぺちやりと下駄を緣先へ放り出して、鈴木は漸く身を起す拍子に、 「佐伯さん、君はどうしても改心しませんか。」 と、目の前に彳んで居る相手を視詰めた。 「君、そんな女々《めゝ》しい事をいつ迄も云つてるもんぢやないよ。僕に恨みがあるなら男らしくテキパキした方法を取るがいゝぢやないか。最後の手段だなんて、口でおどかしたつて、何になるもんか。」 「いや、しかし………」 「馬鹿!」 大渴するや否や、彼は渾身の力を拳に籠めて、耳朶の邊をいやと云ふ程擲りつけた。擲つて了つたら、自分の體が消えてなくなるかと思ふくらゐ、懸命に擲りつけた。此の間から腹の中でばかり企《たくら》んでゐた事を到頭實行して、せいせい[#「せいせい」に傍点]したものの、急に胸のつかへが輕くなつた結果、彼はふら〳〵と昏倒しさうになつた。 「たんとお擲りなさい、女はとられるし、男には擲られるし、私も散々ですな。」 「口惜しければ、僕を殺したらいゝだらう、何か刃物を持つて來てやらうか。」 「なに其れには及びませんよ、………」にやにやと笑つて、壞へ手を入れて、「困りましたな、それでは、どうしても改心なさらないんですな。」 「だから殺せと云ふんだ。」 其の瞬間、ぴかりと光つたものが、鈴木の右の手に閃いて、又外套の蔭に隱れた。 「いくらおどかしたつて駄目だぞ、殺すなら早く殺せ。」 佐伯は新派の俳優が見え[#「見え」に傍点]をするやうに、胸を突き出し、兩手を背後に組んで空を仰いだ、星がきらきらと綺麗に輝いて居る。 それでも鈴木は、まだにやにや笑ひ續けて、容易に斷行するやうな形勢もない。 「ほんとに男らしくない奴だな。殺せないならグヅグヅして居ないで此處を出ろ。」 いゝ氣になつて胸倉を押へつゝ、裏木戶の方へ引き擦り出さうとした刹那、 「そらそら御覽なさい。此れでも男らしくありませんかな。」 かう云ふ言葉と共に、佐伯は頤の下をピシリと鞭で打たれたやうに感じたが、忽ちたらたら血が流れ出した。 「ふん、とうとう斬つたな。感心だよ、男らしいよ。」 よろめきながら、傷口へ手をあてゝ、こんな負け惜しみを云ふ間もなく、鈴木は彼の體を板塀の傍へ踏み潰す如く倒した。さうして、やつぱりにやりにやり笑つて居るらしかつた。
喉笛を抉られる時、佐伯は最後の息を振り絞つて不思議な聲を發したが、それは負け惜しみではなく、痛苦のあまり悲鳴を擧げたのだつたらう。痩せて居る割合に多量の血液が景氣よく迸《ほとばし》つて手足の指が蜈蚣《むかで》のやうに戰《をのゝ》いて居た。
Transcriber's Notes
本テキストは昭和三十三年中央公論社刊「谷崎潤一郎全集 第二巻」を定本にした。