Part 1
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
Title: 續惡魔 (Zoku-Akuma) Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki) Language: Japanese
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.
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續惡魔
佐伯《さへぎ》は、頭《あたま》の工合《ぐあひ》が日に增し惡くなつて行くやうな心地がした。癲癇《てんかん》、頓死、發狂などに對する恐怖が、始終胸に蟠《わだかま》つて、其れでも足らずに、いやが上にも我れから心配の種《たね》を撒《ま》き散らし、愚にもつかない事にばかり驚き戰《をのゝ》きつゝ生《せい》をつゞけて居た。叔母が或る晚、安政の地震の話をして、もう近いうちに、再び大地震の起る時分だと、仔細らしく、豫言したのをちらりと小耳《こみゝ》に挾んでから、ひどく神經に病み始め、微かな家鳴《やなり》震動に遇つてさへ、忽ちどきん、どきん、と動悸が轟いて、體中《からだぢゆう》の血が一擧に腦天へ逆上した。震動が止むと彼は一刻の猶豫もなく、轉げ落ちる樣に梯子段《はしごだん》を駈け下りて湯殿へ飛び込み、水道の栓を拈《ひね》つて熱した頭から水をシヤアシヤア注ぎかけながら、卒倒せんばかりに興奮した心氣《しんき》を辛《から》くも押し靜める。だんだん恐怖が募つて來るに隨ひ、端《はた》が騷がないでも、自分には何だか地面の搖れて居るやうな氣のする事が度々あつた。そら地震だ! かう思ふと矢も楯も耐らず、ひよろひよろ[#「ひよろひよろ」に傍点]しながら立ち上がつて、無我夢中に襖を蹴つたり、床柱にぶつかつたり、散々驚かされた揚句の果てが、 「謙さん、お前さん二階で何をして居るんだい。」 かう云つて、下から叔母に怒鳴り付けられる。すると佐伯はワクワク膝頭をふるはせながら梯子段を下りて來て、例の如く冷水を浴び、 「どうも頭痛がして困るんです。」 と、何氣ない體《てい》で答へる。其の瞬間の恐ろしさと云つたら、本當の地震の時と少しも變らず、顏は眞紅に充血して、心臓が面白いやうにドキドキ鳴つて居る。 「頭痛がするからツて、あんなにどたばた[#「どたばた」に傍点]暴れないでも好いぢやないか。何かお前さん此の頃氣がゝりな事でもあるんぢやないか。」 「いゝえ。」 と云つて、彼は叔母の追求を避けるが如く、こそこそ[#「こそこそ」に傍点]と、二階へ上がつて了ふ。
本郷は地盤が堅固だと云ふけれど、叔母の家なんか坂道に建つて居るから、いざとなつたら險難《けんのん》なものだ。此處の二階に住んで居た日には、如何に考へても、大地震の場合に助かりやうがない。割合にシツカリした普請ではあるが、體《からだ》の偉大な照子が上がつて來てさへ、ばたりばたり地響きがする程だから、地震の偉大な奴に出會《でつこは》したら一と耐りもないだらう。「あれエ」とか何とか、叔母が土藏の鉢卷に押し潰されて悲鳴を擧げて居る間に、親不孝の照子はさツさと逃げ出す。のろまな鈴木は逃げ損《そこな》つて梁《はり》の下に挾まれるかも知れぬが、なか〳〵其れくらゐの事で死ぬやうな男ではない。どうしても自分一人が叔母と運命を共にしさうである。………さう思ふと、危險極まる二階の座敷が牢獄のやうに感じられる。
一體地震と云ふものは、略《ほゞ》何年目頃に起るのだらう。其れに就いてオーソリチーのある說明を聞いた上、間違ひのない所を確かめたくなつたので、或る時彼はめツたに入《はひ》つたことのない大學の圖書館へ駈け着け、カード、キヤタローグの抽き出しをガチガチと彼方《あツち》此方《こツち》引つ張り出した揚句、斯學《しがく》に關する書籍を山のやうに借り受けて、一日讀み耽つたが遂に要領を得なかつた。何でも大森博士の說に依ると、大地震はいつ何處《どこ》に生ずるか豫め知る事が出來ない。古來東京には數囘の大地震があつたが、將來も必ずあるとは明言されぬ。必ずないとも明言されぬ。甚だ曖昧である。今年は大地震があるだらうなどゝ、妄《みだ》りに危惧の念に驅らるゝは愚昧な話だと云ふけれど、いつ起るか判らなければ心配するのは當り前だらうぢやないか。 どうも佐伯には、大森博士がうす〳〵大地震の起る時期を知つて居ながら、其れを隱して居るやうな氣がしてならなかつた。博士の事だから、大體の見當は付いて居ても、何日の何時何分と云ふ明瞭な豫測が出來ない爲め、乃至いまだ根據のある科學的說明が出來ない爲め、徒《いたづ》らに天下の人心を騷がす事を憂へて發表を遠慮して居るのではあるまいか。何となく其れらしい口うら[#「うら」に傍点]が講義の中に仄《ほのめ》かしてあるやうだ。若しひよ[#「ひよ」に傍点]ツとしてさうだとすれば大變である。天下の人心を騷がせても構はないから、學理上の根柢がなくても差し支へないから、つまらぬ遠慮なんかしないで、大凡《おほよ》その所を早く敎へて貰ひたいものだ。………かう云ふ邪推をすればする程、佐伯はます〳〵薄氣味惡くなつて、知識の無い人間の情なさを、今更の如く悲しんだ。さうして、單身博士の私邸を訪問しやうかと迄思ひ煩つた。「こんな下《くだ》らない事ばかり苦に病み續けて居て、己はいつ迄世の中に生きて居られるだらう。」―――彼は到底今年の暮れが安隱《あんをん》に越せないやうな心地がした。每日々々、朝夕《あさゆふ》に五六度も胸をドキ付かせ、渾身《こんしん》の神經をピクピク戰《をのゝ》かせて、一つ間違へば氣狂《きちが》ひになりさうな危《あぶなツ》かしい輕業《かるわざ》を演じながら、どれだけ命が保《も》つて行くだらう。手を換へ品を換へて、執拗に襲ひ來る恐怖の大波を搔い潜りつゝ、盲目《めくら》滅法《めつぽふ》に悶え廻り、次第に精根が盡き果てゝ行く無慙《むざん》な姿を、佐伯は自《みづか》ら顧みてハラハラするやうな折もあつた。呪ふべき運命が、もうつい[#「つい」に傍点]近所まで迫つて來て、刻一刻に彼を待ち構へて居た。
天長節も過ぎて、十一月の晚秋の空が爽やかに冴え返り、上野の森の木々の梢の黃ばむだ色が、二階の窓から眺められる時分まで、それでも彼はどうにかして生きて居た。相變らず學校は缺席だらけ、いつも座敷の壁の腰張りに頭を擦り附けて、枷《かせ》を嵌められた罪人のやうに窮屈らしく臥轉びながら、ウヰスキーを飮んだり、煙草を吹かしたり、やツとこさ[#「やツとこさ」に傍点]と落ち着かぬ神經を麻痺させて、石塊《いしころ》のやうな頭を抱へて居る。さうして、時々文藝倶樂部や講釋本の古いのを引き擦り出して、可なり熱心に讀み耽つたが、たま〳〵照子でも二階へ上がつて來ると、惶てゝ其れを蒲團の下へ押し隱した。 「兄さん、今何を讀んでいらしつたの。………そんなに隱したつて、妾ちやあんと知つて居るわ。」 かう云ひながら、照子は或る時二階の窓に腰を掛けて、長い兩脚を臥て居る佐伯の眼の前に放《はふ》り出した。さうして、 「ふゝん」 と鼻の先で輕く笑つた。照子がこんな笑ひ方をするのは、母親や鈴木を對手にする時にのみ限られて居たものだが、此の頃は佐伯に向かつてもちよいちよい[#「ちよいちよい」に傍点]用ひるやうになつた。 「そんなに見られるのが耻づかしくつて?」 と、兩手を窓の鴨居《かもゐ》に伸ばして、房々とした庇髮の頭《つむり》をがつくり[#「がつくり」に傍点]俯向かせ、足許の犬をからかふやうに佐伯の姿を見下ろして居る。汚《よご》れツぽい顏が今日は見事に澄んで透き徹つて、旨味《うまみ》のある軟かい造作が、蠟しんこ[#「しんこ」に傍点]のやうな物質を聯想させた。大方體の加減でも惡いのであらう。肉附きの好い鼻や頰ツぺた[#「ツぺた」に傍点]まで西洋菓子のマシマローのやうに白々《しろじろ》と艶氣を失ひ、唇ばかりが眞紅に嫌らしく濕《うる》んで居る。大島の龜甲《きつかふ》絣《がすり》の綿入の裾から、十文に近い大足が疊の上へのさばつ[#「のさばつ」に傍点]て、少し垢の着いた、彈《は》ち切れんばかりに踝《くるぶし》へ喰ひ込んだ白足袋の鞐《こはぜ》が一枚|壞《こは》れかかつて居るのを見ると、佐伯は餌を投げられた獸のやうな眼つきをして、 「畜生!
又己の頭を引ツ搔き廻しに來やがつた。折角人が面白さうに本を讀んで居るのに餘計なことだ。」 かう腹の中で叫んだ。さうして讀みさしの「高橋お傳」の講釋本を、シツカリ臀《しり》のしたに敷いて、わざと落ち着き拂ひながら、 「此の本を見せたら、僕よりも君の方が耻づかしいだらう。」 と、胡散臭いことを云つた。 「一體どんな本なの。」 「Obscene picture だよ。」 かう云つて、彼はさも意地が惡るさうににやにや[#「にやにや」に傍点]笑つた。 「いゝわ。構はないから、いくらでも出して御覽なさいな。そんな物を耻づかしいとも珍らしいとも思やしませんから。………」 ふと、佐伯は照子の顏が恐しく obscene な表情に變つて居るのに氣が附いた。いつぞや鈴木が、 「實は以前私とも關係があつたんです。」 と云つた言葉を想ひ出して、此の女の面魂《つらだましひ》では滿更無根の事實でもあるまいと思つた。なか〳〵氣の利いた口をきいて居ながら、一遍でも書生の鈴木に玩具《おもちや》にされた事があるとすれば甚だ痛快である。 「成る程、今時の女學生はえらい[#「えらい」に傍点]ものだね。君のやうな女が藝者になつたら、嘸《さぞ》繁昌するだらうよ。」 ポンと投げるやうに云ひ捨てゝ、一と息深く煙草を吸つて、彼は臥《ね》ながら自分の胸の邊《へん》をうつむいて眺めた。大いに罵つたやうな體裁《ていさい》であるが、其の實こんな言葉を聞くと、照子はいよ〳〵增長して、得意の鼻を蠢《うごめ》かすのは判《わか》り切つて居る。ほんたうに嘲る積りで云つたのか、乃至《ないし》はお世辭を云つたのか、我れながら明瞭でなかつた。さうして、俯向《うつむ》いたまゝ、女の視線が痛い程自分の額を射て居るのを感じた。いつの間《ま》にか、「高橋お傳」は臀の下から背筋の方へ辷《すべ》り込み、肩のあたりでゴロゴロして居るので、佐伯は縛り付けられた人間のやうに身動きが出來ず、嚙みつくやうな眦《まなじり》で女を睨んだ。 「兄さんは正直な癖に噓ツつきね。ちよいと鈴木に似て居るわ。」 と、照子は口元に微笑を泛べ、眼球《がんきう》をごろり[#「ごろり」に傍点]と轉《ころ》がして、男の頭を凝視《ぎようし》して居る。其れが佐伯には、丁度鎌倉の大佛を下から覗《のぞ》いた時のやうな、馬鹿氣《ばかげ》て大きな、威力のある顏に見えて、モウ何も彼も洞察されて了ひさうに、ドギマギしながら、 「ヘーエ、己はそんなに噓ツつきか知らん。」 かう云つて、力一杯うんと氣張つて空《そら》嘯《うそぶ》いた。 「Obscene picture だなんて、誤魔化したつて駄目よ。あたしちやあんと知つて居るわ。」 「知つて居るなら、いゝぢやないか。」 彼は不覺にも微《かす》かな顫へ聲を出して、臆病らしく眼を光らせたが、 「人の目を窃《ぬす》んで、留守の間に部屋の中を搔き廻して見れば、誰にだツて判るさ。女の利巧と云ふ奴は、みんな其れなんだ。」 と、叩き付けるやうに云つたと思ふと、體中《からだぢゆう》がわなゝいて、耳の着け根まで眞紅になり、どうしたはずみ[#「はずみ」に傍点]か、淚が泛《うか》んで來る。 「人の目を窃んで居るのはお互ひ樣だわ。兄さんだつて、こツそり[#「こツそり」に傍点]可笑しな本を讀んでいらツしやるぢやありませんか。」 照子は佐伯の泣きツ面《つら》を見てから、急に元氣が出たらしく、殊更|勞《いたは》るやうな優しい調子で、根性の惡い事を云つた。 「實はあたし此の間兄さんの本箱を調べて見たの。參考書なんて物は一つもなくツて、妙な講釋本が五六册|入《はひ》つて居るきりなのね。どうしてあなた方に彼《あ》んな本が面白いんだか、私には解らないわ。近代人にも似合はないと思ふわ。餘計なお世話かも知れないけれど、兄さんは餘程此の頃どうかしていらツしやるんぢやなくツて?
端《はた》から見て居ても、ほんたうに案じられてよ。」 いやに落ち着き拂つて、憎らしい程心配さうな表情を裝つてすらすらと喋舌《しやべ》り出す照子の言葉を、半分まで聞くと、もう佐伯は居たゝまれなくなり、耳の穴へ手を挿し込んで、聽覺を攪亂させたくなつた。照子が語り終ると、漸う雷鳴が濟んだ後《あと》のやうに、ホツと一と息ついて、 「講釋本が面白ければ、近代人になれないのかい。全體近代人なんてものが、女に解《わか》るもんぢやないんだ。」 「そんなら、何だツて、そんなに骨を折つて噓をついたり、隱したりなさるの。」 「君はなか〳〵えらいよ。………」 何か辛辣《しんらつ》に毒づいて、一擧に笑殺してやるつもりのところ、こんな平凡な文句より外見付からないで、彼の調子はだんだん哀願的に變つて行く――― 「えらい[#「えらい」に傍点]と云つたら、もう好い加減にしたらどうだ。君のやうな女が得手勝手に僕等の中へ割り込んで來て、邪魔をしたり、心配をしたりする權利はないんだ。一體誰が許して、いつ頃から君はそんな權利を持ち始めたんだい。」 佐伯は兩手に頸筋を押さへて、呻吟するやうな言葉遣ひをしながら、 「君に附き合つてると、鈴木でも僕でも、だんだん頭が馬鹿になるんだ。お蔭で僕の神經衰弱は、東京へ來てからズツトひどくなつたよ。近代的であらうが、なからうが、僕はもう講談本以上の込み入つた本なんか、とても讀み續ける根氣がないんだ。」 「そんなに私の事がお氣に觸《さは》つて、………」 「何でもいゝから、もうあんまり二階へ來ないやうにして貰はうぢやないか。」 云ひ終ると、彼は齒を喰ひ縛《しば》つたまゝ眼を閉ぢて、死んだやうに靜かになつた。其の癖例の動悸はひどく昂《たか》ぶつて、激しい息づかひが相手にもハツキリ聞えた。照子は暫く默つて腰かけて居たが、やがて、 「あたしが惡《わる》かつたんなら、堪忍して頂戴な。けれども、あたしには、兄さんの氣持がよく解《わか》つて居てよ。」 こんな捨て臺辭《ぜりふ》を殘して、悠々と下りて行つた。 もう佐伯は、再び臀の下から「高橋お傳」を取り出して見る勇氣がなかつた。妙に卑しく、穢《きたな》らしく腐れ切つた自分の腦味噌を、殘酷に明《あか》るみへ曝し出されて、散々輕蔑された事を思ふと、立つても居ても堪へ切れない程|極《きま》りが惡かつた。
其の極《きま》り惡さを紛らす爲めに、蒲團の中から机の抽き出しへ手を伸ばして、ビユーカナン、ヰスキーのポツケツト入りの罎を捜つて枕に頤を押しつけながら、アルミニユームのコツプで、ちびりちびり飮み始める。俯向《うつむ》きになると、寢勝手の惡いせゐ[#「せゐ」に傍点]か、方々の節々《ふし〴〵》が痛む。………暫く肘を衝いて、上半身を支へて居れば、直ぐと腕が疲れて了ふ。さうかと云つて、兩肩を落せば、胸板がぺつたりと蒲團へくつ[#「くつ」に傍点]附き、喉笛が枕に緊められて、酒を飮むことは愚か、呼吸さへ苦しくなる。背筋を少しでも擡げると下腹が切《せつ》なく壓迫され、腰の骨の蝶番《てふつが》ひが窮屈さうに撓《しな》つて來る。どうかして、五體を樂に置かうと鹽梅して見るが、力の權衡《けんかう》上、何處かに錘《おもり》を下げたやうな、苦しい點を生ずる。
一滴も殘らず飮み干して、空き罎を投げ出すと同時に、げえつと大きな噫《おくび》をしながら、彼は體を裏返しにして仰向きになつた。近來になく、ポウツと快く醉つて居る。「快く」と云ふのは勿論程度問題で、蒲團の汚《よご》れて居る事や、手足が發汗してぬらぬらして居る事や、寢間着が脂だらけに垢染みて居る事や、二三日續けざまに照子の Dream に依つて惱まされて居る事や、凡べてさう云ふ忌まはしい所へは、成る可く聯想を及ぼさないやうにして、ホンの上《うは》ツ面《つら》の醉心地を祝福したのである。
三十分ばかりの間、彼はいろ〳〵の奇怪な夢を、見ては覺め見ては覺めして、とうとうしまひに、ぐつすり[#「ぐつすり」に傍点]と眠る事に成功した。それでも時々、靜かな寢顏に不安の影が押し寄せて、眼瞼をピクピクさせたり、睫毛を戰《そよ》がせたりした。夕方、電燈がついて間もなく、晚飯の知らせにお雪が上がつて來て呼び起したのを、彼は微かに覺えて居る。 「うん、解《わか》つたよ、解つたよ。―――己は今日《けふ》工合が惡いんだから、飯は喰はないんだ。お粥かい? お粥もいらない。」 すつぽり被つた夜具の中から、モグモグとこんな問答をして、再び眠り續けた。 けれども、それから後はあんまり眠られなかつた。まだ何處か知らに、十分睡氣が殘つて居さうであるのに、物の二三時間も彼方《あつち》此方《こつち》寢返りを打つた揚句、遂にパツチリと眼を覺ました。頭の上の硝子窓から、星が幾粒もきれいに輝いて居る。押入れの蔭で鼠らしいものが、コツコツ音をさせて居る。彼は又臀の下から「高橋お傳」を取り出したが、直きに其れを讀んで了つて、今は「佐竹騷動|妲妃《だつき》のお百《ひやく》」と云ふのを、本箱の底から引き拔いた。
此れも「高橋お傳」と同じやうな講釋本である。表紙には、妲妃のお百が髮を振り亂し、短刀を口に咬へて、白い脛、紅い蹴出《けだ》しを露《あら》はに、舷から海中へさんぶと飛び込まうとして居る石版畫が刷つてある。藝術として三文の價値もないか知れぬが、此の頃の佐伯は、かう云ふ繪に一番興味を惹かれる。毒々しい程靑い波の色に取り卷かれて、今や將《まさ》に水面へ觸れんとする女の足の裏の曲線、妖婦らしい眼の表情、手頸襟頸など、大した不自然もなく描かれて居る。其れを見て居ると、此の本の内容―――さま〴〵の込み入つた、殘酷な話の筋が想像されて、自然と魂をそゝられる。
卷《くわん》を開いて、讀むに隨つて、だんだんと面白くなつて來る。 [#ここから一字下げ] これより小さんのお百がおひ〳〵毒婦の本性を現はし、無殘にも桑名屋德兵衞を十萬坪に於いて殺害しますると云ふ條《くだ》りは次囘に……… [#ここで字下げ終わり] などゝ云ふ調子に釣られ、彼は好奇心を煽られながら、愚鈍な眸《まなざし》をして、一氣に讀み續ける。
十萬坪の德兵衞殺しの場は、なか〳〵名文である。 [#ここから一字下げ] ………名にし負ふ其の頃の十萬坪の事でございますから、まことに淋しいもの、あたりは人《ひと》ツ子《こ》一人居りません。折柄ポツーリポツーリと雨さへ降り出して參つた樣子。時分はよしとお百は德兵衞の隙を見すまし、兼て帶の間に隱し持つたる短刀を拔くより早く、男の脇腹へグサとばかりに突き徹しました。「アツ」と云つて、德兵衞が逃げようと致しましたが、重い荷物を背負はされて居りますので、身動きもなりません。「う、う、うぬ、さては己を殺すのだな。」「德兵衞さん、お前の生きて居るうちは、わたしの出世の妨げ故、お氣の毒だが殺してやる。此れと云ふのもみんなお前が馬鹿だからさ。グヅグヅ云はずに早く往生しておしまひよ。」と、襟髮取つて引き廻し、所嫌はず滅多《めつた》斬り、………プツーリ喉笛を搔き切つて、止《とゞ》めを刺し、死骸は河へ投げ込んでしまひました。……… [#ここで字下げ終わり] 佐伯はふと、自分の喉笛のところへ手をあてゝ、輕く押して見た。恰度古い椅子のスプリングのやうに、皮の下からぽツこり[#「ぽツこり」に傍点]と突起して居るグリグリした骨を、薄い、冷《つめ》たい、ぴかぴかした刃物で抉《ゑぐ》られた時は、どんなだらう。此の突起物を英語で Adam's apple と云ふのだと、彼は中學時代に敎はつた事がある。敎師の話では、昔アダムが林檎を喰べて、其れが喉へ塞《つか》へて以來、こんな突起が人間に出來たと云ふ傳說から、斯く稱するのださうである。―――妙な事を記憶して居たものだと思ひながら、彼は猶もページを追つて行く。 それから二三枚の間は息もつかずに惹き入れられて、お百がとうとう佐竹侯のお部屋樣となり濟まし、惡家老の那川《ながは》采女《うねめ》と密通の結果、お家騷動を起す段取りまで進んだ時、突然二階がみしみしと搖れた。そら地震だ!
暫く忘れて居た恐怖がと胸《むね》を衝いて、彼は夢中で蒲團の上に撥ね返つた。
見ると照子が、梯子段を上り切つた處に、いつの間にか突ツ立つて笑つて居る。米琉《よねりう》の絣の寢間着に、伊達《だて》卷《まき》をぐるぐると卷き着け、なまめかしく襟をはだけさせて、素足のまゝ、電燈の傘の影の暗《くら》がりへ、おいらんのやうにだらりと彳《たゝず》んで居る。 「もうちつと靜かに上《あが》り下《お》りしたらいいぢやないか、まるで地震のやうだ。」 欺かれた恨みと驚ろきとを一緖くた[#「くた」に傍点]にして、彼は突慳貪《つつけんどん》に浴びせかけたが、何か知ら容易ならぬ事件が、後《あと》に胚胎《はいたい》して居るやうな氣持がした。 「だつて、内證で上がつて來たら、却つて兄さんは都合が惡かなくつて。」 いきなり照子はつかつかと枕許へ擦り寄つて、 「ほら御覽なさい。―――此の本はなあに。」 と、据わる拍子に夜具の片袖を膝の下に敷いて、佐伯を押へ付けるやうにしながら、講釋本を奪ひ取つた。
大盤石《だいばんじやく》の如き重味《おもみ》にのしかゝられて、彼の頭にウヨウヨと發生して居た女に對する些細な負け惜しみだの、面憎さだの、極り惡さだの、そんなものは一度に滅茶滅茶に踏み躪られ、誘惑の網を藻搔き出たい一心の恐ろしさが、意氣地のない愁訴の聲となつて、女の足許に戰《をのゝ》き響く。 「照ちやん、君は何故さうなんだらう。もう、後生だから彼方へ行つてくれないか。」 佐伯は兩手を顏へあてゝ、下を向いて云つた。 「君は惡魔だ。………人が折角面白さうに本を讀んで居るところを、邪魔しなくつてもいゝぢやないか。己は此れ以上の强い刺戟に堪へられなくなつたんだから、もう直き死ぬ迄、ソウツとして放《はふ》つて置いて貰ひたい。」 「そんなに興奮なさらなくつてもいゝわ。今夜はおつ母さんも鈴木も留守だから、ゆつくりお話ししようと思つてやつて來たの。―――あたしに二階へ來るなとか、傍へ寄るなとか云つたつて、そりやあ駄目よ。」 照子は兩方の握り拳《こぶし》を乳房の上へ重ね、ふところをふつくら[#「ふつくら」に傍点]脹《ふく》らがして、其の中へ頤の先を突つ込んだまゝ、いかにも橫着さうに、 「兄さんは、お腹《なか》の中の事を正直に外へ出しちまつたらいゝぢやありませんか、隱したつて隱し終せもしない癖に、隨分をかしいわ。―――ねえ、兄さんにはそんなに鈴木の事が氣になつて?」 かう云ふと、今度は片手を袂から出して、背中をさすつてやりながら、息がかゝる位、頰を擦り寄せた。 「鈴木の事なんぞどう[#「どう」に傍点]でもいいんだ。―――己は噓を吐いてゞも何でも、一時逃れに安隱に生きて行くよりほか、命が續かないんだ。衰弱した體や神經を疲らすやうな事は、絕對に堪忍《かに》してくれ給へ。」 眼を閉ぢて、こんな事を云つて居るうちに、佐伯の鼻先でぱつと女の着物のはだける臭がした。さうして、枕許の疊がもくもく持ち上がるやうな氣持がした。疑ひもなく、照子が彼の眞正面へ來て、どつかと据わり直したらしい。 「解つてよ、解つてよ、―――兄さんは、いくらあたしを馬鹿にしたつて、あたしの方から蔽蓋《おツかぶ》せて出れば、どうする事も出來ないんでせう。」 女は呪文《じゆもん》を唱へるやうにくどくどと云つて、片手で佐伯の手頸を掴み、片手で顏へあてがつた十本の指を解《ほど》き始める。痩せた手頸を樂《らく》に一と廻りした掌《たなごゝろ》は、柔かく冷え冷えとして、指先などは金屬製の腕輪のやうに、痛い程凍え切つて居る。指を解《ほど》いて居る手は、今まで懷にあつたせゐ[#「せゐ」に傍点]か、いやににちやにちや[#「にちやにちや」に傍点]脂が湧いて生暖かく粘つて居る。
男の指には、可なり力が入つて居ながら、强ひて抵抗するやうな樣子もなく、針線《はりがね》を撓《たわ》めるやうにして、一本一本解かれて了つた。 「惡魔!
惡魔!」 と、彼は物狂ほしく連呼したが、やがてぱつちり眼を開くと、女の顏は思つたよりも、もつと間近く、自分の顏の直ぐ前に殺到して居る。彼は明《あか》るみで、人間の面をこんなにまざまざ[#「まざまざ」に傍点]見たことはない。唯でさへひろびろと餘裕のある顏が、瞳へ入《はひ》り切れない程擴大されて、白つぽく、壁のやうに塞がつて居る。其の壁のおもては一體に靑ざめて、肌理《きめ》が非常に粗《あら》く、一と通りの氣味惡さではないが、不思議に妙な誘惑力を藏して居るらしい。殊に怪物のやうな眼の球が、ぎろり、ぎろり光つて、佐伯の魂を追ひ駈ける。―――動物電氣と云ふのは、大方かう云ふ作用を云ふのだらう。彼は其の場で卽座に氣死《きじ》にするやうな神心の打擊を、辛うじて持ち堪《こた》へるより外、逃げる事も、どうする事も出來なかつた。さうして、泣き伏すやうに女の膝へ倒れて云つた。 「照ちやん、君は物好きに己を殺すんだ。己を氣狂ひにさせるんだ。………女と云ふ奴は、みんなかう云ふ風にして、男を片つ端から腐らせるだ。」
それから二三日過ぎた。鈴木が居ても、叔母が居ても、照子は構はず二階へ來て一日遊んで居る。 「照ちやん、ちよいと下へ來て、手を借しておくれでないか。お前此の頃は、しツきり無しに二階へ上がり込んで居るが、謙さんと仲直りをしたのかい。」 叔母が梯子段の下から、こんな事を云ふ。 「えゝ、すつかり仲直りをしたのよ。」 と云つて、照子は眼を細くして、狡猾さうに笑ひながら、ぢツと男を見入る。 「おい、もう大槪にして下へ行つてくれ。己は昨今こんな强い刺戟を受けて、どうして生きて居られるのか、不思議でならないんだ。お前が居ると、不安で堪らないから、トツトと下りてくれ給へ。」 佐伯は破裂しさうな心臟を、後生大事にシツカリ押へて、深い深い谷底へ昏々と沈んで行くやうな眩暈と失神とを感じつゝ、女に訴へる。どうかすると、手足の先が水に浸《ひた》されて行くやうに痺《しび》れかゝつたり、頭の片側が急に羅《うすもの》をかけたやうにもやもや[#「もやもや」に傍点]とする。彼の肉體は屍骸の如く疲れて居ながら、神經ばかりがぴくぴくと銳敏に焦ら立ち、夜も晝も眠られないで、血色はいよいよ惡くなるのであつた。
丁度四日目の晚、叔母が照子を無理やりに引つ張つて、何處ぞへ外出した留守に、梯子段をみしり、………みしり、………と、相變らず陰鬱な音をさせて、鈴木がむつゝり[#「むつゝり」に傍点]した容貌を二階に運んだ。いつぞや喧嘩をして此のかた、全く佐伯は言葉を交はさなかつたが、以前より一層、人相が險惡になつて居る。銘仙の綿入れにけんどん[#「けんどん」に傍点]の兵兒帶《へこおび》を締め、洗ひ晒した紺足袋の上で、白い綿ネルの股引きの紐を、子供のやうに結んで居る。 「いや、どうもお邪魔を致して相濟みません。………」 と、云ふかと思ふと、氣むづかしさうな顏の構造を俄かに建て直して、にたにたと笑つた。まるで寄席《よせ》藝人《げいにん》が、百面相をするやうな早變りである。 「………此の頃は、體のお加減は如何です。」 柄にもないお世辭を振り撒いて、鈴木は枕許へ畏まつて、兩手を行儀よく膝頭へ置いた。何にしても、あまり意外な、底知れぬ態度である。事に依つたら、懷に匕首《あひくち》でも忍ばせてあるかも知れん。 「やつぱり、工合が惡くて困ります。―――失敬ですが、御免を蒙つて、此の儘にさせて置いて頂きます。」 佐伯は橫つ倒しに臥ころび、脇の下まで夜具をかけて、片手を其の外へ出した。「人を馬鹿にして居やがる。」 と思ひながら、成る可く落ち着いて、平靜を裝つて、物を言はうと努めて見る。 「さあ、どうぞお樂にいらしつて下さい。………實は何んです、また照子の事に就いて、お伺ひ致したいと存じまして、………」 「はあ、何ですか。」 と、佐伯の受け答へをしたのが、あまり早すぎたので、鈴木は頓着なく話を進める。 「此の頃照子が、ちよいちよい二階へお邪魔に伺ふやうですが、あれはどう云ふ譯でございませう。」 全然監督者の口吻《こうふん》である。「一體貴樣は婉曲に云つて居る積りなのか、皮肉を云つて居る積りなのか。」と、怒鳴り付けたいところを、佐伯はヂツと辛抱して居る。 「いつぞや、お願ひした事を、あなたはお忘れになりはしないですか。」 「あなたは僕にどんな事をお賴みなすつたか知れませんが、僕は何も承諾した覺えはありませんよ。―――照ちやんの事は兎に角として、其れだけは明かにして置いて下さい。」 「いや、承諾なさらなかつたと仰つしやるなら、仕方がないです。そんなら、其れは別として、照子の事を今少しお尋ねしませう。………」 かう云つて、鈴木は左の手で一方の袂を捲くつて、右の手の二の腕の邊《あたり》を頻りに撫でゝ居る。手頸の眞黑なのに引き換へて、筋肉の頑丈に發逹した、太い血管の蚯蚓《みゝず》のやうに走つて居る腕《かひな》の色の白いのがいかにも不愉快な、不調和な感じを與へる。馬鹿な奴は、手つきから指の恰好まで馬鹿に見えると、佐伯は思つた。 「私には此の二三日、どうも照子のあなたに對する素振が可笑しいと思はれるんです。―――またあなたにしてもさうでせう。何も私から賴まれないと仰つしやつたところで、苟且《かりそめ》にも私と結婚の約束をした女にですな、それに一日|戯《たはむ》れていらつしやると云ふのは、隱當ぢやございますまい。―――一體あなたはどう云ふお考へなんでせうか。此れに就いて要領を得た御返事を願ひたいんです。」 「はゝあ。」 と云つて、佐伯は敷島を一服吸つて、鼻の穴から立ち昇る煙の痕を眺めた。極めて取り濟ました挨拶振りであるが、此れは相手を輕蔑する爲めよりも、寧ろ相手の恐るゝに足らざる事を、自分の神經に納得させる爲めに云つたのである。煙草を一寸ばかり吹かすと、直ぐに吸ひ殻を煙草盆の中へ投げ込んで、今度は硝子窓の方を向いた。………空が眞黑で、星が一つも見えない。………神經は十分納得が出來ないかして、未だイライラと騷いで居る。恰も胸の中に、無數の一寸法師が、蛆《うじ》の如くに湧いて戰《いくさ》をして居るやうである。
鈴木は始終の樣子をヂロヂロと眺め、佐伯の手の働く所、首の赴く所を、瞳で追ひ駈けて居たが、遂に返答がないので、暫くもぢもぢ躊躇《ためら》つた後、再び口邊に薄笑ひを洩らしつゝ喋舌り出す。此の男はどんなに感情の沸騰した場合でも、話をする前に先ず薄笑ひをするのが常癖《じやうへき》となつたらしい。 「さう云ふやうに默つていらしつても、御返事がない間は、一と晚でもかうやつて居りますから、斷乎とした、男らしい御返事をなすつた方がいゝでせう。それに、あなたの其の御樣子を見ても、もう大槪は私に解《わか》つて居ります。人間と云ふ者は、みんな不思議に正直なもんですからな。」 いくら平靜を裝はうとしたつて、鈴木に口を利かせて置けば置く程、怒《おこ》らずには居られない。彼《あ》の口先でチクチク突ツつかれると、どんな頑丈な堪忍袋の緖でも、殆んど先天的の不可抗力を以て、叩き破られて了ふ。況《いは》んや佐伯に於いてをやだ。馬鹿と神經衰弱の應對だから、第三者が見物したら餘程面白い光景だらうと思ひながらも、佐伯はムカムカと腹が立つ。 「僕の考へと云へと云つたつて、考へなんかないんだから、御返事する必要はありませんよ。君の方で大槪解つたのなら、それでいゝぢやありませんか。」 窓外の桐の葉に、パラパラと音がして雨が降り出した。早く照子が歸つて來ればいゝが、……… 「フン、何かとおもつたら、さう云ふ事を仰つしやる。―――あなたが、さう云ふ卑屈な態度をお取りになるのは、結局御損ですよ。」急に此處《ここ》から殺氣を含んだ調子に變つて、「決して私は此の儘に濟ませやしないのです。私には十分な覺悟があつて、已むを得なければ最後の手段を取る決心ですから、言を左右に托して逃れようとなさると、却つてアテが外れます。」 とうとう來たな、と、佐伯は腹の底で呟いた。斯う威嚇《おどか》されて見ると、成る程凄いものだ。現にたつた今、「最後の手段」と云はれた瞬間に、心臓がヒヤリとして、口から半分出かゝつて居た負け惜しみの文句が、忽ち引き込んで了つた事は確かである。其れで居て、いつものやうな切迫した、あはや卒倒しさうな恐怖が襲撃して來ないのは、どう云ふ譯だらう。彼は反對に其の物凄さを、適當な刺戟を持つ興奮劑として、味はふやうな氣分になつて居る。 「君の方に決心があるなら、何とでもいゝやうにし給へ。―――もと〳〵僕は、君からそんな故障を申し込まれる理由はないんだ。照ちやんが自分で勝手に二階へやつて來て、遊んでるんだから僕の知つた事ぢやありませんよ。故障を云ふなら照ちやんに云ひ給へ。」 「いや、女なぞに理窟を云つたつて解るもんぢやないです。それよりか、あなたが照子に代つて辯解なさるだけの責任がおありでせう。………ないと云ふ筈はございますまい。」 「僕に責任が?」 「はゝ」 と、鈴木はさも憎體《にくてい》に鼻先であしらつた。 「どうせ、そんな事を仰つしやるでせうと思つて居ました。しかし私は昨日、照子の祕密にして居る日記を見て了つたのです。あなたは旣に姦通をしていらつしやるぢやありませんか。」 かう云つて、せゝら笑つて居る。笑ふ拍子に厚い唇の奧で、亂杭齒《らんぐひば》が刃物《はもの》のやうにピカリと光つた。 「おい君、ちつと氣を附けて物を云ひ給へ。………」 何とか後を誤魔化さうとしたが、モウ到底隱し切れないやうになつたので、 「姦通と云ふのはをかしいぢやないか。よしんば僕と照ちやんと關係があつたとしたところで、姦通よばゝりをする法はないだらう。」 「關係があつたところで、ですか、………さう曖昧に仰つしやらずと、實際關係があつたと仰つしやつたら如何です。」 「そりや、關係はあつたさ。」 今迄の言動とは甚だしく矛盾した事を、彼は苦もなく是認して、冷然と云ひ放つた。言下に鈴木の懷から匕首《あひくち》が閃くのかと思つたら、そんな形勢はない。それでも佐伯は、もう半分ばかり命がなくなつたやうな心地になつて居る。 「そら御覽なさい。」 鈴木は、討論會で相手を凹《へこ》ませた時のやうに、得々然《とく〳〵ぜん》として、 「關係がある以上は、姦通でございませう。―――いつぞやお話しました通り、私と照子とは許嫁《いひなづけ》になつて居るんですから。」 「君は其の積りかも知れないが、照子ちやんの方ぢや、約束をした覺えがないと云つてるぜ。自分で獨り極めにして、姦通呼ばゝりするなんて非常識極まる。―――きみはそんな理窟が、世間に通ると思つてるのか。」 「照子が何と云つたつて、彼奴の云ふ事なんぞ、信用は出來ませんよ。―――照子の父がちやあん[#「ちやあん」に傍点]と、其のやうに約束したんです。親の意志に從つて、娘に結婚を强ひるのが非常識ですか知らん。」 「だからさ、だからさ、そんな苦情は僕の知つた事ぢやないんだから、照子の方へ持つて行つたらどうだ。照子で解らなければ母親も居るぜ。」 かう罵つて居るうちに癇癪玉が破裂して、佐伯の顏は見る見る眞赤に充血した。もうかうなつたら、何でも彼でも怒鳴り續ける積りで、口の中に劍突《けんつく》の彈丸を頰張りながら、相手の一言一句を待ち構へて狙つてゐる。 「いや、今日になつて母親の意見を聞く必要もないです。母親や照子がたとへ何と云つたところで、一度約束した以上は、私は其れを認めて居るんです。許嫁と云ふ事は立派な旣成の事實なんですから、私は唯、あなたの姦通の罪を責めればいゝのです。―――此の事件に就いて、あなたはどう云ふ處置をお取り下さるか。………」 「君、面倒だから、いつそ二人で決鬪しようか。ねえ、それが一番きまりが着いていゝ。」 突然、佐伯はこんな事を云つた。さうして、さもさも勇氣|凜々《りん〳〵》たる調子で、キツと相手を睨み付けたが、いつの間にか極度の憤激と恐怖とが、氣狂ひじみた瞳の中に漲り渡つて居た。 「ま、さう仰つしやらずとも、隱かに解決する方法がございませう。………」 意外にも、鈴木は少し面喰らつて、殊更柔和な顏を拵へながら、 「お互ひに高等敎育を受けた人間ですから、そんな野蠻な行爲はしたくないです。私はあなたが謝罪の誠意さへ示して下されば、それで滿足しちまふんですよ。なあにあなた、決鬪だの何だのとそんな馬鹿らしい眞似をするには及ぶもんですか。」 「僕は君に對して、何の罪も犯して居ないんだから、謝罪なんか出來ないぜ。―――決鬪しようよ君、其れが一番いゝつてば。」 「ふん、まださう云ふ事を仰つしやる。―――立派に姦通をしていらつしやりながら、謝罪が出來ないと云ふのは可笑しいですな。」 「君は馬鹿だな、よつぽどひどい馬鹿だな。かりに照子が許嫁だつたつて、現在同棲して居ないものを、何處が姦通なんだ。」 佐伯は咆えるやうにガミガミと此れだけ喋舌《しやべ》つたが、中途で舌が跌《つまづ》いて、とてもすらすら口が利《き》かれない。手足が顫へつく程腹が立つて、痩せた體へ入《はひ》り切れないくらゐ怒《いかり》が充滿した。あまり激しく罵つたせゐ[#「せゐ」に傍点]か、呼吸が忙《せは》しなく彈《はず》んで、唇が瀕死《ひんし》の病人の如く靑褪めて居る。肩から頸のまはりの動脈をづきんづきんと響かせて、多量の血が頭へ上がつて行く。此の二三日、照子に接近して以來、神經が夥しく衰弱して、チヨイとした刺戟に遇つてさへピクピク反撥するのに、此の上感情を煽られたら、彼は一擧に憤死して了ひさうだ。 「はゝ、女の事では誰でも馬鹿になりますよ。―――私なども、隨分照子には馬鹿にされましたからな………」 かう云つた時、鈴木の愚鈍な容貌は一層暗くなつて、淋しい笑ひと一緖に、悲しげな表情が泛んだ。 「しかし、あまり馬鹿にし過ぎると、私も默つて居ないです。―――そりや成る程、法律上から云へば、姦通ではないでせう。けれども、あなたに良心がおありになるなら、そんな理窟は仰つしやれない筈ですがな。―――ま、明日まで御返事をお待ち申しても宜しうございますから、今夜ゆつくりとお考へなすつて下さい。私の方が正しいか、あなたの方が正しいか、落ち着いてお考へになつたら、そりやキツトお解りになるでせう。………」 出來るだけ相手の話が聞えないやうに、佐伯は心を餘所へ外らして、一生懸命興奮を押し鎭める事に努めた。其の恰好は、丁度五段目の勘平が切腹して今にも落ち入らうとする斷末魔《だんまつま》に、片手を急所の傷口にあてながら、息をせいせい[#「せいせい」に傍点]云はせる姿によく似て居た。 「兎に角、御參考までに申し上げて置きますが、つまり私は此れだけの處置を付けて頂きたいんです。―――先づ第一に姦通の事實を認めて、謝罪狀を書いて頂く事。それからですな、謝罪の條件として、將來斷然照子と手をお切り下さること。………」 と、鈴木は、爪の先が悉く短く喰ひ切られた右の手の指を折り數へて、 「手をお切り下さる證據に、此處の家を立ち退いて頂く事、………尤も此れは何ですよ、下宿をお尋ねなさる御都合もございませうから、五日以内に實行して下されば宜しいのですよ。あなたが照子に野心を持つておいでにならなければ、以上の條件を承諾なさるのは、そんなにむづかしい事ではございますまい。どうか一つ、明日《あす》のうちに御挨拶が願ひたいのです。私の方もいろいろ都合がございまして、………」 云ふだけの事を云つたら、好い加減にして引き退つたらよささうだが、殆んど際限なくブツブツと口を動かす。相手がどんなそつけ[#「そつけ」に傍点]ない素振を見せようと、耳があつたら聞えるだらうと云はんばかり、石に向つて念佛を唱へるやうな態度に出て居る。――― 「………お互ひにつまらぬ女の事なぞで、爭論したかないですよ。此れを御緣に御交際を願つて、又何かの時には私のやうな者でも、及ばずながらお力添へにならない事もないでせう。此れが男と女ぢや仕方がありませんけれど、男同士の喧嘩なんですから、濟んで了へば却つてサツパリして好い心持ちです。はゝ。」 佐伯は頭から蒲團を被《かぶ》つて、寢た振りをして了つたが、いつまで立つても愚劣な獨語《ひとりごと》が止みさうもない。折々ぽつりぽつりと途切れるから、今度は下へ行くかと思ふと、又續きが始まる。そのうちに、佐伯はふと、或る身の毛のよだつやうな物凄い事を考へ出した。鈴木がかうやつて、大人しく喋舌つて居るのは、其の實|張《は》ち切れさうな癇癪を堪《こら》へつゝ、此方《こつち》の樣子を窺つて居るのかも知れない。此方の仕業《しわざ》があまり冷淡なのに、いつ何時《なんどき》癇癪玉を破裂させて、 「やい、もう堪忍ならねえぞ!」 と、云ふより早く懷の匕首を拔き放ち、夜具の上からズバリとやられるかも知れない。伊勢音頭の貢《みつぎ》が萬野を殺すやうに散々無禮をさせ、增長をさせた揚句、いきなり不意討ちを喰はせないとも限らぬ。 さうだとすれば、蒲團を被つて知らん顏をして居るのは、危險千萬である。敵の動作がまるきり見えないから、いざと云ふ場合に逃げる事は愚か、聲一つ立てる譯に行かない。それでも、何か知ら敵の喋舌つて居る間は安心だが、言葉の途切れた時が、氣懸《きがゝ》りである。其の隙にそつと[#「そつと」に傍点]短刀の鞘を拂ふとか、蒲團の方へにじり[#「にじり」に傍点]寄るとか、いかなる用意をして居ないとも限らない。……… ちりん、と階下の格子を開ける音がして、叔母と照子が歸つて來た。 「おゝ寒かつた、おツ母さんあたし風を引いちやつたわ。―――さつきの駱駝の襟卷を買つてくれないからよ。」 などゝ云ふ照子の無遠慮な聲が二階へ響くと、佐伯のみぞおち[#「みぞおち」に傍点]の邊にこびり着いて居た不安の塊《かたまり》は、だんだん弛んで、溶けて了つた。同時に鈴木は、 「や、どうもお邪魔致しました。」 と、やをら身を起したが、 「また彼奴等に知れると面倒ですから、萬事あなたのお考へから出たやうにして、先程申し上げた通りの御處置を願ひたいんです。―――明日一杯お待ち申しますから、照子などに御相談なさらんで、祕密に御囘答をなすつて頂きたい。」 こんな事を云つて成る可く惶《あわ》てた態《ざま》を見せないやうに、悠々と引き拂つて行つた。すると、 「照ちやん、まあ着物だけでも着換へてからにおしなね。」 かう云ふ叔母の言葉が遠くに聞えて、 「いゝえ、ちよいといま直ぐ下りるわ。」 と云ひながら、照子が入れ違ひに梯子段を上がつて來た。さうして、男の傍へどたん[#「どたん」に傍点]と据わつて、 「鈴木が何しにやつて來たの。」 と、消えかゝつた火鉢の炭をいぢり始めた。
何でも、大分夜が更けたのだらう。電燈のあかりが一時ぼんやり暗くなつて、再びパツと明るく照つた。ばらばらばらと桐の葉に、思ひ出したやうな雨の雫があたるけれど、格別の降りではないらしい。 「ねえ兄さん。………何しに來たの。」 かう催促されたが、佐伯はやつぱり蒲團の中へ首を埋めて、微塵《みぢん》も動かないで居る。長く伸びた、蓬《よもぎ》のやうな髮の毛ばかりが、夜具の緣《ふち》から少し出て居る。 「お前、何處へ行つてたんだ。」 暫く立つと、彼は寢言のやうな調子で云つて、たつた今眼が覺めたやうに、眼瞼をぱちぱちやらせながら、途方もない橫ツちよ[#「ツちよ」に傍点]の方から顏を露はした。 「何處へ行つたつて、そんな事は構はないわ。―――それよりか、鈴木が何で此處へ來たのよ。あたしに云ふなツて威嚇《おど》かされたんでせう。」 「馬鹿を云へ。」 佐伯は出來るだけ瞳を額の方へ吊り上げ、殆んど窪んだ眼球が眉毛へ着くくらゐにして、仰向きに女の膝頭から腹、胸、襟のあたりをつく〴〵と眺めた。凡そ此の女の血色程、每日のやうに變化するものはあるまい。今日はおもての寒氣に觸れたせゐか頰ツぺた[#「ツぺた」に傍点]と鼻の先に赤味を帶び、肌が瀨戶物の如く冷めたさうにピカピカ光つて、顏の感じが全く異つて居る。 「照ちやん、お前鈴木と何か關係した事があるのかい。」 いつか一度は尋ねよう尋ねようと企らんで居た質問を、彼は此の機會に乘じて提出した。 「つまらない事を訊《き》くのね。あるかないか、考へて見たら解るでせう。」 怫然《ふつぜん》として色を作《な》す模樣もなく、平氣でこんな答へをするだけ、女の云ふ事が噓だか本當だか、ちよいと佐伯には判らなかつた。尤も照子はどんな場合にも、高聲で笑つたり喚いたりしない人間である。多分感情の動搖を有りのまゝに發表する事が、女の威嚴を損ずるとでも思つて居るのだらう。 「だつて鈴木は、立派に關係があると云つたぜ。」 「誰があんな奴と………」 「あんな奴でも、昔は秀才だつたさうだから、何ともわからないな。」 「解らなければ解らなくつてもいゝわ。そんなに辯解したかなくつてよ。―――若し關係があつたとしたら、それがどうなの。」 「己逹のした事は姦通だの何だのツて、あんまり彼奴の鼻息がえらいからさ。」 「それぢや兄さんは、すつかり鈴木に白狀しちやつたの。」 「うん、お前の日記を内證で見たんださうだ。もう隱したつて仕樣がないよ。」 佐伯は「どうでもなれ」と云ふ心になつて、投げ出すやうな物慵《ものう》い言葉遣ひをした。 「そりや鈴木が鎌を掛けたんだわ。あたし内證にも何にも日記なんか書きはしませんもの。―――兄さんは欺されたのよ。」 「馬鹿の癖に、いやに小刀細工をする奴だな。………」 かう嘲つては見たものゝ、ウマウマ一杯喰はされたかと思ふと、彼はいよ〳〵鈴木が憎らしくつて、業が煮えて堪らない。………いまいましさに腹の蟲がムヅムヅして、あたりの物を、手あたり次第に打ツつけてやりたくなつた。 「………知れたら知れたで構はないぢやないか。どうせ判るにきまつて居るんだ。」 「兄さんも隨分人が好いのね。自然と知れたのなら好いけれど鎌を掛けられて白狀するなんて、まるでお話しにならないわ。欺《だま》されたり威嚇《おど》かされたりして、いい加減馬鹿にされたんぢやあなくつて。―――ほんたうに仕樣がないわね。」 かう云つて、照子は襟にかけたヹールを外して、ふわツと男の夜具の上へ放り出すと、今度は大儀らしく橫倒しに寢ころび、佐伯の頭の方へ自分の顏を持つて行つて頰杖をついた。長い體が恰も蒲團と丁字形に、男の枕許を弓なりに包圍して丘の如く蔽うて居る。戶外より少しは暖かい室内の空氣にぬくめられて、血色はいつの間にか眞つ白に生き生きとして來た。 「鎌を掛けても掛けないでも、あんな奴には、どんどん本當の事を云つちまふ方がいゝんだ。なまじつか[#「なまじつか」に傍点]細工をするだけ、此方の、沽券《こけん》が下がるやうな氣がする。」 佐伯は兩手を頭の下に敷いて、天井を睨みながら、さも齒牙《しが》にかけるに足らんと云ふやうに空嘯いたが、やつぱりいまいましさが胸の何處かに殘つて居て、どうも溜飮《りういん》が下がらなかつた。 「それで鈴木は、姦通したからどうしろツて?」 「己に謝罪狀を書いて、此の家を出てくれツて云ふから、頭からドヤしつけて追つ拂つたんだ。―――あの馬鹿野郞!」 鈴木に威嚇《おど》かされたのでない事を女に頷かせる爲め、殊更强さうな文句を並べて見る。 「若しかすると、兄さんは鈴木に殺されてよ。………」 半分は冷やかすやうに、半分は心配するやうに云つて、照子は唇にむづ痒さうな笑を泛べたが、それは仰向いて居る男の眼へは入らなかつた。 「殺すなら、殺すがいゝ、彼奴は始めツから己を目の敵にして狙つてるんだから、關係しようと、しなからうと、どうせかうなるにきまつてゐるんだ。」 「ふゝ、大丈夫よ。」 橫倒しのまゝ、腰の骨を使つて、疊の上を游ぎながら、女は自分の顏が男の内ぶところへ入るくらゐ擦り寄つた。二人の體は丁度|二《ふた》つ巴《どもゑ》のやうに首を中心として、右と左に弧を畫いて居る。 「恐がらなくつてもいゝぢやありませんか。彼奴は人を殺せるやうな、そんなテキパキした人間ぢやないんですもの。あたしなんか、散々馬鹿にし拔いてやるけれど、怒つた顏一つしやしないわ。ほんとに大丈夫よ。さつきのは冗談に威嚇かして見たの、ほんとに安心よ。だから此れからいくらだつて………」 話の間に佐伯はぐるりと首を相手の方へ曲げて面《めん》と向かつた。男の前に頰杖を突張《つツぱ》つて居る照子の顏は、柔かい大福餅を押しつけたやうに、皺が寄つたりたるん[#「たるん」に傍点]だりして、分厚《ぶあつ》な唇や、眼瞼や、鼻柱や、頤の肉や、方々の皮膚がいろ〳〵に弄ばれ、殘酷な歪みなりの嬌態を呈して、媚びるが如く躍つて居る。肉が何かの歡喜に充たされて、踊りををどつて居るやうである。 「殺されない、殺されないと思つて居ると大違ひだ。己逹は殺されるより外、別に方法がないやうにばかりし向けてるぢやないか。彼奴はお前を殺さなくつても、己を殺すにきまつて居る。―――恐《こは》い恐くないは別として、己は唯豫言をして置くんだ。」 「そんな豫言は神經衰弱の結果だわ。」 「神經が衰弱すると、却つて或る方面には銳敏に働くから、普通の人間の判らない事まで感じるんだよ。」 「鈴木に殺されるくらゐなら、あたしに殺された方がよかなくつて?」 かう云つて女は、頰にあてがつた肘を外して、十本の左右の指を組み合はせて、掌《てのひら》を外側にして兩手を棒のやうにグツと男の方に伸ばした。丁度二つの掌の、網代《あじろ》に組み合はされた部分が、さながら蟹の腹のやうに思はれた。