腕くらべ

Part 4

Chapter 4 20,554 words Public domain Markdown

山井要が尾花家の忰と知合になつたのは淺草千束町の銘酒屋である。山井は芝居や宴會の歸りは無論の事。極《ご》く眞面目《まじめ》な用件で人を訪問した歸りにも、すこし夜が深《ふ》けたかと見れば、もういかな事にも眞直に下宿屋へは歸られないで、ふら〳〵と當もなく其處《そこ》此處《こゝ》の色町をぶらつく。然し待合は前々からの借金で體《てい》よく斷られ、吉原洲崎へは懷中を逆《さか》さに振つても車代にさへ足りないと云ふやうな場合になると、陰慘な魔窟も一向お構ひなく醉つたまぎれに一夜を明すのである。目が覺めてからは流石に慚愧後悔する事もあるが、多年放蕩無賴を盡した身はなか〳〵意志の力に制御されるものではない。山井はこの弱點に對する種々なる感情をば、「肉の悲しみ」だとか或は「接吻の苦味」だとかいろ〳〵新しい言葉で綴出した短歌に咏じて、憚る處なく彼の所謂「眞實なる生命の告白」なるものを發表するのであるが、幸にこの告白はいつも新奇を追ふ文壇に歡迎され、麁々《そゝ》ツかしい批評家から新時代の眞に新しい詩人は山井要である。彼こそは正しく日本のウエルレエヌであると稱され、自分ながらも醉拂つて氣の少し大きくなつた時には、どうやら其れらしい心持にもなつて、山井は遂にかゝる藝術的功名心の爲めに强いてさういふ廢頽した感情の中に其の身を沈淪させやうと勉めるのであつた。もと〳〵彼の學力は中學校も極く不成績で卒業した位なので外國語の知識と云つては餘程覺束ないのであるが、自分だけの心持では眞實噓でも見得でもなく、次第々々に西洋の藝術家らしい氣になりすましてしまふので、既に二三年前、梅毒にかゝつて兩橫根を踏出した折も、いかなる書物で見知つたものか、佛蘭西の文豪モオパツサンも梅毒の爲めに發狂したのである。それを思へば同じ惡疾の犧牲となつた自分は深甚の恐怖と慚愧の中にも自《おのづか》らまた烈しい藝術的熱情の昂奮を禁じ得ないとやら云つて得意の短歌數十首を讀みこれを「沃《えう》土《ど》保《ほ》兒《る》謨《む》」と題して出版した事もある。これも文壇の評判よく山井はその原稿料で病院の藥代だけは珍しく倒さなかつたとやら。

淺草公園花屋敷の裏手なる臭《くさ》い溝緣《どぶつぷち》に鶴菱《つるびし》といふ軒燈《あかり》を出した銘酒屋がある。山井は待合で藝者も買へず、と云つて吉原洲崎まで乗出すのも退義《たいぎ》な折々、この鶴菱といふ銘酒屋へ宿りに來る。姊さんはお歲《さい》と云つて年は二十四五。かういふ賤業のものには珍しく頭髮《かみのけ》と血色《けつしよく》のいゝ身丈《せい》の高い女で、ぱつちりした眼と遠山形の濃い眉とが、鼻の低い口にしまりの無い平顏の缺點をも、どうやら見直せるやうに補つてゐる。

山井は或時吉原の朝歸り、お歲《さい》の家へぶら〳〵やつて來ると、素袷の寢衣に細帶もしどけないお歲が、店口の長火鉢で鰺の干物を燒きながら、茶辨慶の銘仙か何かの褞袍を着た二十二三の色の白い好い男と猫足の膳を中にして一杯呑んでゐるのを見た。お歲は山井の姿を見るとばたばたと馳寄つて抱き付き、 「隨分よ。旦那。あれツきりぢや餘《あんま》りひどい事よ。いゝから、お座《すは》んなさいよ。さアお酌しませう。」と引倒すやうに猫足の膳の向へ座らせる。と見ればかの若い男の姿は早くも何處へやら消えて跡もない。

山井は銅貨銀貨取りまぜ、どうやらかうやら壹圓取りまとめて女に渡し、逃げるがやうに孤鼠《こそ》々々《〳〵》と戶外《そと》へ出た。日の當つてゐる處へ出て風に吹かれると山井は全く異つた心持になつた。腹さへ張れば寸時前の飢を忘れると同樣、悠然と杖を小脇に公園の樹下を步み、やがて立止つて煙草をふかしながら正面に聳ゆる觀音堂の建築をば、いかにも美術家らしい樣子振りで眺め始めた。然しこれはわざと氣取つたのでも何でもない。山井は飽くまで眞面目なのである。彼はいつぞや何かの雜誌で西班牙のゾラと稱せられるブラスコ・イバネスといふ小說家がトレド市の大伽籃を中心にして其の周圍の人々の生活を描いた小說|伽籃《カテドラル》の批評を讀み、早速これをば淺草の觀音堂に移して一つ長篇の小說を作らうと考へてゐたからである。山井はいろ〳〵な雜誌に出てゐる西洋文學の紹介からいつでも暗示を得て、直ぐにそれを自家藥籠中のものにする敏捷な才がある。然し一度も原書を讀んだ事がない。讀むだけの學力がないのが、つまり彼の幸福なる所以、剽竊の罪を免るゝ所以、原作の爲めに自己の空想力を制限せらるゝ虞のない所以である。

卷煙草の一本もやがて吸ひ終らうとするまで茫然と佇んだまゝ觀音堂を打眺めてゐた山井は、突然後から、 「山井先生。」と呼びかけられて驚いて振返つた。そして呼びかけたものゝ顏を見るや山井は更に驚いたばかりか、其の瞬間一種不快な恐怖に打たれた。呼びかけた男といふは今方銘酒屋鶴菱の長火鉢でお歲と茶漬を食べてゐた色の白い若い男であつたからである。 「何だ、僕に用があるのか。」と山井は云ひながら頻に四邊《あたり》を見廻した。 「先生、突然お呼びして全く相濟みません。」若い男はひよこ〳〵腰をかゞめ、「私はあの……投書家です……去年先生が選者になつてお居での時分、□□雜誌で當選しました。一度是非先生にお目に掛かりたい掛かりたいと思つてゐました。」 山井は稍安心した體で近くのベンチへ腰を卸した。この若い男が卽ち尾花家の忰の瀧次郞である事を山井は其の後委しく當人の口から話して聞かされたのである。

瀧次郞は十四の秋まで父なる講釋師楚雲軒吳山と母なる藝者十吉の手許《てもと》に置かれて新橋の藝者家から近所の小學校へ通つてゐたのであるが、いよ〳〵來年は尋常中學に進まうといふ年の秋、長くかういふ處に置いてはよくないと父吳山の意見に、母の十吉|姐《ねえ》さんも餘義なく、それではといろ〳〵御贔負のお客樣にも相談した末長年一中節のお相手に呼んで下さる法學博士辯護士何某先生に賴んで、其の書生部屋に置いて貰ふ事にした。何某博士は駿河臺に立派な屋敷を構へてゐる。瀧次郞はそこから中學校に通ふ事になつたが、これがそも〳〵瀧次郞の一生を誤まらせる原因であつた。最初吳山はこれから勉强盛りの若いものをば我家とは云ひながら長く藝者家なぞに置いてはよろしくないと思つたのは尤の次第であるが、然し瀧次郞の一生は他人の家よりも寧ろ武士氣質の失せない頑固一點張な父の許《もと》に置かれた方がまだしもましであつたらうと、後になつて吳山はじめ母の十吉も諸共後悔したが、それは全く諺にいふ後のまつりであつた。

瀧次郞は博士先生の書生部屋に住込んで十六になるまで二年ほどの間は誠に行末賴母しい勉强家であつたが、其の年の暮に博士の家では奧樣が心臓病になつて唯《たつた》一人の御孃樣をつれて大森の別莊へ養生に行つてしまつた爲、自然博士先生も其の方へ行つて泊ることが多くなり、本邸は遂に午前だけ事務を取りに來る出張所も同樣になった。さうなると主人のゐない留守を幸ひ書生と女中はてんでに勝手次第の事をしはじめた。只さへあまり品行のよくないのは法學書生の常である。瀧次郞は忽ちの中に感化され、滿一年程たつて十八の時には早くも手のつけられない道樂者になりおほせてしまつた。夜になると我慢にも家にはゐられない。近所の氷屋牛肉屋煙草屋なぞの女や娘を張りに行く。夜半《よなか》には書生と競爭で家《うち》の女中を引張り合ふ。日中も電車で通學の折々乗合はした女學生を誘惑しやうといろ〳〵苦心する始末。或夜神田明神の裏手へ近所の煙草屋の娘をおびき出さうとした處、運惡く丁度その夜不良少年の檢擧で網を張つてゐた刑事に見咎められ否應なく拘留された。この事が自然學校へ知れて瀧次郞は早速退校を命ぜられると共に、博士先生の家からも亦|體《てい》よく斷られるやうな始末となつた。

父の吳山は火のやうになつて怒る、母の十吉は何といふ情《なさ》けない事だと云つて泣いたがもう仕樣がない。瀧次郞は一先新橋の藝者家へ引取られ親の顏に泥を塗つた不屆者だと、父から嚴しく禁足を申付けられたが、もう親の意見なぞおいそれと聞いてゐるやうな瀧次郞ではない。何しろ吳山は午飯をすませば每日雨が降らうが風が吹かうが大きな信玄袋に羊羹色になつた五所紋の羽織と張扇を入れて晝席へ出て行き、夕飯頃に歸つて來てすぐ又夜の席へと出掛けねばならぬ。道の都合で晝席から其のまゝすぐと夜の席へ廻つてしまふ事もある。母は又藝者の事とて每夜御座敷へ出るところから、いくら嚴しく禁足を申附けたとて事實瀧次郞を監督するものは家中には一人もゐない譯である。其の時分尾花家には役者になつた長男の市川雷七がまだ逹者でゐたが、これも朝飯をすますと芝居のある無しに係らず直ぐ師匠の家へ行つて終日働き夜も十時過ぎでなくては歸つて來ない。

藝者家と云ふと餘所目《よそめ》にはいかにもだらしが無ささうであるが、内へ這入つて見れば主人夫婦を始め抱えの藝者内箱の女から水仕《みづし》の奉公人まで皆それぞれにいそがしい。女主人の十吉は每夜十二時或時は一時過るまで御座敷を彼方《あつち》此方《こつち》と勤め步いて、ぐつたり疲《くた》ぶれて歸つて來ても、其の翌朝は矢張それ相應に早く起きなければ其の日の稽古が間に合はない。十吉は每朝常磐津淸元一中河東薗八荻江歌澤とそれ〴〵諸藝の家元へ稽古に行き、歸つて來てからは自分の家の半玉に稽古もしてやらなければならぬ。抱えの藝者衆の着物の世話や相談もしなければならぬ。御座敷で彈くべきものゝ都合では他《ほか》の藝者と豫め打合せもして置かねばならぬ。演藝會の下ざらひも土地の古顏だけに折々は手傳つてやらねばならぬ。と云つたやうな始末。さうかうしてゐる中には髮を結ひ湯へ這入るべき刻限、それをすましてやれ煙草一服といふ時分には、もう晩飯《ばんめし》の仕度である。抱えの藝者もまづそれと同じ事。箱屋は玉帳の勘定と電話の挨拶、藝者の衣服や身の廻の雜用に身體が二つあつても足りない位。下女はかゝる多人數の食物と洗濯と風呂の始末にこれ亦一人の手ではなか〳〵休む暇はない。

一體この尾花家は主人の吳山老人が皆《みん》なから小言幸兵衞と綽名されてゐる位口八釜しいので、商賣の事は勿論何から何まできちんと奇麗に取片づいてゐる事は新橋中おそらく此の家に越す處はあるまい。して又、藝事の稽古と來たらまるで劍術の修行も同樣容捨なく嚴しいので以前から名代な家である。それと云ふのも、吳山は癇癖のつよい一酷な性質から何に限らず物事を好加減にして置く事が出來ない、講談師仲間では今一二の古顏であるが一人も弟子を取らず、又弟子もつかないのは修行が嚴し過ぎるからだとの事。されば家の藝者の稽古も、稽古をするとなれば專門家《くらうと》の修行同樣眞劍に仕込ませねば氣がすまないので、餘所《よそ》の二階でさらつてゐる三味線をきいてもどうかすると、何だいあれアと云つて眉を顰める事も度々である。藝者と役者は世間の花だ。外へ出て萬一の事でもあつた時身だしなみがわるいと人に思はれちや末代までの恥だ。がらりと格子戶を明けて戶外へ出る時にや、肌襦袢と腰卷だけは新しいのをしめて行け。着物や持物は決して奢るなよと云ふのが藝者に對する吳山の家訓である。然し女房の十吉がこれは又いかにも當りの柔らかな氣のゆつたりした優しい女なので、偏屈な亭主の云ふ事をも程よく弱らげ、巧みに抱えを始め家中の折合をつけて行くのである。

瀧次郞はかやうに家中皆それ〴〵いそがしがつてゐる中に、その身一人は其邊にちらかつてゐる新聞や雜誌をば每日欠伸《あくび》をしながら讀むより外に何一つなすべき事がない。吳山は今の中に嚴しく意見をして心を入直させれば、まだ徴兵檢査前の身體故、どうにか行末の目當もつくであらう。學校は中途でよされて今更仕樣もないから、いつそ堅氣の商家へでも奉公に出したらばといろ〳〵其の方面の手蔓を求めたが、藝者家の忰で中學校を退校されたと知れては何處もまづ不首尾である。母の十吉は諺にも蛙の子は蛙と云ふから、もう中年《ちうねん》ではあるが何か藝を仕込んで藝人にした方が間違ひがあるまいと云ふ。然し唯藝人と云ふばかりでどう云ふ種類の藝人になるべきものやら。これは瀧次郞の身になつても鳥渡卽座には決心しかねる譯である。實の兄は既に役者で相應に賣出してゐるので今更下廻りの役者になつて其の下につくのも業腹だし、父吳山の弟子になれば、唯さへ八釜しい親爺に猶更手嚴しくやつ付けられねばならない。三味線彈も今からこの大きな身體で一つとやの稽古も出來ず、さうかと云つて新派の役者や曾我の家一流の道化役者の弟子にもなる氣はない。瀧次郞は每日手當り次第に雜誌や新聞を讀んでゐる中不圖小說家とか文士とか云ふものになつたらどうか知らと云ふ氣を起したが、然しどうすればその道の人になれるのやら全く當てがつかないので、これも其のまゝ烟《けぶり》と消え、瀧次郞も今はつく〴〵自分ながらも其の身の持扱ひ方に窮した揚句、或仲買の店へ兎に角口を聞いてくれるものゝあるが儘當分氣を變《かへ》る爲めに住む込む事となつた。 おとなしく勤めたのはほんの當座半年ばかりの事、瀧次郞は手近な蠣殻町の賣春婦を買ひ散らし店の金をすこしばかり使ひ込んだのを忽ち發見されて解雇となり、再び新橋の家へ引取られたが、おひ〳〵自暴自棄になり出した瀧次郞は、もう我慢にも三日と長く窮屈な兩親の元にゐる氣はなく、或夜の事無人な家の留守を幸ひ、母と抱えの藝者の衣類簪なぞをかつさらつて逃げてしまつた。

十五 宜春亭

山井がなが〳〵と飽かずに語りつゞける尾花家の忰の話がまだ終らぬ中に、電車はいつか銀座通へ來た。瀨川はつと席を立つて降りると山井もつゞいて降りた。そして瀨川が乗換の電車を待たうと服部時計店の前に佇むと、山井もいつか其の後について同じ處に立つてゐるので、 「お宅は。」ときくと、 「家は芝白金です。」 「矢張こゝで御乗換ですか。」 「いえ、いつでも芝の金杉橋で乗換へます。」と山井は云ひながら一步瀨川の方へ進寄り、「何時でせう。まだ家へ歸るのは少し早いやうだ。」 「まだ十時にやなりません。」と瀨川は手首《てくび》にはめた金時計と服部の店に並べた時計の時間とを見くらべる。 「この頃新橋の景氣はどうです。私はもうとんと近頃は遊びませんが……。」と山井はつゞいて二輛ほど電車が來ても一向乗る樣子なくいつまでも立つてゐる。

瀨川は始めて山井の胸中を推察した。どこかへ遊びに連れて行つて貰はうといふに違ひない。困つたものだと思つたが、またこの場合知らぬ顏で山井一人を殘して行くのも何となく可哀《かあい》さうな氣もする。情は人の爲ならず今夜一杯飮まして置いたら後日何かの爲にもならうと思直して瀨川は何ともつかず、「電車も遠いと乗りくたびれますね、どこかで休みませう。」 云ひながら向側へと線路を橫切つて行くと山井はもう喜悅滿面、この鳥を逃しては大變と追掛けるやうに其の後に從ひながら、然し殊勝にも向から來る自働車をば、 「あぶないですよ。」と注意した。瀨川はすた〳〵ライオンの前を行過ぎながら鳥渡振向き、 「山井さん、どこかお馴染のお茶屋はありませんか。」 「無い事もありませんが、僕の知つてゐる家はとても汚《きたな》くつていけません。あなたの名譽に關します。それよりか今夜はあなたの本陣を紹介して下さい。秘密は誓つて守ります。はゝゝゝは。」 瀨川は一寸行先に迷つたらしく首を傾《かし》げて步みをおそくさせたが、そうかうする中に忽ち三原橋へ來てしまつたので、もう仕樣がないと思つたらしく、 「私の知つてる家もあんまり綺麗な方ぢやありませんよ。然し遊びはあんまり豪勢な構ひよりか小じんまりした方が心持がいゝやうです。」 瀨川は行きつけた待合宜春へ山井を連れて這入《はい》つた。二階の表座敷へと案内する女中のお牧は手をついて挨拶するとすぐ後は懇意な調子で、「旦那、たつた今お電話が掛りましてすよ。」 「どこから。」 「わかつてるぢやありませんか。さう申しませうね。」とお牧はもう立掛ける。 「おいお牧さん。駒代は駒代でいゝから、その外に誰か呼んでおくれ。」 「どなたにしませう。」と女中は再び坐り直して瀨川と山井の顏を見た。 「山井さん、誰がいゝでせう。」 「藝者はまア駒代さんが來てからでいゝでせう。それよりかお酒を願ひませう。」 「只今。畏りました。」と女中は坐を立つた。 「藝者ツてものは妙なもんで、脈の合はない同志が一座すると却て座がしらけていけません。」と山井はいよ〳〵腰を落付けやうと云ふ心が胡坐《あぐら》をかいて紫檀の卓へ兩肱をついた。 「見かけによらず女は誰しも片意地なもんですね。」 「それが女心と云ふんでせう。」と山井は菓子鉢の乾菓子《ひぐわし》を摘み、「瀨川さんこれア餘所で聞いた噂なんですが、近々にいよ〳〵御結婚なさるつて云ふ事ですが、ほんとうですか。」 「駒代とですか。」 「えゝ。ちら〳〵さう云ふ噂を聞きます。」 「さうですか、そんなに評判なんですか。困《こま》りますね。」 「何も困る事アないぢやありませんか。結構ぢやありませんか。」 「僕はまだ經驗がないんですが、結婚つて云ふものはあんまり面白いもんぢや無さゝうですね。僕は何だかもう少し獨りで氣樂にして居たいやうな氣がするんですよ。何もあの女がいやと云ふ譯ぢやない、それとは全く別の話で……。」と瀨川は獨りで申譯らしく云ひ添へた。

結婚といふ事が何と云ふ譯もなく妙に窮屈に感じられ、又これまでの自由な華やかな生涯の終了《をはり》であるやうに思はれる事は、山井自身の經驗に於ても矢張同じ事なので、 「結婚しやうと思へばいつだつて出來る話なんですからな、何も急ぐにや當りません。然しいづれ一度はこれも人生の經驗でせう。」 女中のお牧が酒肴を運んで來た。 「駒代姐さん最《も》う三十分ばかりしますと伺ひますツて、お電話で御ざいます。」 「向で三十分と云へばまづ一時間半だね。それぢやお牧さん彼女《あれ》の來るまで、誰か直に來られるのを呼びたいもんだね。新橋の藝者はどれもこれも待たせるからなア。」 「待たせた揚句に、來ればすぐ電話で後口でせう。はゝゝは。」と方々倒して步いたゞけ山井もなか〳〵の通人である。 「ほんとにねえ。」とお牧は眞實らしく溜息をついたが急に思出して、「今日お弘めの妓《こ》があります。つなぎに呼んで見ませうか。ぽつちやりした色の白い、何となく具合のよさゝうな人よ。ほゝゝゝほ。何でも立派な御醫者樣の奧さんだつたんですつて。」 「それア奇妙だ。どうして藝者なんぞになつたんだらう。」 「人の話だから眞實《ほんと》だか虛言《うそ》だか分りませんけれど藝者になつて見たくつて、無理に好んでなつたんですとさ。」 「さうかい、それア見たいもんだ。山井さん、さういふ女は矢張新しい女ツて云ふんですか。」と瀨川は眞面目に質問する。 「さうでせうな。私の處へ短歌の添刪を賴みに來る女には、隨分藝者になり兼ねないやうなのがあります。」 「何しろあなた方の商賣は羨しい。第一時間で身體を縛られるツて云ふことがないし、それに又遊びに行つても内所で好きな事ができるけれど、そこへ行くと私逹はすぐに顏で知られてしまふから……さう馬鹿な騷ぎ方も出來ないしつまりません。」 「その代何處へ行つても吾々のやうに冷遇される氣遣はない……。」 「何ぼ役者だつてさうは行きませんよ。」 二人は唯面白さうに笑つた。やがて靜に襖があいて敷居際に挨拶する島田が見えた。お牧が話をした弘めの藝者といふのはこれであらう。白襟に裾模樣の紋付を着た年は二十前後。癖のない髮と濃い眉毛、黑目勝の大きな目には申分がないが、額は大分廣く頤の短い圓顏。そして手の太い肉付のいゝ大柄の身體には出《で》の衣裳がいかにも着にくさうで、島田の鬢の搔き具合、馬鹿に濃過ぎる白粉のつけやう、萬事が藝者らしくない處が二人の目には却て興味を引くのであつた。然し割合に人馴れてゐて山井が早速さす杯をも惡びれずに受け、 「急いで來たもんだから呼吸が切れて仕樣がありません。」と飮み干して英語で「難有《サンキユウ》」と杯を返す、其の調子には何處の國とも知れず著しい訛りのあるのが耳立つのであつた。 「何て云ふ名だえ。」 「蘭花《らんくわ》ツて申します。」 「蘭花――支那の女の名見たいぢやないか。なぜもつとハイカラなのにしなかつたんだ。」 「私《わたし》まつたくはすみれと[#「すみれ」に傍点]付けたかつたのよ。ですけれど他《ほか》にもうすみれさんて云ふ方があるですツて。」 「今まで何處《どこ》へ出てゐたんだ。葭町か、柳橋か。」 「いゝえ。あなた。」と蘭花はどういふ譯か急に語調《てうし》を强めて、地方訛の一層耳立つのも知らぬ顏で、「藝者は全く始めてゞすわ。」 「それぢや女優か。」 「いゝえ、然し私女優さんには成つて見たうござんすわ。藝者でもし賣れなかつたら女優さんになりますわ。」 瀨川は山井と顏を見合せて覺えず微笑《ほゝゑ》み、 「女優になつたら蘭|花《くわ》さんはどんな役がして見たいと思ふね。」きくと女は更に憶する樣子もなく、 「わたしジユリエツトがして見たうござんすわ。シエーキスピアの――あの窓の處でロメオと鳥の聲を聽きながら接吻《キツス》する處が御在いませう、何とも云へませんわ。松井須磨子さんのサロメなんて私は厭《いや》ですわ。人樣に裸體《はだか》を見られに出るやうなものですもの。肉襦袢は着てゐるんでせうけれどもねえ。」 瀨川は少々煙に卷かれた體で默《だま》つてしまつたが、山井は漸く重ねる杯と共にもう嬉しくてたまらないらしく、 「蘭花さん、あなたは實に藝者には惜しい。思切つて女優におなんなさい。さうすれば僕も及ばずながら力になります。僕だつて藝術家の一人です。藝術の爲なら自他の區別はないです。」 「あら、あなた藝術家でゐらしつたの。何と仰有《おつしや》るの、お名前を聞かして頂戴よ。」 「山井要といふのは僕です。」 「あら山井先生でゐらつしツたの。それぢや先生の歌集はわたくし皆悉《みんな》買つて持つて居りますわ。」 「さうですか。」と山井はます〳〵悅に入つて、「ぢや、あなたも何か創作があるでせう。え、蘭花さん。聞かして下さい。」 「いゝえ、とてもむづかしくつて出來ません。ですけれど煩悶のある時は歌でも讀むのが一番慰藉ですわねえ。」 瀨川はいよ〳〵呆れて唯煙草をぱく〳〵其の煙の中から山井と蘭花の顏を目戍《みまも》るばかりであつた。

十六 初日 上

新富座は定めの時間午後の一時に初日の蓋《ふた》をあけた。一番目は繪本太閤記の馬盥に十段目、これは以前子供芝居の時分からいやに三河屋張の老役《ふけやく》に劇界の麒麟兒と名を取つた市山重藏が出し物、それに娘役の瀨川一糸が重次郞の初役で評判を取らせ、三幕目には筋の連絡なく忽然と琵琶湖の乗切をつけて、これは活動寫眞式の大道具で子供をだます樣に見物を喜ばす趣向。扨中幕は二十四孝の狐火。二番目は大阪役者袖崎吉松の紙治といふ並方である。初日は土間桟敷とも五拾錢均一といふのに、幕間の長いのと狂言の出揃はないのは承知の上の大入序幕が切れる頃には本家茶屋と芝居の木戶口には早くも土間桟敷賣切申候の札が下げられた。

駒代は樂屋で着到の大太鼓が鳴る時分既に本家茶屋の一間に詰めかけて、茶屋の出方の中で顏の知れたもの三四人に祝儀をやり、又瀨川の男衆|綱吉《つなきち》といふのを呼んでこれには過分の祝儀、まだ其の上に樂屋の頭取と口番には瀨川の部屋へ女房氣取で自由に出入がしたい爲めにまた相應の心付《こゝろづけ》。そして今度瀨川が初役の重次郞をつとめるといふ事から新橋中の知合を運動して引幕一張を贈つたので其の爲め大道具へも渡りをよくした始末である。

駒代は朋輩の花助をさそつて東の鶉の三に陣取つて、今方馬盥が切れた後場内滿員となつた景氣を見ると、これは誰の力でもない、瀨川一糸一人の人氣の爲めだといふ氣がするのである。そしてこの大《たい》した人氣の役者に思ひ思はれた女は誰あらう此處にかうしてゐる私だよと思ふともう居ても立つても居られない程嬉しくもあり、又晴れて夫婦になれるのは何時《いつ》の事だらうと思へば忽ち果敢いやうな悲しいやうな心持になるのであつた。 「姐《ねえ》さん、先程はどうも。」とざわ〳〵人の往來《ゆきき》してゐる廊下をば鶉の戶口へ膝をついて、そつと皺だらけの顏を出したのは一糸の父先代菊如の時分から相中の古い弟子菊八である。 「先程太夫さんがお這入《はい》りになりました。」 「さう。濟みませんね。」と駒代は云ひながら煙草入を帶に納め、「花ちやん、兄《にい》さんが來たつて云ふから今の中、一|緖《しよ》に樂屋へお出でな。」 何處《どこ》までも取卷藝者に出來てゐる花助は默《だま》つて柔順《すなほ》に後《あと》から席を立つた。相中《あひちゆう》の老優菊八は人込の中を先に立つて、奈落へ通ふ向揚幕の方へと步いて行く。その後につゞいた駒代と花助の姿をば摺違ひに認めて、 「や、駒代さん。」と聲をかけたのは脊の低い眼鏡の洋服。 「おや、山井さん。昨夜《ゆふべ》あれからどうなすって。」 「いや、どうも、大變な藝者に出《で》ツくわしましたな。」 「隨分見せつけましたね。今日はたゞぢや濟みませんよ。」と笑つた。駒代は實の處山井を知つたのは昨夜始ての事であるが瀨川の兄《にい》さんの連れて來た人だと云ふ事からわざとらしい迄に親しく見せて愛嬌を振撒くのである。駒代は誰彼の區別はない、瀨川の知己《ちかづき》だと見れば一生懸命氣受をよくし、それほど瀨川の爲めに心を碎いてゐるかといふ事を知らせて、次第に周圍一帶の同情を身に集め、行末はどうあつても夫婦にならなければ周圍《はた》が承知しないと云ふやうに仕掛けてゐるのである。されば山井が文士だと聞くだけに駒代は身方にすれば一層賴母しい人のやうに考へて一晩や二晩の遊び位は承知の上で引受けてやらうと思つてゐる。駒代は世間をよく知らぬ藝者の考へで、文士といふものは辯護士が法律を商賣にしてゐるやうに、これはこま〴〵と人情を書くのが商賣だから人情にからんだ事柄を賴めば間違はないと自分勝手にきめて居るのである。

山井は駒代と共に同じく奈落へ降りながら、「實は瀨川君に昨夜《ゆふべ》の話をしやうと思つてゐたんです。」 ところ〴〵瓦斯の火がぼんやり點《つ》いてゐる地の下の奈落を過ぎて一同は樂屋へ出ると、こゝは取分《とりわ》け初日の大混雜。駒代と花助は互に手を引合ひ、黑衣を着た男や尻端折の男達がいづれも忙《いそが》しさうに駈《か》け上つたり駈《か》け下りたりしてゐる梯子段をば廊下の左側、鴨居の上に瀨川一糸と木札を下げた部屋の障子をあけると、半分は板敷になつた出入口の三疊、片隅の居爐裏で湯を沸してゐた男衆の綱吉がいつも御祝儀の利目《きゝめ》、駒代の姿を見るより早く奧の間へ座蒲團を敷きに立つた。

瀨川は八反の褞袍に平ぐけを〆め、朱塗の鏡臺の前に緋綸子の大きな厚い座蒲團を敷き胡座《あぐら》をかいて白粉を溶いてゐたが鏡の面に映る一同の姿に、 「昨晩はどうも。」とまづ山井先生へ挨拶。それと共に如才なく花助の方へも愛嬌を見せて、 「お敷きなさい。」 「花ちやん。お敷きなさいよ。」と駒代も花助に座蒲團を勸めながら、然しわざと自分は敷かず少し下座へ下つて綱吉が持つて來る茶をばまづ山井の前へすゝめるなぞ、萬事すつかり女房氣取である。

瀨川は白粉を溶いた指先を手拭でふきながら、「昨夜あれからどうしました。お泊りでせう。」 「いや、歸るにや歸りました。」と山井はにや〳〵笑ひながら、「歸つたら三時です。」 「どうですか、怪しいもんですね。」 「あの鹽梅ぢや、先方《さき》で歸しやしませんわ。ねえ、あなた。」 「申譯をしてもいけませんかな。はゝゝは。兎に角變つてましたな。新橋にや時々不思議な藝者が現れますな。あなたの役者だつて云ふ事はとうとう知れずじまひでした。」 「あらまア。」と駒代は眞《しん》から呆《あき》れたやうに目を睜《みは》つた。 「そいつアいゝ。」と瀨川は啣へてゐた卷煙草を火鉢へさして褞袍の兩肌をぬぎ譯もなく兩手で顏から頸へと白粉を塗りはじめたので、一同は自然と話を途絕して鏡の面を眺める中にも、駒代はもう總身に力瘤を入れぬばかり一心に眼を据ゑるのである。 「山井さん。是非また出掛けませう。」と瀨川は云ひながら手早く眉を作り口紅をつけると、先刻から衣裳小道具を揃へてゐた男衆の綱吉は瀨川の立上るのを待つて、すぐと桔梗の紋を金絲で縫つた奇麗な裃を着せかける。床山は髷の大きい前髮のある鬘を持つて後《うしろ》へ廻る。瀨川は忽ち錦繪にも畫けまいと思ふやうな美しい若衆になつた。駒代はあたりに人がゐなかつたら、初菊の役を橫取して窃と寄添つて見たいと思ふ心をぢつと我慢して眞《しん》からほれ〴〵と涎を垂らさぬばかり、どうしても目を離す事ができないのである。これまで見馴れた女形とは又ちがつて水の垂れさうな若衆の姿。惚れ込んだ女の目にはいゝ上にも更に更に、何とも云ひやうのないほど實に好く見えてならないのである。駒代は自分ながら口惜しいと思ふほど、惚れる上にも又更に惚《ほ》れ直してしまつたと、何ともつかず窃《そつ》と人知れず溜息をついたが、そんな事には一向無頓着な瀨川は、 「綱吉、まだ廻りにやならないか。」と駄々ツ子のやうに云捨て呑みさしの卷煙草を口へ啣へて立上る。

其時出入口に草履を揃へてゐた黑衣の弟子が何やら丁寧に挨拶してゐる樣子に、一同は誰かと振返ると、髮を切下にして鐵無地の被布を着た品のいゝ女が、「お目出度う。」と云ひながら這入つて來たのに、駒代は喫驚《びつくり》したやうに突と座《ざ》を下《さが》つて、誰よりも先に、 「お目出度う御座います。其後はつい御無沙汰を致しまして。」と丁寧にお辭儀をした。

先代の菊如の後妻、今の一糸が繼母に當るお半である。 お半は目のぱつちりした鼻の高い瓜實顏。髮こそ切つてゐるが色の白いつや〳〵と皮膚《きめ》の細《こまか》い額にはさして皺も目立たない。よく上方の美人にある顏立。人形のやうに唯綺麗なばかりで表情に乏しい。然し綺麗といへば頸筋から手先まで年寄りとは思へぬ程綺麗で又どことなく品のいゝ處はどうやら公家華族の御後室とも見れば見られる樣子である。 「いつもえらいお骨折で。」と愛想よく駒代の方に笑顏を見せて、「大層よく出來ましたね。矢張佐渡屋ですか。何しろ毛がいゝんだから、何に結つてもよくお似合ひだ。」 「あら大變。」と駒代は餘義なさうに笑つて、「かもじでどうやら斯うやら結つてゐるんですよ。」 舞臺の方で拍子木が聞える。瀨川は一同へ「御ゆるり。」と云ひながら突と座を立つた。男衆の綱吉は朱塗の蓋のある湯呑を持つて後から廊下へ出る。山井は駒代と花助の顏を見|遣《や》つて、 「肝腎な瀨川君の初役を見そくなつちや大變だ。」と獨言のやうに座を立つので、二人は渡りに船とお半へ挨拶もそこ〳〵つゞいて廊下へ出た。そして一同元來た奈落へ降りかけた時、花助は小聲で、 「駒ちやん、あの方が兄《にい》さんの阿母《おつか》さんかい。」 「さうだよ。」 「品のいゝ綺麗な方ねえ。私お花かお茶の先生かと思つたわ。」 「何かゞ萬事あの通り綺麗にきちんとしてゐるから私逹のやうながさつな者ぢや、とても駄目なんだよ。だからさ。」と駒代は覺えず聲を高めたのに氣がついて後を振返つたが、薄暗い奈落には誰も通らず、舞臺の上の方で大道具の金槌の音が陰に籠つて反響するばかり。幕はまだ明かぬらしい。 「だからさ。いくらどうしようたつて駄目なのよ。第一あの阿母《おつか》さんが不承知なんだつて云ふんだから……考へると情なくなつちまふ。」 「まだ表向さうと極りもしない中から姑根性を出すのかね。」と花助は事の是非に關らず相手の話に調子を合せるのが癖なので、内心では瀨川の兄さんはあれでなか〳〵浮氣者だから阿母さんばかりがさう惡いときまつたものでもなからうと思ひながら、そんな事を云つたつて夢中にのぼせ切つてゐる駒代の耳に這入るわけはない。なまじつまらない事を云つて人の氣を惡くさせた上恨まれてはつまらないと、唯その場合〳〵いゝやうな事を云つてゐるのである。駒代は全くその通。二人の仲は誰も知つての通これほど深くなつて居ながら、今だにどうともきまりが付かないのは内輪にあの阿母《おつか》さんがあるからだと一圖にさう思込んでしまつてゐるので、表面《うはべ》は蟲も殺さぬやうな優しい事を云はれると此方《こつち》は口《くち》が自由にきけないだけ、唯もう癇癪が起つて口惜しくなるばかりである。 「世の中ツてものはどうして斯《か》う思ふやうにならないんだらう。」と獨りで嘆息したが、やがて奈落を出ると木が這入つて丁度幕のあく處、奈落とは全く世界のちがつた場内《じやうない》の景氣に、駒代は忽ち其方へ氣を取られて小走りに鶉へいそぐと、其の後について山井は誘《さそ》はれもしないのに默《だま》つて同じ鶉へはいつた。芝居でも料理屋でも待合でも何處といはず知つた人の尻について默《だま》つてぬツと這入《はい》ツてしまふのは蓋し山井先生の得意とする處である。山井は駒代と花助を兩脇に敷島をぱく〳〵悠然として舞臺と場内を見渡した。

十七 初日 下

重次郞の花やかな姿はやがて着替へる緋縅の鎧にまた一段見榮して羽子板の押繪を其の儘の美しさ。贔負の見物一齊に重次郞が勇しく花道へ引込む後姿を見送る中《なか》に、駒代のゐる鶉の丁度眞上になつた東の桟敷に三人連の女客。一人は三十も超えたと思ふ痩ぎす、根下の銀杏返に小粒な古渡珊瑚の根掛、じみな金紗お召に小紋の下着、半襟は浅葱鼠に一粒鹿子のしぼり。黑縮緬の羽織、描更紗《かきざらさ》の晝夜帶に帶留の金具は何やらいはれあるらしい素銅《すあか》の目貫、さして大きからぬダイヤにプラチナの指環只一ツ、萬事目立たずして相應に物のかゝつたつくり、いづれ何家の誰といはれる姐さんであらう。一人は年の頃二十四五、藤紫の絞の手柄を掛けた佐渡屋が並一、眞珠を入れた蒔繪の櫛笄、思ふさま荒い龜甲つなぎの大島の二枚重に揃ひの羽織。縫取模樣の鹽瀨の丸帶に寶石入の帶留、びつくりする程大きなダイヤに眞珠の指環これだけでも千圓以上と思はれた。ぽつちやりした長顏の色飽くまで白く、はでなつくりに釣合つて四邊の人目をひく程のまづは美人。衣紋のつくり方化粧の仕樣矢張たゞの者ではあるまい。他の一人は待合のおかみらしい四十前後、もとは何處ぞの女中でゞもあつたらしく品のない田舎の人らしい顏付。各手にした双眼鏡を離して云合せたやうに顏を見合せて、「いゝわねえ。」と溜息をついた。 やがて夕顏棚の彼方より市山重藏の武智光秀が立現れる頃、丸髷の美人は突然年上の銀杏返の手を握り小聲ながら力をこめて、「姐さん、私もう岡惚だけぢや濟まないわ。」 「それぢや何處でもお前さんのいゝ處へ呼んだらいゝぢや無いか。」 「呼べる位なら苦勞しやしないわ。出てゐる時分なら私《わたし》だつてそれア何とかこぎ付けるけれど、素人《しろと》になると何だか氣まりが惡くなつて何にも云へやしないわ。それに姐《ねえ》さん、瀨川さんにや何ぢやないの、尾花家の一件が大變なんでせう。」 「ふツ駒代かい。」と年上の銀杏返はいかにも卑しむやうな調子で、「腕がいいんだつて云ふからね。お前さん見たやうな御孃さまぢや到底《とても》張合へまいねえ。」 「だから私《わたし》矢張あきらめるわ。なまじツか云出して愛想盡しなんぞされると猶悲しくなつてしまふから……。」と舌の廻らないやうな甘たるい口のきゝ方である。

舞臺は手負の老母が述懷から少しだれ氣味になつて來るのを丁度いゝ事に、二人は舞臺をそつちのけにして何か頻と小聲に話し始めた。重次郞が手負になつて花道から出て來る時二人は目がさめたやうに再び舞臺の方に向直り双眼鏡を取上げたが重次郞が落入つてしまふと直樣もう舞臺に用はないと云ふ風で又ひそ〳〵話をつゞけるのであつた。

十段目が幕になると初日の事とて琵琶湖の乗切はあづかりとなり直に中幕の二十四孝。これは瀨川一糸が奧庭狐火の宙乗まで大喝采の中に幕になると丁度時分時とて食堂は今が一番込み合ふ最中、三人の女客は出入口に近いテーブルに坐を占め、出入《ではいり》の人の混雜を眺めてゐたが、すると丸髷は突然銀杏返の袖を引いて、 「力次|姐《ねえ》さん、矢張來てゐるわよ。」 云はれて其の方を見ると駒代に花助その後に執拗《しうね》くつきまとつてゐるのは山井先生である。駒代は空《あ》いたテーブルをと其の方へのみ氣を取られたせいか、力次の傍を通りながら心付かず、何か三人で笑ひながら向へと行つてしまつた。 すると銀杏返の力次はさも〳〵憎らしさうに後姿を見送りながら鼻の先で笑つて、「御覽よ。いゝ女ぶつてさ。たまらないねえ。」と聞えはせぬかと思ふほどの聲。

力次は年も違へば貫目もぐつと違《ちが》ふ駒代が、土地の姐さんと立てられる自分に對して挨拶一ツせず笑つて行過ぎるとは何といふ生意氣な仕打だらう。きつと自分が此處にゐるのを見知りながら挨拶するのがいやさに人込を幸ひ氣のつかない振をして行過ぎたに違ひないと力次は無暗に腹を立てたのである。それもその筈、力次にはいつぞや吉岡さんと云ふ旦那を取られた遺恨がある。その仕返には何か折があつたら思ふさま泣かしてやらねばと思ひながら、まさか大勢一座の座敷では打付けに自分の恥を云立てゝ食つてかゝるわけにも行かず、演藝會か何かの折をと思つても此れ又折惡く手合せをする機會がなかつたので、つい其の儘になつてゐた。ところが今日《けふ》と云ふ今日、漸く復讎《しかへし》の糸口がつきかゝつて來た。それは以前自分の家の抱であつた君龍といふ藝者がさる實業家のお妾になつてゐた處先頃旦那が死んで濱町の目拔な土地百坪ばかり地面付の立派な妾宅の外に現金で壹萬圓を頂戴してお暇になつた。そこで今度藝者家を出さうか、旅館を開かうか、待合をしようか、鳥料理屋を始めやうか。それとも大事な壹萬圓に手をつけず其れを持參金にする代り、男がよくて程がよくて浮氣をせず自分ばつかり可愛がつて我儘の仕放題にさしてくれるやうな家へお嫁に行つて見やうか。その方がなまなか商賣をして苦勞するよりか行末ともに安樂で心配がなからうと、都合のいゝ事ばかり考へる、其相談にと度々力次姐さんの湊家へやつて來るついで、誘《さそ》ひ合つて今日新富座の見物。君龍は身受をされてからこの三年といふもの自分ながらよく辛棒したと思ふほど白髮の旦那一人を守り三味線も手にせず芝居へも滅多に行つた事のないだけあつて、旦那の御寵愛は遺言狀にまでちやんと君龍の事が書いてあつた有難さ。さて君龍の身になつては盡すだけの事は盡くしてしまつて、さて貰ふだけのものは貰つてしまつたとなると小人玉を抱いて罪ある譬、俄に身體も心も自由になつて何かそはそはと落ちついてゐられぬ矢先久振の芝居見物、瀨川一糸が初役の重次郞を見るより忽ち逆上《のぼ》せてしまつて成らう事なら今夜芝居がはねたら直ぐにもと力次姐さんへ我儘な賴み。力次は何ぼ何でもさう急にはと困つたけれども駒代への意趣返しにはこれに越した事はないと思ふのでいゝよ私にまかしておくれとすつかり受合つてしまつたのである。で、力次はまづ座付の茶屋桔梗の女將と云へばこの仲間では顏の賣れた婆さんと懇意なのを幸ひ早速打明けた話をして、それからいゝやうに瀨川の方へ通じさせ、今夜一寸でも都合して築地の久津輪《くつわ》といふ待合へ來てくれるやうにと賴込んだ。 すると斯う云ふ事には馴切つてゐる桔梗の女將の取なし、案ずるより產むが安く、二番目の狂言河庄が切れる頃に嬉しい返事は早くも丸髷の君龍と銀杏返の力次が胸を躍らせたのであつた。一座した久津輪の女將はこの返事を聞いて一足先へ歸り仕度をして待つてゐるからと炬燵の場が明くか明かない中に君龍の脊中をぽんと一ツ喰はしながら鶉を出て行つた。君龍はいざ話がきまつたとなると以前の大口には似もつかず俄に心配らしく考へ込んでばかりゐるので、女將にからかはれても唯顏を眞赤に何とも云ひ得ない始末である。されば幕が明いて瀨川の小春が舞臺へ出ると君龍はおのづと後じさりに力次の身體を楯に手にしたハンケチで半分顏をかくしながらも、人知れず眼を据ゑ息を凝して瀨川の小春ばかりをぢつと見詰めるのである。する中に突然力次に袖を引かれハツと思はず又顏を赤く息をはづませた――力次はまるでおのれが事のやうに、 「そら又《また》こつちを見てるよ。君ちやん、もつと顏を出しといでよ。」 君龍も瀨川が藝をしながら折々向を見る振でそつと此方《こつち》の桟敷へ眼をつけてゐると氣が付いてゐるので力次にさう注意されると猶更氣まりが惡く顏を眞赤に唯|俯向《うつむ》くばかりであつた。

十八 きのうけふ

いつも嬉しい逢瀨の場所と二人の中にきめられてゐる宜春の四疊半。瀨川一糸は江戸小紋の二枚重、結綿の三紋を陰《かげ》にして目だゝぬやうに絞出したは、橘町《だいひこ》あたりの好みであらう。橫座りに崩《くづ》した膝からちらと見せた長襦袢、鶸茶《ひわちや》に白く片輪車の絞りはまづゑり圓《ゑん》の誂と覺しい。帶はぐつと古風に幅狹く仕立てた獨鈷の唐繻子、掛《かけ》の端へ如源の二字を赤絲で縫はせたは大方濱町平野屋の品であらう、素人ならば隨分いやみになる處を女形と云ふだけ却てよい思付と見られた。きゆつと後手に締上げながら坐り直して、泰眞が水に紅葉の長門筒、古渡の緖〆に紅の濃い人形《にんぎやう》手《で》金革《きんかは》のかます、銀の蛇籠に金で細《こま》かく砂利の細具を見せた長手の金具は誰の作にや。無造作に取つて腰にさし、 「お駒、それぢや鳥渡行つて來るぜ。一時間か二時間たつたらきつと返つて來るから。いゝかい、だまつてちや困《こま》るなア。羽織を取つてお吳れ。」 駒代は黑縮緬の羽織もまだ拔かず火鉢の灰へぢれつたさうに火箸を突さしながら、俯向いたまゝ、 「えゝ。待つてます。」とすげなく云つたが、突《つ》と食卓《つくゑ》の上の銚子を取り溢れるばかり茶碗につぎかける。一糸は早くも其の手を押へ、 「どうしたんだよ。今もあれ程云ふのにお前にも似合はないぢやないか。先から親爺の時分から贔負になる大阪のお客だ。袖崎さんが今度久振で此方《こつち》へ來たんでわざ〳〵一|緖《しよ》に出て來た贔負のお客だよ。」 「そんなら、兄《にい》さん、ずつと前から今夜のお座敷は分つてる筈ぢや有りませんか、今夜ハネが早かつたら山井先生も誘《さそ》はうツて現在山井さんにも樂屋でさう云つてたくせに。急に外へ御座敷だなんて、私《わたし》ア決して疑るんでも何でもありませんよ。ですけれどもさ、隨分|兄《にい》さんもあんまりだと思つて…」よく〳〵口惜しいと見えて駒代は云切らぬ中に聲をくもらせた。 「それぢや、どうしても不承知なんだね。不承知なら不承知でいゝさ。行かないばかりだ。」と瀨川はぐつと强面《こはもて》に出て相手の樣子を窺ふと、此方《こなた》はさすがにそんならお行でなさるなとも云切れず、僅にハンケチで眼を拭ふばかり。男はわざと急がぬ風を見せるつもりか腰へ收めた烟草入をまた拔出して一服しながら獨言《ひとりごと》のやうに、 「お前さんが行くなと云へば行かないまでの事さ。先樣をしくじれば其れでいゝんだ。」と烟管をはたいて、「お前さんも大事な吉岡さんをしくじつたんだからね、私の方もしくじりさへすれやアそれでお互に恩も恨もなくなる譯だ。」 瀨川はどうでも勝手にしろと云ふ風にごろりと橫になつた。かうなつては惚れた弱味のある女の方から是非どうか行つて下さいと賴むより外はない。色の紛擾《いきさつ》には馴れてゐる瀨川一糸、始めからさうなるものとはとうに見越してゐる。よし又女の方が何でも彼《か》でも放すまいと執拗《しつこ》く出れば此方《こつち》も我儘《わがまゝ》一ぱい無理に振切つて出て行くまでの事、其場ではいくら愛想づかしを云ひもし又云はれもした處で、これまでになつた曉には女と云ふものはカラ意氣地のないもの。半年一年其の儘に放棄《うつちや》つて置いても折を見て此方《こつち》から優《やさ》しく仕掛ければすぐころりとなるのは梅歷の米八仇吉の條《くだり》を見て知るまでもない事と、瀨川は先の先まで承知してゐる上に、内心實の處は少しもう飽《あき》が來てゐる。何かいゝ代りの出逢次第、駒代とは手を切らう――きつぱり片がつかなくとも唯この上餘り深くならないやうにしたい、今では大分借金もありさうな駒代にこの上半年一年と繋《つなが》つてゐた日には厭《いや》でも應でも末は女房に脊負込まなければなるまい、それも是非ないハメになれば因緣づくだと締めるまでだとちやんと度胸を据ゑてゐる事とて、これは到底相撲にはならない譯である。

駒代はどうあつても今夜は放すまいと思ふものゝ若しこの上我儘を云つて無理に瀨川を引留めたなら平素《ふだん》から藝人には似合はない一本氣な我儘な御世辞のない瀨川のこと――それが又駒代の惚《ほ》れる原因でもあるので、後でどんなに腹を立てるか分らないと思ふと何となく怖《こは》くもあるし、又あれ程立派な口をきくのだから矢張その云ふ通り眞實大阪の堅いお客かも知れないと始めの權幕には似ず次第〳〵に弱くなつて、 「兄《にい》さん、だん〴〵晩《おそ》くなるわよ。早く行つて早く歸つて來て頂戴。兄さん、私もう何も云ひませんから……。」と寄添つて恐る〳〵顏を差覗くのである。 「何《なに》、行かなけれア行かないで濟むことさ。」と瀨川は退儀さうに起直りながら、「後であやまりに行きやアいゝ。」 「それぢや私がこまつてよ。もう十一時過よ。兄《にい》さん。ほんとに早く行つて來て頂戴よ。私も一人で待つてるのも氣まりが惡いから鳥渡家へ歸つて出直して來ますから。」 「さうかい。それぢや濟まないけれどさうしておくれ。」と瀨川はわざと扶《たす》けられるやうに女の手を取つてしぶ〳〵立上り衣紋を直す。 もう斯《か》うなつてはたとへ身を切られる程辛くても表面《うはべ》は立派に綺麗に御座敷へ出してやるが藝人を情夫《いろ》に持つ女の見得だと妙な處へ意地をつけて駒代は後からぴつたり寄添ふやうに羽織を着せ掛ける。鳥渡新派の芝居にでもありさうな樣子。瀨川はその儘後へと凭《よ》りかゝるやうに身を反し羽織の片袖通した手先に駒代の手を握りながら、 「ぢや。いゝねえ。きつと待つておゐで。」 其のまゝ襖へ手をかける。駒代は廣ぶたに載せた男の二重廻と帽子襟卷を持つて續いて廊下へ出た。 「それぢや後程。」とおかみや女中の聲を後に瀨川は抱車の幌深く宜春の門《かど》を出ると我にもあらず手頸へはめた金時計を見た。いつもよりハネの晩い初日の夜に二場所掛持ちとは始めから無理なのは知れてある。然し瀨川は桔梗の女將から巧《うま》い調子に話込まれ男の持前なる浮氣の蟲を誘ひ出されると、まるで子供がほしいと思つた玩具《おもちや》を買つて貰はない中は寢ても覺めても氣がすまないと同樣、唯只無暗に氣ばかり急《あせ》るのである。瀨川は駒代に惡いとは知つてゐながら、そう云ふ事には馴れきつた桔梗の女將が猫撫聲で、駒ちやんの方は私が後で何とでも詫を入れるよ。私《わたし》が惡者にさへなれアいゝんだからと、それまで引受けられては譬へ氣がすゝまずとも押し出さねばならない譯。ましてや桟敷の遠見には一層美人に見えた圓ぽちやの丸髷、旦那に別れた後も久しく貞女を立てゝゐるのだから先《まづ》は素人《しろと》も同樣と聞いては猶更に我から胸を躍す好奇心。瀨川は行つた先の首尾次第、もう宜春なんぞへは歸らずとも後は野となれ山となれと、いろ〳〵さま〴〵に新しい突然の戀の面白さを空想する間もなく築地川一筋越した久津輪の門《かど》へ着いた。

駒代は宜春の帳場でおかみさんに暫く遊んでおゐでよ。その中に私が電話を掛けるからとまで言はれたが、到底落ちついて坐つてはゐられぬので、ぶら〴〵銀座まで步いて歸つて來ますと、其のまゝ車も呼ばずぶらりと外へ出ると、門並待合のつゞいた狹い橫町、後にも先にも自働車が一二臺に人力車の四五臺道をふさぐばかりに供待してゐる間を、駒代は誰にも姿を見られぬやうにと急いで農商務省の方へ出た。

蒼然とけぶり渡つた初冬の夜は地震でもゆりはせぬかと思ふほど妙に暖く、照輝く月の光に物の影はつきりと、乾いた道の上に橫るさま何となく夏らしい心地して、鬢の毛撫る微風の爽《さわやか》さ。思ふともなく駒代は、初めて瀨川の兄さんに呼ばれた宜春のお座敷、夢ではないか狐につまゝれたのではないかと、われと我身の嬉しさを疑ひながら別れて歸る夜の道、明い賑な通へ出て車や人の往來《ゆきゝ》にその嬉しい思を亂されるのが惜しさに、兩方の膝節ぐら〳〵する程に疲《くた》ぶれてゐながら、暗い橫町から橫町へとわざ〳〵廻り道して歸つた時の事を思出した。 それは晝間の殘暑も夜と共に袂を拂ふ秋風の心地よく深《ふ》けては露もそろそろ身にしむ頃。時候は全く違ふが、晝間一日芝居の人込《ひとごみ》から軈てこの露深い夜深の空、月の光は澄みながら狹霧につゝまれた人家の屋根、夜深けた街に吹き通ふ夜風の肌ざはり、向うの河岸通りを流して行く新内の撥音、又その邊の待合の植込越しなる二階の燈影――あたり一帶の樣子が氣のせいか、忘れやうとて忘れられぬ初ての夜に似てゐる。さう思ふと駒代は步いてゐながらも一度にわつとせき來《く》る淚。あわてゝハンケチに顏を蔽ひ、窃《そつ》とあたりを見廻したが、幸に廣大な農商務省の建物に片側は眞暗な往來。いつもならば丁度時間も場所も送迎ひの藝者の車。日吉、大淸、新竹、三原、中美濃なんぞの提灯《かんばん》星の如くなるを、どうした拍子か後にも先にも見渡す往來は寂《しん》として、唯釆女橋の方から自働車が一臺と、ぶら〳〵步いて來る藝者二三人が大分醉つてゐるらしい高話と笑聲。駒代は急いで木挽町の四角を左へ折れるが早いか、見當り次第に何處といふ事なく唯|灯《あかり》のない眞暗な露地へ身をかくし、兩袖を顏に押當てたまゝ其の場に蹲踞《しやが》んで思ふさま泣きたいだけ泣いてしまはうと試みた。駒代は誰も人のゐない處で、誰にも慰められず妨げられず、ただ自分の氣のすむかぎり泣いてしまひさへすれば、其の後はどうやら氣が落ちついて人の話も耳に入るやうになることをば、生付寂しい氣質の癖として自分ながらよく承知してゐるので、何か其場の思案に餘るやうな事があると先づ何より先に人のゐない處へ、それも出來ない場合には押入へ首を突込んで無理に一泣《ひとな》き泣いてしまふのである。後になつて我から可笑しいとも思ふ此の妙な癖は、秋田の遠い田舎へ片付いた時、右を見ても左を見ても、旦那の外はまるで話の通じない人ばかりの中に月日を送つた折、いつともなく習慣《ならはし》となつたのである。駒代はその事をもよく承知してはゐるが、一度妙な癖がついては直したいにもなか〳〵直されるものではない。ましてやその後は今日が日まで泣きたいと思ふ事のみ年々に增え行くばかりで直さうにも直す暇がない譯。駒代は露地の暗闇に一泣き泣いてゐる中何の譯もなく不圖自分は一生涯泣いて暮すやうに生れて來たのかも知れないと思ふと、また更に悲しくなつて此間兄さんとお揃ひに誂へたばかりの長襦袢の袖をも絞る程にしてしまつた。

自働車が砂をあげて馳過ると耳元近く犬の吠出す聲に、駒代は已むを得ず露地口を立出で足の向く方へと歩きかけたが、するとつい二三間先へお座敷の歸りと覺しい藝者二人、何の話かわからぬが、駒代の耳にはつきり聞えた「濱村屋の兄《にい》さん。」と云ふ一語《ひとこと》。駒代は急に足音を忍ばせ人家の軒下をさとられぬやうに一|步《あし》でも近く寄つて立聞きしようとする。それとも知らぬ藝者二人は遠慮なく、 「たしかに濱村屋さんの兄さんよ。羨しいわね。何處《どこ》へ行つたんだらう。」 「それぢや賭《かけ》しませう。わたし明日《あした》默《だま》つて駒代姐さんとこへ電話をかけて見るわ。さうしてもしか濱村屋さんだつたら私活動をおごるわ。」 「それぢや私が負けたら私の方がおごるわ。然《しか》し鳥渡《ちよいと》。もしか濱村屋の兄さんと外の藝者衆と二人だつた日にや大變よ。私逹まで駒代姐さんに疑られちまふから、滅多に電話なんぞ掛けない方がよくツてよ。」 「さうねえ。一|體《たい》瀨川さんには駒代姐さんとそれから誰なの。」 問はれて一人は何と答へるかと駒代は覺えず片唾を呑んだかひもなく、又向から驀直《まつしぐら》に走つて來る自働車に話はそれなり途切れたばかりか、二人の藝者は丁度來掛る待合何家の格子戶、外から女將《おかみ》さん今晩は。と云ひながら這入《はい》つてしまつた。駒代はもう氣が氣でない。前後《あとさき》の事情は何の事やら分らぬが、兎に角耳にはいつた一|語《こと》二|語《こと》、これやかうしては居られない。兄《にい》さんが自分に話をして出て行つた久津輪《くつわ》へ電話をかけ、兄《にい》さんが居るか居ないか聞正して見なければならない……差支のない唯の御座敷なら自分の声と知れたとて、別に可笑《をかし》い事はない筈、何故早くさう氣がつかなかつたのだらうと、駒代は元《もと》來《き》た道を駈けるがやうに宜春に戾り、矢庭に帳場の電話器を掴んだ。

然し流石に聲だけは落ちつかせて、「久津輪家さんですか。鳥渡恐れ入りますが瀨川さんを電話口まで……此方《こちら》ですか、はい、此方は、あの、瀨川の宅ですが。」 暫く待つても返事がない。遂に癇癪を起して無暗に相手を呼出すと折惡く混線と云ふ始末。側にゐた女中のお牧が見兼ねて代り合つて掛け直すと、「もうお宅へつく時分で御座いませう。」と云ふ返事。此方《こつち》が瀨川の宅と云つた丈けにそんな筈はありませんとも問返されず、駒代はがつかりしながら大方こつちへ來るつもりで其樣《そんな》事《こと》でも云つたのかと、暫く待つてゐたが、いつの間にか時計は十二時を打出したのに、俄にまた急立《せきた》つて今度は宜春で駒代がお待ち申して居りますからと大びらに名乗つて掛けると又しても好加減待たしぬいた後、矢張築地のお宅へお歸りですからとの事。いよ〳〵半狂亂。築地の家へ電話をかけると唯留守で御座います。

瀨川一糸が行衞はこゝで全く不明になつてしまつた。兎に角十二時になつては待合の門は閉《し》めなければならない。女中のお牧はさすがに氣の毒と思つてか門の扉を片方だけたて「もう入らツしやりさうなもんだ。」とわざと獨言のやうに云ひながら往來へ立つてゐると、突然何處から出て來たのか丈《せ》の低い洋服の男大分醉つてゐるらしくよろ〳〵とお牧の側へ寄りかゝつて來さうなのに、お牧はびつくり、周章《あわて》て門を閉めやうとすると、醉漢《よつぱらひ》は猶|周章《あわ》てゝ、 「おい〳〵待つてくれ。僕ぢや駒代さんは來てゐないか。」 「あら昨夜《ゆうべ》の……どうも失禮、ほゝゝゝほ。」 「僕だよ。山井だよ。」と云ふより早く馴れたもので山井はお座敷が生憎《あひにく》なぞと斷られない先に早くも靴をぬぎ捨てゝ上つてしまつた。

十九 保名