友情

Part 3

Chapter 3 20,072 words Public domain Markdown

彼はもう恐怖なしに嬉しかった。 「大宮が居なかったらどんなに淋しかったでしょう。僕は大宮に慰められて勇気をとり戻すことが出来たことが何度あるかわかりません」 「本当にあなた方はいいお友達ね。それでこそ本当のお友達だといつも武子さんと話しておりますの」 其処へ仲田が来た。 「病気だったって、もういいのかい」 「ああ、もうすっかりいい」 「昨日大宮君や武子さんが心配していたっけ」 「そうかい。もういいのだ」 「早くなおってよかったね」 「ありがとう」 「僕は近い内東京に帰ることにした」 「どうして」 「もうそろそろ涼しくなったし、ここにいると五月蠅《うるさ》くって勉強出来ないからね」 「勉強するのか」 「勉強するよ。僕も、この頃勉強する気が猛烈に出て来た」 「それは感心だね」 「感心だろう。之からの世の中は何といったって勉強の世の中だからね」 「それはそうだ」 「おちついて勉強したくなった。大宮君も西洋へ行って、うんと勉強すると云っていた。大宮君が西洋へ行って勉強してくれば本当に鬼に金棒《かなぼう》だね」 「ああ」 「世界的な仕事をするだろう」 「それはするだろう」 「僕も大宮君の話をきいていると、勉強しなければ譃《うそ》だと云う気が本当にしたよ。勉強するのは今のうちだと思った。思想をちゃんとしておかなければ、之からの世界は駄目だからね」 「それはそうだ」 「僕も大いにやる。君も大いにやり給え」 「やるよ。僕も負けてはいない」 「大宮君は実に君を信じているね。大宮君や武子さんの話をきいていると君を見上げたくなってくるよ。君はいい友達をもっていると思うよ」 其処に大宮と武子が来た。

四人で話している内に不意に、「明日一緒に東京に帰ろう」と云うことにきまった。

大宮は西洋へゆく用意にとりかかると云った。 「何年いっていらっしゃるの」と杉子は聞いた。 「三四年、もっといった工合でいるかも知れません」 「もっと早くお帰りになるかも知れないのでしょ」 「それははっきりしたことはわかりません」 「妾《わたし》もゆきたいわ。何でもよろしいから、あちらにいらっしたら、何か送って頂戴ね」杉子は甘えるように云った。 「僕は無精《ぶしよう》ですから御約束は出来ません」 「それでも野島さんには何でもお送りになるでしょ」 「野島は別です」 「武子さんには」 「武子の母にたのまれれば」 「妾がおたのみしたのでは駄目」 「駄目です。しかし何かほしいものがあったら野島におたのみなさい」 杉子はそれには答えないで黙ってしまった。

野島は大宮の頑固なのにおどろいた。自分が大宮の位置にいてもああきっぱりは云えないと思った。譃がつけない点ではお互にまけないまでも、野島の方が頑固のこともあるが、道徳的潔癖では大宮には敵《かな》わないと思った。

三十三

帰りの汽車は楽しいものだった。野島は久しぶりに東京へ帰るのは嬉しかった。夏の夕方の東京を野島は好きだった。殊に本屋へ行って本をさがすのが好きだった。又久しぶりに自家《うち》の人に逢うのも自家に帰るのも嬉しかった。しかし汽車がいつまでも、いつまでも東京につかなければいいと思った。このまま極楽まで行ってもいいと思った。

其処《そこ》には杉子がいる。機嫌よくしている。野島にもよく話しかける。梨をむいてくれる。身体のことを気にしてくれる。笑い顔を見せてくれる。親しさが目に見えて進んで来たように見えた。あたりの人は楽しそうな五人を見る。羨ましがるものも、不快に思うものも、一緒に笑いにつり込まれるものもある。

野島にはそれは気にならない。彼は汽車がいつもより性急なのを感じる許《ばか》りだ。 いつのまにか横浜についた。 「早いね」 「早い」大宮は少し冷かすように云った。

横浜を出るとなお汽車は早かった。東京駅で別れをつげて、四人は俥《くるま》にのった。野島だけは電車に乗ろうとした。しかし電車は中々来なかった。身体は少し大儀だったが、歩きたい気もした。それで電車道を通って日比谷の方に歩いた。朝の十一時頃で、日は可なり強く照りつけ、あたりは日光を反射したが、彼は久しぶりに東京の土をふむのは嬉しかった。帰ると母がさぞよろこぶだろうと思った。しかし彼はそんなことより、杉子のことを考えていた。杉子のめきめきと親切になったことを考えた。

杉子の口からもれた一こと一ことを思い出しかみしめた。其処に自分にたいする親しさと厚意が味わえた。彼は嬉しく思わないわけにはゆかなかった。

三十四

その後大宮は外国にゆくのに忙しかった。

九月の末にはたつことにきまった。その日野島は横浜まで送ることにした。東京駅に大宮を送る人は五六十人来ていた。武子の父も母も来て居た。武子は大宮の母について横浜迄ゆくことになっていた。雑誌記者や、文士も見えていた。新聞記者も来て大宮と何か話していた。しかし野島はそれ等の人のことは気にならなかった。彼の気になったのは勿論同じく送りに来ていた杉子だった。杉子にしてはいつもより厚く化粧していて、いつもより美しくは見えたが、無邪気には見えなかった。そして誰とも話をせずに一人淋しく立っていた。つつましく、だが何か考えているように。少し痩《や》せたのではないかと思った。

武子がそれに気がついて近づくとさすがに笑って見せた。大宮は野島に近づいた。 「僕は君の幸福を祈っているよ」大宮はそういきなり云った。彼は泣きたいような気がした。大宮も涙ぐんでいるように見えた。 「ありがとう。君は身体を大事にしてくれないといけないよ」 「ありがとう。僕が向うへ行っている内に二人で来給え。旅費位、どうでもするよ」 「そういけば」 野島はそのさきは云えなかった。其処へ大宮の母が来て、野島に挨拶して、 「何とかさんがお見えになったから、挨拶しておいで」と大宮に云った。 「一寸失敬する」 「どうぞ」 切符を切る様になったので、皆、我勝ちに入った。

野島の一生忘れることの出来なかったのは杉子のこの日の態度と目だった。杉子は誰にも気がつかれない処に立って、気がつかれないように、一つのものを見つめていた。 それは大宮を見つめているのだった。野島は杉子の心がすっかりわかったように思った。

三十五

ここで自分は少し筆をはしょる。野島は杉子が大宮を恋していることを瞬間的に直覚した。汽車は動き出して皆万歳を云って、手をふったり、帽をふったりした。杉子も人々のかげで謹み深くはんけち[#「はんけち」に傍点]をふっていた。彼女の姿は人々の動くので見えたり、見えなかったりした。しかしその目は汽車の窓から首を出して皆に返礼している大宮にそそがれていた。野島は大宮の目をぬすみ見た。しかし大宮は杉子を時々見るようでもあり、見ないようでもあった。野島は大宮が立ったあとでも、仲田の処に時々出かけて、杉子に逢った。杉子の態度は別にかわらなかった。大宮の話も時には出たが、別に野島には気にならなかった。ピンポンもした。トランプもした。しかし前程のり気になれなかった。野島は段々おちつかなかった。彼はいつ何時、杉子が人妻になるかわからない気がした。彼はとうとう一年後に間に人をたてて杉子の家に結婚の申込みをした。だが体裁よく断られた。彼はそれでもあきらめられなかった。それで仲田に、「杉子さんの本当の意志を知らせてほしい」と手紙をかいた。仲田からは「当人も今結婚する意志はまるでない」と云って来た。彼はそれから仲田の家には行くことが出来なくなった。彼は段々仲田の手紙だけでおちつけなくなった。仲田は如才ない男だ。当人の本当の意志でないことも当人の意志のように書き兼ねない男だ。本当に杉子さんの意志を知らない内は思い切りたくも思い切れないと思った。

彼は其処で思い切って杉子に手紙をかいた。 「私は貴女なくして此世に生きることの淋しさをあまり強く味わされております。私はそれに耐え兼ねて失礼も顧みず手紙をかきます。私の心は貴女は既に御存知と思います。私は何にも申しません。唯々お願いします。貴女の本当の意志を御知らせ下さい。私は何年でもお待ちします。少しは望みがあるのですか。少しも望みはないのですか。何もかも正直に云って下さい。私はこわいのです。しかし貴女の言葉をきかない内は、少しもおちつきません。少しでも希望のある言葉を私は望んでおります。私は知らぬ神に祈ります。泣いて祈ります。少しでも希望がありますように。ですが本当のことを知らして下さい。私も男です。本当のことを知れば、あきらめなければならない時はあきらめます。そんな時のこないことを祈っておりますが、どうぞ御返事下さい。私は貴女からの宣告を恐る恐る希望に燃えながら待っております」 杉子はそれに簡単に答えた。 「御手紙拝見いたしました。あなたのような尊敬すべき方にか程云って戴くことは勿体なく思います。しかし父や兄のお答え申した通りより私も御返事が出来ませぬ。どうぞあしからず。心であやまっております」 野島はこの冷たい手紙を繰り返しよんだ。そして絶望だと云うことを本当に感じた。彼はすっかり参ってむせび泣いた。その二三日後に彼はベートオフェンの肖像に次のベートオフェンの言葉の原文を乱暴にかいて柱に鋲《びよう》でとめた。 「お前は人間ではない。自分の為に生きる人間ではない。ただ他人の為にのみ。お前には自分自身の内、芸術より他に幸福はない。神よ、私に克つ力を私に与えて下さい。私を人生に結びつけるものは何にもありません。Aとこうなってはすべてが失われました」ただAのかわりにSがつかわれていた。

彼はこのことを巴里《パリ》にいる大宮には勿論報告した。大宮からは時々たよりがあったり、本や画《え》の類を送って来たが、その頃からばったり杉子のことはかいて来なくなった。彼はそれを自分の傷にふれない為ととった。 それから一年程たって、既に結婚した武子が夫と西洋へゆく時不意に杉子も一緒に洋行することを野島は聞いた。

野島はそれを本当にはしなかった。彼は文壇からは少しずつ認められて来、彼の芝居も二つ三つ演じられた。元よりそれは一般の注意をひく力はなかったが、一部からは大いに期待され、恐れられもした。しかし野島はそれで満足は出来なかった。彼はただ淋しかった。そして杉子のことが忘られなかった。

一度彼は往来で杉子に出逢った。まばゆいように美しくなったと彼は思った。杉子は彼に気がついた。そして謝罪するように彼に辞儀をした。彼も丁寧に罪人のようにお辞儀をした。一こともまじえなかった。彼はもう心を失った人のように立ちどまって、彼女の方をふり向いた。彼女はふり向かずに一番近い四つ角を右の方へ曲って行った。彼は杉子がお辞儀してくれたことが、嬉しかった。そして感謝した。しかし同時に失ってはならないものを失ったことに気がつかないわけにはゆかなかった。自分は実に全世界を失ったのだと云う気がした。彼は丸善へ行こうと思って出たのだがすぐやめて家に帰って、泣いた。そして大宮から送ってくれたベートオフェンのマスクに顔をあてた。それはベートオフェンの肖像を柱に鋲でとめたことを知らした時、少しおくれて大宮から送って来たので、彼は大宮の友情に感謝して涙ぐんだ。その時の彼にこれ程ありがたい贈りものはないと思えたので。彼は持つべきものは友だと思った。杉子の洋行は事実だった。彼はあることを感じはしたが、それはうち消していた。彼はまるで誰とも逢わず、散歩と読書とものをかくのと泣くのとで日を送っていた。

杉子がたって三四ケ月たった時、彼は大宮からへんな手紙をうけとった。それはミケルァンゼロのピエターのエハガキの裏全面に英語でかかれていた。大宮は仏語と英語が出来た。野島は独逸語《ドイツ》と英語が出来た。それで英語でかかれていた。 「尊敬すべき、大なる友よ。自分は君に謝罪しなければならない。すべては某同人雑誌に出した小説(?)を見てくれればわかる。よんでくれとは云えない。自分の告白だ。それで僕逹を裁《さば》いてくれ」 この僕逹と云う言葉が野島にはへんに気になった。某同人雑誌は大宮を尊敬する人々によって出されている雑誌で野島もその寄贈をうけている。彼はその雑誌をうけとると、すぐ大宮のものをひらいた。そしておどろいた。目まいがした。それには次のようなことがかかれていた。

下 篇

大宮さん、怒らないで下さい。私が手紙をかくのには随分勇気がいりました。私は何度かきかけてあなたを不愉快におさせしてはすまないと思ってやめたかわかりません。あなたに怒られ、手紙をよこしては困ると、おっしゃられては私は立つ瀬がありません。私はあなたに軽蔑され愛想をつかされることも恐れておりました。ですがもう私はそんなことを心配していられなくなりました。一生のことです。一生のことよりもっと以上のことかも知れません。ともかく手紙をかきます。怒られても、愛想つかされても、この気持でいるよりはましと思います。

先日武子さまに三越でお目にかかりました。夫の方も御一緒でした。武子さまは実際お美しくおなりでした。夫の方も立派な方でお似合の御夫婦と思いました。その時、私の方では遠慮しておりましたが、御丁寧に挨拶して戴き、その上夫の方に引きあわして戴き、そして御主人の役所にゆかれる留守に退屈だから来てくれとのお話で、私も大喜びで一昨日参上いたしました。そしてあたなのお話も伺い、最近のお写真も拝見いたしました。ハイカラにおなりになったと二人で笑いました。しかしちっとも軽薄の感じのしないのが不思議だと申しました。私は其時、武子さまに大宮さんにおねだりしたいものがあるのですが、いいでしょうかと申しました。それはいいでしょ、いくらでもおねだりになるといいわとおっしゃって下さいました。そしてお処も伺ったのでした。武子さまも、この十一月にはお二人で巴里にいらっしゃるようなお話でした。どんなに羨ましかったか知れません。巴里は私は是非一度はゆきたいと思っておりますの。ゆけそうもありませんが、一番好きな都です。日本は別として。

私はおねだりしたいものは実は何にも御座いません。いや、あり過ぎるので御座います。が今日は御遠慮しておきます。あなたの御機嫌を伺って見て、御機嫌によって段々お願いしたいと思っておりますが、あなたはきっと頭から御断りになると思いますので。

野島さまはこの頃ちっともお見えになりません。こないだ帝劇の廊下で一寸お目にかかりましたが、すぐ気がつかないようにお逃げになりました。くわしいことは野島さまからお話があったことと思いますが、私はおどろきました。私は野島さまを二番目に尊敬しております。いい方だと思います。私には勿体ない方とも思われないことは御座いません。あなたはきっとそうお思いになると思います。ですが、私は野島さまの妻には死んでもならないつもりでおります。このことをあなたに申しておきます。両親が反対したからではありません。兄は少し勧めてもくれました。ですが私は、どうしても野島さまのわきには、一時間以上は居たくないのです。なぜだか自分にはわかりません。自分では説明もつきますが、それは要するのに私の神経の話で、かく程のこととは思いません。

野島さまは私がいなくっても、なお立派になれる方と思います。この頃おかきになるものには凄《すご》い程、強い感じが出て来たように思います。ですが私はあなたのものの方がどの位好きで御座いましょう。あなたのおかきになるものは一言一句拝見いたします。あなたについてかかれたものもすべて拝見いたしております。私はあなたの一番いい読者になりたいと思っております。 あなたを尊敬している方は沢山御座いましょう。ですが他の方にはわからない所もちゃんと私にはわかっておりますつもりです。 さもないと口惜《くや》しいので、そう思っております。毎日々々、あなたの御健康と、御幸福を祈っております。どうかお許し下さい。どんな短い御返事でも下さればとび上がります。

御手紙拝見しました。正直に云うと、あなたの手紙を受けとらなかったことを僕は望んでいます。受けとっても御返事を出さない方がいいのかとも思います。ですが野島のことを、も一ぺん考えて戴きたいことを申します。 あなたはまだ野島のいい所を本当には御存知ないのです。野島の見かけ許りにまだひっかかっていらっしゃるように見えます。野島の魂を見てほしく思います。野島を友だからほめるのではありません。野島は実際、ほめていい僅《わず》かの人間の一人です。そんな男に恋されたことはあなたの名誉です。その名誉にあなたが値しないとは申しません。僕はあなたを野島をはなして考えるわけにはゆきません。僕は野島の妻になる人としてあなたを尊敬して来ました。 あなたは野島を二番目に尊敬すると云いました。一番目が西洋人なら今の所仕方がありません。しかしその人が日本人だったら、あなたは野島を本当には知らないのです。正直に云います。あなたはあの言葉で、僕を尊敬していることをほのめかそうとしたのでしょう。僕は野島より以上の人間ではありません。野島は僕の方が尊敬するのが至当の人間です。あなたは厚意をもって野島をもう一度見て下さい。

野島をどうか愛してやって下さい。愛される価値のある男です。人づきのわるい無愛想で、怒りっぽい。しかし人のいいことは無類です。もう一度見なおして下さい。僕を信ずるならば、野島を愛して下さい。必ずいろいろのいい所を発見されると思います。僕は嘆願します、野島を愛して下さい。

御手紙を拝見いたしましたが、それ許りは出来ません。私も負けずに正直に申します。あなたが此世にいらっしゃらなかったら、あなたにお目にかからなかったら、私は寧ろ早川さんの妻になっていたでしょう。私はその時でも野島さまの妻になるとは思いません。私が野島さまを愛することが出来ないのは罪でしょうか。そんなことがあるわけはないと思います。野島さまが私を愛して下さったことを私は正直に申しますと、ありがた迷惑に思っております。お気の毒な気もします。しかし私のようなものをそう本気で愛して下さるのは不思議な気もします。ともかく私はどんなことがあっても野島さまを尊敬しますが、愛するわけにはゆきません。それはいいことかわるいことか、わかりませんが、私には絶対な事実です。私の力ではどうすることも出来ません。あなたのおたのみでもこのことはきくわけに参りません。

私は何もかも申します。そして私の一生をきめてしまいたく思います。それは恐ろしすぎることです。しかし黙って運命に任せるわけにはゆきません。私は死力を尽して運命と戦います。戦うと云うよりは運命を開こうと思います。私は静かに門のそとに立って戸の自ずとあくのを待ちたくも思いました。しかし今はその戸をたたけるだけたたきたいと思います。私の真心が通じなければ仕方がありません。ともかく私は一生の勇気をふるって戸をたたきます。

大宮さま、私を一個の独立した人間、女として見て下さい。野島さまのことは忘れて下さい。私は私です。仮りに野島さまのことを忘れて私のことをお考えになったことを、どうかくわしくかいて下さい。正直に何もかもかいて下さい。そうすれば私はあきらめなければならない時はあきらめます。

私の写真をお目にかけます。私の云いたいことはすっかりおわかりと思います。

あなたの云おうとすることはわかり切ってしまいました。僕はそれを恐れていたのです。僕は正直に云います。僕はあなたが僕に厚意を持ち出したことを感じたので、僕がいてはいけないと思って、日本を去ることにしたのです。僕さえいなくなればあなたは当然、野島を愛して下さると思ったのです。そして結婚さえしてしまえば、僕にあなたが冷淡になるのはわかり切ったことです。僕はそれをのぞんでいました。尤《もつと》も僕のここに来たく思っていたのは昔からです。そして今は来てよかったと思っていました。野島のこともあなたのことも殆んど忘れて、毎日画を見たり、音楽をきいたり、芝居を見たり、本をあさったり、散歩したり、建築を見たり、何かかいたりしています。ここへ来てからいろいろのことを考えます。私達は恋になんか酔っている暇がないように思います。したいこと、しなければならないことが多すぎます。日本は貧弱すぎます。私達は出来るだけの力をもって、日本の文明を高め、思想を高め、世界的の仕事をどんどんしてゆくようにしなければ、日本人は世界的存在の価値を失います。今は大へんな時です。私達がふるい立たなければならない時です。あなたも、野島も。せめてあなたは、野島に親切にしてやって下さい。野島は淋しそうです。本当にうちくだかれて参っています。尤《もつと》も野島は今に起き上るでしょう。しかし淋しさは野島につきまとうでしょう。僕は今野島の脚本を一つ訳して西洋人に見せつけてやろうかと思っています。僕はあなたを憎んではしません。しかし野島にそう冷淡なのをきくといやな気がします。早川の妻になったでしょうはよくありません。あなたにはまだ本当の男の価値を見ぬく力はありません。あなたは野島を愛することが出来ないと云っています。しかしそれは譃《うそ》です。野島のいい所にふれたら、あなたは厚意をもたないわけにはゆきません。一ぺん厚意をもてばそれが愛にかわらないとは限りません。あなたは僕をも本当に知らない。あなたは僕を理想化している。僕の処に来たと仮定しても、それはあなたにとって幸福ではない。僕はいつか、野島には征服される人間です。こう云うのは残念ですが、正直にそう申します。

御手紙拝見しました。あなたは譃つきです。本当に譃つきよ。私はちゃんと知っております。何もかも知っております。私はあなたがいないことは考えられません。そしてあなたこそ本当に私を愛していて下さるのです。あなたは私を嫌い、私に冷淡を装っていらっしゃる。しかし私のいい性質をそのままに認めていて下さるのはあなた許りです。野島さま、野島さまのことをかくのはいやですが、野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを讃美していらっしゃるのです。ですから万一一緒になったら、私がただの女なのにお驚きになるでしょう。あのお方は意志の強い方です。おかきになるものは、あなたのものより世間を征服なさるでしょう。しかしその時でも、あなたは一方に平気で輝いていらっしゃいます。あなたは何もかも御存知のくせして、無理にも友情をふるい起してその他のものをはらいのけようとなさっていらっしゃいます。野島さまは私があなたの処に参ればなお偉くなる方です。そして決して参り切りにはおなりになりません。私は女です。私にはあなたのお役に立つことより他に望みはないのです。私はあなたのわきにいて、あなたを通じて世界の為に働きたい、人生の為に働きたい、私のこの願いをどうか、友情と云う石で、たたきつぶさないで下さい、野島さまには出来るだけ親切にもいたしますし、尊敬もいたします。ですがそれ以上のことは出来ないことを、罪だと思いません。

あなたからの御返事をおまちしておりますが、まだ参りません。私は心配になります。怒っていらっしゃるのですか、憐れと思って御返事下さい。私はパリに行きとう御座います。一目あなたにお目にかかりたい。そうすれば死んでもいいと思います。武子さまはこのくれにおたちになります。羨《うらや》ましく思います。御返事を、御返事をお待ちしております。

僕は何と返事していいかわかりません。僕は迷っています。野島に相談したい。だが相談する勇気はない。野島はあまり気の毒です。偉くはなってくれるでしょう。日本の、いや、人類の誇りになってくれるでしょう。だがその時、僕逹はどんな役をするでしょう。しかしそんなことは問題にならない。しかし僕は親友の恋している女を横取りには出来ません。それは友を売ることです。あの尊敬すべき、そして僕を信じ、たよっている友を。あなたはなぜ僕をそんなに愛してくれたのでしょう。僕が野島にたいする遠慮から、僕があなたにこびず、冷淡にしていた態度をあなたが買いかぶったのではないでしょうか。僕は野島のことがなければ野島よりもなおあなたに媚《こ》びたかも知れない。私はこの手紙を出そうか、出すまいか、考えた。出さない方が本当と思う。だが出す。野島よ、許してくれ。

あなたの御手紙はどんなに私をよころばしましたろう。ありがとう、ありがとう。私は今天国におります。あなたがこの世にいらっしゃる。私は本当に感謝いたします。私程の仕合せ者は世界中にありません。その内長い手紙をかきます。今はうれしくって何にもかけません。

大宮さま、私程仕合せ者はないとしみじみ思います。よくあなたのような方がこの世に生きていて下さいました。そしてお目にかかることが出来、そしてお話することが出来、そして私に厚意を持って下さる。私は本当に、仕合せものです。あなたのおかきになるものを拝見した時から、私はあなたを他人とは思っておりませんでした。そしていつか芝居で野島さまと一緒にいらっしゃる所を拝見してから、私はあなたのような方がこの世にいらっしゃることを本当にうれしくたのもしく思いました。私はその時まだ十四で野島さまとも御話したことはありませんでしたが、あなたの男らしい立派な御容子をその後忘れることは出来ませんでした。私はそのことを恥じました。そしてそのことをいつのまにか忘れることを望んでいました。実際又忘れていました。その後往来で一度お目にかかる迄。あれは武子さまの処へ上って二人でお友達の処に参る時でした。あなたのおうちの前を偶然通って少し参りますと、あなたは大きな本のつつみを重そうに持って急ぎ足で帰っていらっしゃいました。あっと思った時、あなたは微笑みながら挨拶なさったので、私はどの位びっくりいたしましたろう。私も赤い顔してあわてて御挨拶しようと思いました時に、あなたが武子さまに御挨拶なさったのだと云うことがわかりまして、気まりの悪いような、がっかりしたような気がいたしました。妬《ねた》ましいような気さえいたしました。そして武子さまからあなたと従兄妹《いとこ》だとお聞きした時、羨ましい気がいたしました。あなたは武子さまと何か話していらっしゃいました。いい画の本を買ったのだとよろこんでいらっしゃいました。武子さまはその内、拝見に上ってよとおっしゃいました。私は余程、武子さまにおねがいして画の本を拝見さして戴きたいと申しかけましたがやめました。私はここでもう一つ白状いたします。それは私はあなたのお家の前を通った時、お家の立派なのにおどろいたことです。しかし私を虚栄心の強い女とは思わないで下さい。野島さまがあなたの位置に居、あなたが野島さまの位置にいらっしても私はあなたを愛しないわけには参りません。私はあなたにだけは何んでも申し上げることが出来るように思います。世の中では女に生れても、本当の女のよろこびを味わうことが出来ない人が多いように思います。むしろ本当のよろこびを知った人は甚《はなは》だ少ないと思います。私もあなたに逢い、あなたとお話し、あなたと一緒に遊んだり笑ったりするまではこの世にこんなよろこびがあり、人間がこんなにまでよろこべるものかと云うことを知りませんでした。知らない内はよろしい。しかし一度知った以上は、それを失っては生きてはゆけないような気がします。いつかあなたとトランプをした時、いつかあなたと海岸で二人で散歩した時――あなたが外国にゆくことをおきめになった日――その晩またお邪魔に上った時、私はうれしくってうれしくって、どうしていいかわかりません。神に感謝しないわけには参りませんでした。人間に生れてよかった。女に生れてよかった。あなたに逢えてよかった。勿体なさすぎる程自分は運がいいと思いました。なぜか私はあなたの外国行をあの時、本当にはしておりませんでした。私の力でもおとめして見せると思っておりました。あなたが私に冷淡になさろうと努力なさる度に、反って私はあなたが私を愛していて下さることを信じることが出来ました。ピンポンの会の時も、私はそれを感じて、負けてもうれしかったのです。あなたの義侠心と男らしさと、女に媚びるものに対する怒りと、其処に又私をひそかにいたわって下さった御心づかいとを私はちゃんと感じておりました。私は野島さまのことはまるで無頓着でおりましたから気がつきませんでしたが、あなたの御心だけはちゃんと見ぬいておりました。ところがやはり西洋にいらっしゃる、私は本当にびっくりしました。心配になって来ました。しかし私は東京駅へお見送りをした時にあなたの御心を又見ぬいたと思いました。しかし私には一つ腑《ふ》に落ちないことが御座いました。なぜあなたがそんなに迄、私に冷淡を装い、外国にいらっしたか、それがわかりませんでした。野島さまから求婚して下さってから、やっと合点がゆきました。それで私は反って安心もいたしました。

今になってあなたが野島さまのことをいろいろおほめになった理由が、すっかりわかります。あなたが外国へいらしったことの表と裏の理由もわかります。

今でもあなたは野島さまのことを心配していらっしゃる。野島さまへの義理をかかない為に、私を捨ててもいいように思っていらっしゃる。私はあなたの義理の固いのを尊敬いたしますが、もっと私のこともお考え下さい。さもないと私が可哀そうです。野島さまはきっと私を失っても、もっと適当な方におあいになるにちがいありません。その証拠には私を私のままにはお愛しになれないのでもわかります。第一、私の心に野島さまの愛が少しもひびかないのでわかります。大宮さま、あなたは私をおすてになってはいけません。私はあなたの処に帰るのが本当なのです。大宮さま、あなたは私をとるのが一番自然です。友への義理より、自然への義理の方がいいことは「それから」の大助も云っているではありませんか。どうぞ、私をすてないで下さい。私はあなたのものです、あなたのものです。私の一生も、名誉も、幸福も、誇りも、皆、あなたのものです、あなたのものです。あなたのものになって初めて私は私になるのです。あなたを失ったら私はもう私ではありません。それはあまりに可哀そうな私です。私はただあなたのわきにいて、御仕事を助け、あなたの子供を生む為に(こんな言葉をかくことをお許し下さい)ばかりこの世に生きている女です。そしてそのことを私はどんな女権拡張者の前にも恥じません。「あなた達は女になれなかった。だから男のように生きていらっしゃい。私は女になれました。ですから私は女になりました」そう申して笑いたく思います。二人で生きられるものは仕合せ者です。ね、そうではありませんか。大宮さま。

あなたの手紙を見て僕は次の様な対話をかきました。僕の心のある所をお察し下さい。 「A。お前は何を考えている。あの人のことか」 「そうだ。あの人のことだ」 「君は、君の親友のことは考えないのか」 「それを考えなくていいのなら、僕は何を苦しもう。僕は二つの間に立った。僕はどっちかを失わなければならない。僕は友のことを考える。いや友のことは考えすぎた。そして僕はあの人の価値を出来るだけ、ひくく見ようと努力して来た。自分はあの人を好きになってはたまらないと思ったので。しかし正直に云えばあの人を好きになったのは友達より先だったかも知れない。しかしその時、自分はただ一目見ただけで、愛らしい女だと思っただけで、僕はそれ以上思わなかった。そしてその女と結婚したいなぞとは夢にも思わなかった。ただ従妹《いとこ》と従妹の家の庭で繩とびしているのを見ただけで、その女の名もその時はきかなかった。しかし友からその女を恋していることを聞かされた時、自分はその女ではないことをのぞんでいた。そしてその女と云うことが疑えなくなった時、自分は少しがっかりした。しかし自分はそれを意識するのを恥じた。自分はその女のことをまだそうひどくは思っていなかったのだから。そして、その女をその後二三度見はしたが、ただその時、可愛らしい娘だと思うただけにすぎなかった。ところが友が来てその女のことをほめちぎる。自分も何か暗示を与えられたような気がした。しかし自分は友の恋している女だ、自分に要はないと思おうとし、又思っていた。そして出来るだけ冷淡にし、好きにならないように注意した。しかしその後ある夏、その女とKであった時、自分はその注意がややもすると力のなくなることを感じた。自分は之では困ると思った。それでその女をさけるようにした。だが逢いたい気はややもするとした。そして或る月のいい夜、友と歩いて、いろいろ未来のことを話している時、自分は美しい声の歌をきいた。その声はへんに自分の心に響いた。自分はその女を一目見たかった。しかしその女はきっと醜い女だろうと思って居た。その時友はあれはあの人だと云った。自分はその時、一種の嫉妬《しつと》に打たれた。同時に用心しなければと思った。そしてその人は、やはりその人だった。遠慮して、自分達の足音が聞えると歌うのをやめた。そして人かげに立っていた。だが自分は、目のいい自分は、その女が自分を見ていることを感じた。眼の近い友にはそれはわからなかったろう。自分は一寸|釘《くぎ》づけにされたようにぼんやりした。だが自分はすぐ意識をとり戻した。この女は友の恋人だ、自分は愛することを禁じられている、すきになってはいけない、そう思った。それで一緒に散歩しないかとその兄にすすめられたが、自分は断って一人わかれて帰ることにした。すると友も一緒について来た。二人は暫《しば》らく黙っていた。しかし友は傲《ほこ》るように見えた。自分はその時から、ややもすると、ある謀叛心《むほんしん》が出かけた。しかし自分はそれを恐れた。それで反って友にもっと積極的に出ることをすすめた。その晩はへんに胸がおちつかなかった。早くおちつきたい、あの女に無頓着になりたい、そして友人の妻としてのみ、あの女を見るようにしたいと思った。自分はある所までそれに成功して、道徳的誇りを自分でさえ感じた。そして自分はその友の幸福の為に働きたいとさえ思った」 「しかしその為には働かなかったのか」 「私は知らない。働いたらしくもある。しかしその結果は働いたことにならず、反って自分をその女に立派に見せることに役立てたらしい。ともかく其の女がその友を愛していてくれれば問題はなかった。自分は自分のその女にたいする感情を厚意の程度でとめておけたろう」 「お前にはそれが出来たか」 「出来た。出来ないにしろ、二人がお互に愛してい、女が自分の存在に無頓着ならば、自分はどうすることも出来なかったにちがいない。だが自分はその後間もなくその女が自分に本当に厚意をもっていることを知った。その女は自分を見ると顔色がかわり、ぼんやり自分と二人は顔を見合せることが多くなった。自分は一人女から離れていても、自分達の目はよく出逢った。自分はそれをこばもうとした。しかしそれは自分の力にないことだった。自分はその女の愛を友の方に向けたく思った。事実向いたら心細かったかも知れない。事実、何処かで安心し切っていたのかも知れない。しかしともかく意識的には出来るだけその女をさけ、そして友に対する務を果そうと思った。しかしそれは何にも役にたたなかった。そしてややもするとあぶなくなった。不安を感じた。友からその女を横どりしたい気にもなった。このままでいたら困ると思った。自分は人間を愛することに不安を感じる男だった。人間はいつ死ぬかわからない。人間の心はいつかわるかわからない。自分はその上、尊敬する友と女の奪いあいをするのがあさましく見えた。その女のまわりに多くの男があさましく集ってその女を女王のように大事にして、肉慾をかくした衣をきた狼《おおかみ》の仲間入りするのがいやでもあった。自分はまだ女につかまり切っていない。今ならまだ自分は友にその女をゆずることが出来る。しかしこのままでいてはあぶないと云うことを益々感じた。自分は何度その女のもとを去ろうと思ったか知れない。友の為にも、自分の為にも。自分が去れば女は自分のことを忘れるだろう。そして野島のことを思ってくれないとも限らない。自分はまだその女なくも生きてゆける。しかし友にとってはあまりひどい打撃だ。しかも友は自分に前からその恋を打ちあけ、自分にたより、信じて安心し切っている。そしてむしろ感謝している。男が自分を信じるものを裏切ることが出来るか。出来ない。自分は友の為に去るのが本当と思った。それはその女が来て自分と一緒にトランプした晩だった。その晩よくねむれないで朝早く起きて海岸にいった。友は既に浜に出て何か考えていた。自分はやはり友の方が本気だと云うことを感じた。そして友が前の晩のことを幸福に感じているのを見た時、自分は自分の友達甲斐のないことを露骨に感じ、友の為に本当に働きたい気になった。友はよろこんでいた。そして自分に感謝しているように見えた。しかし友もあることは感じているように見える。その女が君を尊敬していたと云ったら、『君の方をなお尊敬しているかも知れない』と云った。自分は『勿論』とも思ったが、それをうちけして友を安心させ、なおよろこばした。しかし自分は自分の空々しいのに気がとがめたので、その女のことをほめ、君が恋したのは尤《もつと》もだと云い、自分も君の恋人と思わなければ心を動かされたかも知れないと云った。自分はそれから益々意識して迷い出した。八分は友の為につくす気でいたと思う。しかし二分は、三分かも知れぬ、もしその女が自分を本気に愛していてくれるならば、それは友に世話するのが、本当か、奪うのが、本当か、それがわからなくなった」 「よし、もう君がその女を恋しだしたことも、友につくそうとした心もわかった。それで君はどうしようと云うのだ。それが聞きたい」 「僕はもう少し強く友の為に尽し、友の為に女を思い切ろうと努力した。しかし今その点について自慢しようとは思わない。自分は口と行いと手紙とでは友の為に尽した。しかし心では自分はその女のことに益々無頓着になれなくなった。ここへ来ても自分は女のことをすっかりは忘れることがなかった。そして何かで、友がその女のことをあきらめてくれたらと思ったり、ある時はふと友の死を考えたりした。友が死んでくれたらと思っておどろいたことも皆無とは云えない。独身の男は女のことを空想しないわけにはゆくまい。そして自分はいくら考えてもその女のこときり考えられなくなってしまった。しかし自分は西洋へ来て一年半程たって、稍《やや》忘れかけた。勿論、時々は随分淋しくって、その女のことを思わないでよそうと思いつつ、思い出しても見たが、自分は恋したとまでもはっきり云えない気でいるのだから、ただ他の女のことを考えることを禁じられているのでその女のこと許りつい考えるようになったとも云えるのだ。ともかく自分はその女のことを少しは忘れることになれて来た、いや、思ってある処でとめることになれて来たというのが本当かとも思う。ところがそこに思いがけなくその女から手紙が来た。そして写真まで来た。そして露骨に友達を嫌い、もっと露骨に厚意を持っていてくれるのだ。君よ、それでも僕が心を動かしてはいけないのか。自分はそれでも戦って見た。しかし冷淡な手紙を出したあとではとり返しのつかない気がした。そして女からくる手紙が少しでもおそいと僕はとり返しのつかないことをしたような気さえし、友達をうらみたい気と、あやまりたい気と、両方した。僕はもう友達に払うものは払った。あとは自然に任せるより仕方がないとも思った。勝手にしろ、なるようになれ、どっちにいっても、自分は自分の一生をよりよくする。そうは思っても見たが段々女を失うことのつらさが強くなって来た。殊に写真がいけない。それがへんに生きて見える。自分は写真を破るか、誰か西洋人にやろうかと思ったが、その勇気はなく、又それは女にたいしてもすまぬことの気がした。そして仕事をする時、ついその写真を机の上にかざるくせが出来、どうかするとそれに接吻さえして見たくなる。もう万事きまったと自分では思った。之が罪ならば罪でもいいとも思った。しかし自分は友のことを思うと、同情しないわけにはゆかない。自分が女を失うことのつらさを知るにつけて友のつらさがわかる。友からの手紙にはその気持が露骨にかかれている。ここに一つ最近に来た友の手紙がある。その一部をよんで見よう。『僕は淋しい。僕は仕事にかじりついている。無理にも仕事にかじりついている。そして自分の淋しさに打ち克《か》とうと思っている。しかし淋しい。自分は毎日うろつきまわっている。ゆきたい処も、ゆく処もない。郊外の田圃《たんぼ》や、雑木林の中を歩いたり、小川のふちに腰かけてぼんやり水を見たりしている。そしてややもすると泣きたくなる。自分は本当のひとりぼっちだ。君がいてくれたらとよく思う。本当に失恋すべきものではないと思う。子を失う母よりもっとつらいように思う。自然は何の為に人間にこんな淋しさを与えるのだろう。人間はなぜ又この淋しさを耐えなければならないのだろう。自分は鍛えられているのだと思おうと努力する。だがつらすぎる。しかし自分は自棄《やけ》は起したくない。そして益々人生と仕事にしがみつく。美しき彼女よ、自分を憐れめ、微笑の日光を一寸でもいいからあててくれ。僕の生長力は凍《こご》えそうだ。君よ、僕を慰めてくれ。僕は淋しさに耐え兼ねている。無理に勇気を起そうとしている。君よ、どうか僕に勇気を与えてくれ。君からも手紙が暫らくこないのでなお皆から捨てられたような気がする』」 「それなのにそのお前がその友達の恋人をつまり奪うことになるのだな」 「そうだ」 「それではお前は何と友達に返事を出した」 「僕は黙って、石膏《せつこう》のベートオフェンのマスクを送ってやった。そして友のかいた短かい脚本を一つ訳して仏蘭西《フランス》の友の関係している雑誌に出してもらうことにしたことと、その友がそれをよんで感心したことを報告してやった。それがせめてもの罪亡ぼしと思った」 「友はなおお前の友情のあついのに感心するだろう」 「それを思うと、なおすまない気がする。しかしそうするより他《ほか》、仕方がない。友は必ず今度のことで本当に鍛えられるだろう。友は参り切ったり、自棄《やけ》を起したりする人間ではない。人類、神と云いたい所だが、人類は彼を本当に鍛えて偉大なる仕事をさせようと思っているのかも知れない」 「それならお前は女を得て、仕事を失い、友は女を失って仕事を完成すると云うのか」 「そうは云わない。僕は女を得て、益々仕事をする力を得る。彼は女を失って益々真剣になる。両方が、日本及び人類にとって有意味であることを、自分は切にのぞんでいる」 「お前も女を失ったらさぞ真剣になるだろうな。その方がお前の仕事にはよさそうだな」 「そう云うな。俺はもう女を失うわけにはゆかない。お互に愛している。一人では生きられなくなりつつある。恐ろしい勢いで俺は二人でなければ生きられなくなりつつある。二人で生きるものは仕合せだと云う言葉は本当だ」 「それは誰が云ったのだ」 「あの人が云ったのだ」 「あはははは」 「いくら笑っても本当のことは本当のことだ」 「お前は友情のない男だ」 「何とでも云え。俺は運命の与えてくれたものをとる。恐らく、友は最後の苦い杯《さかずき》をのむことを運命から強《し》いられて其処で彼は本当の彼として生きるだろう。自分は女を得て本当の自分として生きるだろう。それは自分達が選択してきめることの出来る道ではなく、強いられて自ずと入る道である。友は得られないものを強く求めた為に何か他のものを得、俺は求めることをこばんだが、求めるものを得るくじ[#「くじ」に傍点]を選んだ。俺はそれを幸福と許りは思わない。更に進軍ラッパがなりひびいたのだと思う。彼は孤独の道に神の言葉をきく。俺のわきには天使が居て、俺をなぐさめ、俺に勇気を与えてくれる。それはすべて自分の力で得たのではない。意識して生み出したものではない。天与のものだ。自分は反《かえ》って今後の『彼』がこわい。しかし自分も負けてはいないつもりだ。天使よ、俺の為に進軍のラッパを吹け。今は人類が、立ちあがらなければならない時だ。自分達精神的に働くものは真剣にならなければならない時だ。自分達、フランス人も、イギリス人も、ドイツ人も、イタリー人も、支那人も、印度人も自分達の仲間にいる。皆若くって真剣だ。そして一つ目的、人類の為につくしたがっている。皆は自分を信じてくれる。天使よ、我を益々我たらしめよ。このよき時に、生れたる我を無意味に死なすな。汝《なんじ》の写真は、それ等の人々の賞讃を得ている。何処にも、馬鹿はいる。巴里にも随分いる。だがそのしたに生きている世界各国から集ってくる若々しい血を直接に感じる時、自分達は同じく兄弟だと思う。日本によき人間のいることを彼等は本当に喜んでくれる。彼等の上に祝福あれ」 わが愛する天使よ、巴里《パリ》へ武子と一緒に来い。お前の赤ん坊からの写真を全部おくれ。俺は全世界を失ってもお前を失いたくない。だがお前と一緒に全世界を得れば、万歳、万歳だ。

あなたのお手紙は本当に驚喜させました。ありがとう、ありがとう。私は之から早速武子さんの処にゆきます。兄に話しましたら、兄も大よろこびで賛成してくれました。兄はあなたを実に愛しております。しかし兄も気の毒よ。武子さんに一寸気があったのよ。しかしもうすっかりそのことは忘れておりますが。野島さんだって、今にきっと私と結婚しないでよかったとお思いになってよ。いい方がいくらでもいらっしゃるのですから、結婚でもなさって、お子さんでもお出来になると。だからあんまり野島さんのことはお気になさらない方がよくってよ。あなた以外の方が私を愛して下さるなんか不自然ですわ。何しろ私はもう夢中にうれしいのです。本当に巴里へゆきますよ。どうしても。親には兄から話してもらうことにしました。母はきっとよろこびますよ。武子さんと御一緒ならこんなにうれしいことはありませんわ。ですけど武子さんに、私はまだ何にも話して御座いませんのよ。ですから少しきまりがわるいのです。ですけど、私はもう度胸がきまりましたわ。世界中の人が笑ったって、そんな呑気者も居ないでしょうが、私はもう平気ですわ。私の写真全部お送りしますわ。可笑しいのも。笑って頂戴。しかし皆さんにはいいのだけ見せて頂戴。私をそんなに賞めて下さるのはあなた許りよ。あんまり本物を見てもがっかりなされない程度で話して頂戴よ。お目にかかれたら私うれしくって泣き出してよ。もうあなたとは少しもはなれなくっていいのね。何処へでもついてゆきますわ。私はなんでも云うことをききますから本当に可愛がって頂戴。私はどんな洋服をきたらいいのでしょう。武子さんにご相談しますわ。之から武子さんの処へゆきますわ。帰って又先をかきますわ。兄が今やって来まして、母に話したら、母もよろこんで承知してくれたそうよ。私どうしてこう仕合せなのでしょう。思い切って手紙をかいてよかったわ。なんでも正直にぶつかるだけはぶつかって見るものね。用心に用心して見て、私は二年間考えましたわ。随分考えましたわ。それでもうまちがいないと思いましたの。偉いでしょ。之からゆきますわ。

今行って帰って来ました。武子さんはもう知っていらっして、私のくるのを心待ちしていらっしたのよ。同時に出して下さった御手紙が武子さんのお家は市内なので、少し前についたのよ。武子さんはびっくりしたけど、うれしかったと云って下さってよ。本当に武子さんはいい方ね。私ないてしまいましたわ。二人であなたのことをほめて、ほめちぎって話しましたわ。御一緒にルーブルにいってモナ・リザの前に立って、あの笑い顔の真似しっこすることも御約束しましたの。

芝居や、音楽会にも一緒につれていって頂戴ね。オペラも、あなたと御一緒に何の遠慮もなく歩けると思うと、私は本当に、本当に、本当にうれしいのよ。なんでも御一緒に見たり聞いたり、話したり出来ますのね。尤《もつと》も私は仏蘭西語はちっともわかりませんわ。英語だって何にもわかりませんわ。ですが、あなたが外国の方と外国語で話して、愉快そうにしていらっしゃるのを見ると、私もわかった気になって一緒にトンチンカンな所で笑いますわ。私は本当に考えただけで笑いますわ。

本当に本当にあなたのような方が、この世にいらっして下さったことはよかったわ。私神様に出来るだけ御礼申しますわ。私も出来るだけ立派な人間になって皆さんの前に立っても恥かしくない人間になりますわ。本当に何処の国の方でもいい方はよろしいわね。あなたをほめる方は皆いい方よ。私はあんまりうれしいので何をかいたかわかりませんわ。いや味な所があっても許して頂戴。もう二ケ月たつと日本をたつのよ。あなたのいらっしゃる処なら、何処だってちかいわ。ありがとうありがとう。

十一

わが友よ。

自分は二人の手紙をここに公にする。そして君の面前にそれをさしつける。事実をそのままさしつける。自分は君の神経をいたわってこの二人の手紙をかきなおして、君に見てもらおうかと思った。しかしそれは反って君を侮辱することになることを知った。自分は君を尊敬している。君は打ちくだかれれば打ちくだかれる程、偉大なる人間として、起き上ってくれることを僕は信じている。そして露骨に事実を示せば、君は反って怒ることによって悲しみに打ち克ってくれると思う。僕は又君につまらぬ同情をしようとは思わない。又自分の君にたいする冷酷な態度を甘く見せようとも思わない。自分はただ事実を云う。 それに就《つい》て自分は何も云いわけしない。いや云いわけしたいことは既にかいた。ここでは何にも云わない。ただ自分はすまぬ気と、あるものに対する一種の恐怖を感じるだけだ。自分はあるものにあやまりたい。そして許しをこいたい。一方自分は自分を正当だと思い、やむを得ないと思う。そして自分のとった態度を必然のような気もする。だが何かにあやまりたい。自分は君に許しを請おうとは思わない。それはあまりに虫がいい。君はとるようにとってくれればいい。君は君らしくこの事実をとってくれるだろう。自分の方は勿論君を尊敬し君にたいして友情を失いはしない。しかしそれは反って君を侮辱することになることを恐れる。

事実は以上のようである。かくて僕は杉子さんと結婚することになるだろう。この事実にたいして君は自分達を如何ように裁いてくれても自分達は勿論甘受する。自分は云いたいことが随分あるようだ。しかし僕から慰められたり、鼓舞されたり、尊敬されたりするのは不快に思うであろう。尤も僕達はもう十分に不快を与えすぎたであろう。今になって遠慮するのもおかしなものだ。だから正直に云おう。自分は明日からマルセーユにつく杉子の一行を迎えにゆくわけだ。二人は遠くから、許してくれるならば君の幸福を祈る。そして君が、日本、否世界の誇りになるような人間になってくれることを信じ又祈る。

十二

野島はこの小説を読んで、泣いた、感謝した、怒った、わめいた、そしてやっとよみあげた。立ち上って室のなかを歩きまわった。そして自分の机の上の鴨居《かもい》にかけてある大宮から送ってくれたベートオフェンのマスクに気がつくと彼はいきなりそれをつかんで力まかせに引っぱって、釣ってある糸を切ってしまった。そしてそれを庭石の上にたたきつけた。石膏のマスクは粉微塵《こなみじん》にとびちった。彼はいきなり机に向って、大宮に手紙をかいた。 「君よ。君の小説は君の予期通り僕に最後の打撃を与えた。殊に杉子さんの最後の手紙は立派に自分の額に傷を与えてくれた。之は僕にとってよかった。僕はもう処女ではない。獅子だ。傷ついた、孤独な獅子だ。そして吠《ほ》える。君よ、仕事の上で決闘しよう。君の残酷《ざんこく》な荒治療は僕の決心をかためてくれた。今後も僕は時々淋しいかも知れない。しかし死んでも君達には同情してもらいたくない。僕は一人で耐える。そしてその寂しさから何かを生む。見よ、僕も男だ。参り切りにはならない。君からもらったベートオフェンのマスクは石にたたきつけた。いつか山の上で君達と握手する時があるかも知れない。しかしそれまでは君よ、二人は別々の道を歩こう。君よ、僕のことは心配しないでくれ、傷ついても僕は僕だ。いつかは更に力強く起き上るだろう。之が神から与えられた杯ならばともかく自分はそれをのみほさなければならない」 野島はそれをかき上げると彼は初めて泣いた。泣いた、そして左の文句を泣きながら日記にかいた。 「自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え」

底本 新潮文庫「友情」(昭和五十六年四月二十日九十四刷)