Part 2
仲田はまもなく鎌倉に行った。
大宮の別荘も鎌倉にあった。大宮にすすめられて、むしろすすめられるようにして野島も鎌倉に行って、大宮と一緒に生活した。
大宮と文学や、人生について話した。神についても、恋についても話した。二人は話がよく通じあった。お互に同感のこと許りきり云わなかった。それ程二人は親しかった。初めは時々議論もしたが、いつのまにか二人の意見は理解され、理解されて見たらば、不服を云う必要がなかった。お互に感化され、感化した。どっちかと云うと齢下の野島の方がより多く大宮を感化した。しかし野島の方がより多く慰められた。大宮はわりに世評に寛大になれ、平気になれたが、野島はややもすると世評に可なりひどくまいらされた。
大宮の方が早く理解された点もある。同じ程度に悪口云われても野島の方が遙《はるか》に強くそれを感じた。腹も立て、淋しがりもした。 ともかく二人はよき友であった。二人が知りあったことは二人にとって感謝だった。
野島は大宮の評判が自分よりずっといいので、時々一種の嫉妬《しつと》を感じることがあっても、大宮は野島にたいする信頼と尊敬を益々示してくれるので、感謝しないわけにはゆかなかった。そして大宮のものが少しでも悪口云われると怒らないわけにはゆかなかった。 ある時大宮が、父と議論して、どうしても文学をやると言い切った為にもう少しで、勘当されかけた時、野島は本気で、大宮が生活難に苦しんだら、自分で出来るだけ助けようと思った。
今、二人は一緒の家に住んでいたが、勝手な行動をとった。一緒によく散歩もし、話もし泳ぎもした。しかし一人になりたい時は一人になった。野島は時々、仲田の処に出かけた。仲田も野島の処に来て、大宮とも知りあいになった。仲田は大宮にもあそびに来てくれと云った。しかし大宮は何とか、理窟にならないことを云って仲田の処に出かけなかった。
野島も一人でばかり仲田の処にゆくのは気がひけた。それで時々大宮をさそって見た。しかし大宮はいつも行くのをいやがった。 「そう云うのは失敬だけど、僕は仲田は虫がすかないのだ」とも云った。
或る晩、月のいい時、大宮と一緒に野島は散歩した。そして人のあまり行かない、砂丘の方を歩いた。すると、女の人の歌をうたう声が聞えた。 「いい声だね」 大宮は感心するように云った。そう云われると、野島もいい声だと思った。すると同時に、 「あれは彼女にちがいない」と云った。 「あれがそうなら君は仕合せ者だ」大宮はからかうように云った。 「あんまり恋し過ぎると云うことは弱点だ。なんだか独立性がなくなったようで、魂を何かにあずけているような不安を感じる。僕は恋をしていない君をむしろ羨ましく思う」 「それは本音かね。僕はそんなにまで一人を愛することが出来る君を羨ましく思うよ」 歌は不意にやんだ。二人の影に気がついたためだろう。
其処には三四人の人が集っていた。二人はそのわきを通りこそうとした時、野島は云った。 「仲田じゃないか」 「野島君か。大宮君も一緒か。いい処であった。よかったら一緒に散歩しよう」 この時大宮は不意に云った。 「残念だが僕は今日は失敬しよう。一寸したいことがあるから。野島君はいいだろう」
十八
野島は大宮に感謝したく思った。しかし、自分だけのこる気にもなれなかった。他の人には黙礼して、皆と別れた。杉子は月のかげにいたので、よくは見えなかった。 「君はのこればいいのに」 「だって仲田は君の方にのこることをすすめているらしかったから」 「ともかく君は惜しい機会をのがしたような気がしたろう」 「そんなことはない。あの歌をきいただけで本望だ。君に云われて初めて杉子さんの歌のうまいことを知った」 大宮は暫らく黙っていたが云った。 「僕は君の幸福をのぞむよ」 「ありがとう」 野島は心から感謝した。 「あのわきに居たのは早川と云うんだろう」 「気がつかなかった」 「馬鹿だね、君は。お母さんの居たのは気がついたか」 「お母さんらしい人が居たらしい」 「君はしっかりしないといけないぜ。君はあんまり杉子さんのこと許り思っていては駄目だぜ。君は早川の敵じゃないね。しかし僕は従妹にそう云ってやろう。早川を杉子さんが信用しないように。あの男は信用の出来ない男だ」 「僕はそれ程には思わない。あっさりした、男らしい所のある人と思う。才子は才子だが」 「僕はもう見ぬいてしまった。僕は君のために骨折るよ」 「ありがとう」 「君はあんまり人がよすぎる」 大宮は笑いながら云った。 「僕なら、あの時、一緒に皆と散歩するね。君が帰ると云えば君を帰らして」 「僕の位置にいれば君はそんなあつかましいことは出来なくなる」 「恋はあつかましくなければ出来ないものだよ」 「本当の恋はあつかましいものには出来ない」 「ともかく恋も一種の征服だからね」 「僕だって君の位置にいれば、きっと積極的に出ろと云うかも知れないがね。あつかましく出る人が居るとなお引こみたくなるよ」 「まあ僕に任せておきたまえ。君にまかせておくのは心配だ」 大宮は笑った。 「しかし其処が君のいい所さ」と慰めるのか、からかうのかわからないようにつけ加えた。
野島は帰ってからも大宮が、杉子の歌のうまいと云うこと、君は仕合せ者だと云ったことをよく思い出した。そして早川が自分にとって大敵だと云うことも痛切に感じた。
彼は早川を愛してはいなかった。軽蔑し、又憎みたかった。しかしその動機があまり見えすくので彼は早川のことを反ってあまり悪くは云えなくなった。存外いい人間かも知れないと理窟で思ったりした。しかし早川が杉子の母にこびているのを見ると、いやな気がした。又杉子自身にたいしてもお世辞を露骨に云っているのを見ると、自分はそんな真似はしたくないと思った。
自分は恋する女の為に卑しい真似はしたくない。自分を益々立派にしたく思うだけだ。自分の妻になる人間に自分をあざむくことは凡《およ》そ恥かしいことだ。自分の真価を知ってくれて、それでもくる気が出ない女、そんな女は用はない。ラスキンは「耶蘇《ヤソ》教を信じる」と云えなかった為許りに、失恋して、病気にまでなったと野島は記憶している。そしてそれでこそラスキンだと思った。正直な男と云う誇りを失ってまで、女を獲《え》ようとすることは彼にはあまり恥かしいことだ。それは自分の一生を汚すことだ。彼はいくら恋しても自分の誇りを捨てることの出来ない人間だった。
十九
それから一週間程たって、大宮の従妹が、大宮の母と一緒に別荘に来た。大宮の従妹は武子と云って、杉子より一つ上だが、まだ固い蕾《つぼみ》のような所があった。杉子は一つ齢下でも既に咲きかけた花のような所があったが。
武子の父は可なり有名な政治家で、武子は妾腹《しようふく》の子であった、母のゆくえはわからなかった。そして大宮の母に一番なつき、前にも云ったように大宮のことを兄と呼んでいた。
杉子は豊かな感じのする女だったが、武子は少しやせた、感情家で、思ったことはなんでも云う質だった。妾腹の子に似合わず、武子は我儘《わがまま》な勝気な、そのくせ情にもろい所があった。
野島は初めて武子を見た時に、杉子とは比べものにならない、女の様な気のしない女と思った。そして反って呑気に話が出来た。
話している内に彼は武子の思ったよりも美しく、利口なことに気がついた。しかし杉子とはくらべものにならないと思った。益々彼は杉子の美しさを感じた程だった。
武子が来てからは杉子もよくあそびに来た。一緒に海にも入った。野島も今迄より杉子と呑気に話すことが出来るようになった。彼は杉子を恋しているように思われるのはいやで、杉子に話す時は、武子にも話し、二人を同じようにからかい相手にした。大宮も時々仲間になった。しかし大宮は杉子には可なり冷淡にしていた。
大宮はある時、野島にこう云った。 「杉子と云う人は指の綺麗な人だね。僕はまだあんな綺麗な爪をしている人を見たことはない」 全体ばかり切りわからない野島は、「そうかね」 と云うより仕方がなかった。 わきにいた武子はそれに賛成した。 「本当にあの方は綺麗な手をしていてよ」 野島はそう云われてから注意して見たが、 「そう云えばそうらしい」 位に切りわからなかった。彼は自分の愛するのは杉子の魂だ、杉子その人だ、その全体だ、と思いたかった。しかし杉子の手の美しいといわれたことは歌のうまいと云うことと一緒に忘れることの出来ない、自慢の一つだった。
彼はその時分から段々露骨に早川に一種の嫉妬を感じた。早川の彼よりも体格がよく、さっぱりして、男らしく、そしてよく気がつき、利口らしい点を彼は恐れないわけにはゆかなかった。彼よりは何倍も女に愛される資格を持っているように思えた。その上に早川は法科の特待生であって、杉子の母には信用されていた。そして杉子に気に入ることを常に心がけて、それを無邪気そうに露骨に示していた。無邪気な杉子は早川を益々信用するようにさえ見えた。ある日、「早川さん、泳ぎを教えて頂戴な」 「ええ、教えて上げましょう」 こう云って、早川が杉子の手をとって泳がしてやると、杉子は足を出来るだけバタバタやって水をはねかえした。そして二人は無邪気に大声を出して笑った。 「馬鹿!」野島はそう心で云った。「あんな女は豚にやっちまえ。僕に愛される価値のない奴だ」 彼はそう怒って、海からとび出して、家へ帰ろうとしたが、「本当に杉子さんは無邪気なのかも知れない。そう思う自分の方が、いやしいのかも知れない」と思い返して、平気な顔をして、黙って海岸に立って、遠くの雲を見るともなく見ていた。すると武子が来て、 「あの雲はまるで悪魔のように見えますわね。まるで早川さんの顔のように」と囁《ささや》いた。
野島はほほえまないわけにはゆかなかった。
二十
「杉子さん、杉子さん」 武子はあわただしく、杉子をよんだ。杉子は、「なに」と云って急いで海から上って、野島と武子のわきに来た。無邪気に血色のいい顔には微笑を見せていた。
野島はひきつけられるように思った。 「どうしても彼女を失うわけにはゆかない。こんな天使が何処にいるだろう」 「あの雲を御覧なさい。誰かの顔に、似ているでしょ」 「どれ」杉子は面白がって指さされた雲を見た。 「本当に人の顔見たようね」 「誰かの顔に似ているでしょ」 「誰の顔でしょう」 「わからなくって」 「わからないわ」 「早川さんの顔よ」 「まあ、可哀そうに」 「雲の方が、可哀そうね」 「まあ、武子さんにあっては敵わないわ」 二人は愉快そうに笑った。武子はまた早川に声かけた。 「早川さん、あなたの写真があってよ」 早川はあわてて上って来た。 「何処に」 「そら、あすこに、あの雲はあなたの顔をそっくりよ」 「あはははは。武子さんに逢っては敵いませんね」 武子はふき出した。
野島は何となく淋しい気がした。そして、大宮が一人で波のりをしている方に出かけた。
三人はなお何か云って大きな声を出して笑った。 「早川の笑い声は何と云ういやな笑い声だろう」彼はふり返らずにそう思った。
大宮は白波をたてながら、勢いよく浜辺に押しよせてくる浪《なみ》に、半身を出して、板を胸にあてがいながら、気持よさそうにのって来た。浅い処迄くると、起き上って野島の方に笑い顔しながらやって来た。 この時又杉子の笑い声が聞えたがふり返ってやるものかと彼は思った。そしてそんなことにすっかり無頓着な大宮を尊敬したい気がした。何と云っても自分の本当のことがわかってくれるのは大宮だ。そして自分がすっかり信用の出来るのも大宮だと思った。感謝したい気になった。大宮は彼のそばに来て、 「僕は今波のりしながら考えたよ。波は運命で、人間がそれにうまくのれると何んでも思ったように気持よくゆくが、一つのり損《そこな》うといくらあせっても、あわてても、思ったように進むことが出来ない。賢い人だけ次の波を待つ。そして運命は波のように、自分達を規則正しく、訪れてくれるのだが、自分達はそれを千に一つも生かすことが出来ないのだ。それを本当に生かせたら大したものだって」 野島は大宮のこの言葉を、彼の恋にあてはめて同感を感じていた。すると又皆の笑い声が聞えた。つい彼は不用意にふりむいた。
仲田も仲間入りして、杉子と早川はならんで立っていた。背|恰好《かつこう》も、体格も実に似合いの夫婦と云う感じがふとした。彼は自分の体格がよくなく、むしろ不自然な位、瘠《や》せているのを反省しないわけにはゆかなかった。 「己を知れよ」そんなことを一寸思わないわけにはゆかなかった。だが彼は自分の精神の優秀をもってそれに打ち勝ちたく思った。しかしそれは今の場合力のなさすぎる云いわけだった。彼は自分のみたくない正体を見たような気がした。そして何げなくふり返って、大宮を見た。そして大宮の筋肉がしまってつり合いのよくとれている身体に気がついた。そしてそのわきにたつ、自分の醜さを思った。杉子はそれを見ている! だが自分程痛切には感じてはいまい。それが彼の唯一の言いわけだった。
皆は武子が先にたって、野島や大宮のいる方に来た。
二十一
武子は云った。 「今皆で神があるなしの議論していましたの、お兄さんは神を信じていらっしゃるのでしょう」 「さあ、神のことは野島に聞く方がいい。野島はその方では僕の先生だから」 野島は、大宮が杉子の前で彼を信用していることを示してくれたことを感謝した。 「それなら野島さん、判断して頂戴ね。妾《わたし》は神があると云うのですが、他の方はないとおっしゃるの」 「それは神によるでしょう。神と云う概念に。神という言葉程、あいまいな言葉はありませんからね。皆その言葉を勝手に解釈してあるとかないとか云うのでしょう。両方本当とも云えるし、両方とも譃《うそ》とも云えるでしょう」 野島はあいまいなことを云った。 「妾はね」武子は少し不平そうに云った。「見える神があると云うのではないのですよ。妾の説はお兄さんの説をなお下手にしたので、あなたの又弟子にあたるわけですがね」武子と杉子は無邪気に笑った。 それを聞くと、野島は自分の内のわだかまりが気持よく消えたことに気がついた。 「妾は人類とか、自然とか云う言葉ではあらわせない、或るものがあると云うのです。そのものに身を任せる時にだけ人間は安心を得られるというのですよ。ところが他の人はそのあるものは何んだか見せてほしいと云うのよ。妾は見えないものだから見せようがないと云ったのよ」 又皆は気持よさそうに笑った。野島もその仲間入りした。 「野島さんは見せて下さって」杉子は笑いながら、野島の顔を見た。 「僕にも見せられませんよ」 杉子も野島も笑った。 「ですが僕はそれを感じることはたしかです」 野島は真面目になったので誰も笑わなかった。 「人によって道徳とも云うし、人類的本能とも云うでしょう。理性とも云うでしょう。ですがそれ以上の何かから出ているような気がします。それはいいことをすれば気持がいい。このことは道徳に叶《かな》ったことです。人類的本能でも説明出来るでしょう。ですが、朝早く浜へ出て歩く、人が誰もまだいなかったり、いても処々に一人か二人か三人位切り居ない。跣足《はだし》であるく、少し波に足をあらわせる。そう云う時、私達は何となく愉快になるでしょう。そしてひとりでに歌でも唱《うた》いたくなったり、説教でもしたくなったりするでしょう」 「そりゃ君、身体が健康になるから気持がいいのだよ。それはオゾンの働きだよ」 早川はそう云った。 「しかしそれもあるかも知れないが、それだけで解決をつけるのは簡単すぎる」 野島は乗気で喋舌《しやべ》ったのを腰を折られたので少し腹を立てた。早川に向って議論がしたくなった。 「しかし神をもち出す必要はないさ」 「しかし君は健康になればなぜうれしいか知っているのですか」 「健康になればうれしいにきまっているさ」 「我々は健康にしなければならないから健康になればよろこびを与えられ、病気をしてはいけないから病気をするのが苦痛のようにつくられているとも見ることが出来るでしょう。歯医者が歯の神経をぬけば歯はいたまない。そのかわり歯がどんなにわるくなってたって気がつかない」 早川が何か云いたそうにした。 「まあしまいまで聞いてくれ給え。毛髪や爪は切っても痛くない。切って痛くないのを不思議にさえ思わない。そうつくられている。神経を身体中にぬけ目なくくばって人間の身体を保護している、その保護しているものは人間じゃない。自然と云っていいかなんと云っていいか知らない。ここで神をもち出すのは早いことは僕も知っています。しかしともかく人間でない何かの意志が其処に加えられていると云うことは云える。僕はこんなところから話を始めようとは思わないのですがね。神経は何のためにあるかと云えば健康を出来るだけたもつためにある。しかし人間のようなものに健康をたもたせたところが始まらないとも思えば思えるでしょう。我々が人間をつくったのではない。人類が人間をつくったのではない。道徳や、理性が人間をつくったのではない」 「蚤《のみ》をつくったものが、人間をつくったのですよ。蛆《うじ》をつくったものが人間をつくったのですよ」 早川は覚ったもののように笑いをふくんで云った。 「無論そうです。しかし蚤や蛆には健康は必要だが神は必要じゃないのです。神が必要なのは人間|許《ばか》りです」 少し座が白けた。野島は喧嘩《けんか》を買われたような気がして怒った。ひかえ目を失って来た。 「美だとか、無限だとか、不滅だとか、そんなものは蛆や蚤には不必要なのです。彼等を作ったものは彼等にそんなものを要求する本能さえ与えるのを惜んだのです。爪や毛髪に神経を入れるのを惜んだものは、又蛆虫に神を求める心を入れることを惜まれたのだ」 「それでは君は僕達や、杉子さんを蛆虫だと思っていることになりますね」 早川は冷静に更に冷笑をつよめていった。 「そうです。もし無限だとか、不滅だとか、美だとか、永遠なものに合致するよろこびを少しも求めないなら蛆虫です」 「僕達はそんな寝言はなくっても生きてゆけます」 「まあ、そんなことを云うものじゃないよ」 仲田は仲裁しようとした。 「だけど、僕は、蛆虫あつかいされて黙ってはいられないよ。無限だとか、不滅だとか云うものは唐人の寝ごととしか僕には思えないから。杉子さんも同感でしょう」 「妾にはなんだかわかりませんわ。ですが、妾は健康に幸福に生きるには神様なんかいらないと思いますわ」 「杉子さん、あなたは自分をあざむいているのですよ。あなたの心はきっと神を求めていらっしゃる」野島は云った。 「妾、神様のことはわかりませんわ。そして虫けらも人間もつまりは同じと思いますわ」 「ちがいます、ちがいます。人間には精神があります。魂があります。虫けらからは耶蘇も、釈迦《しやか》も出ません」 「もう遅くなったから僕達はお先に失敬します」 と仲田は云った。 「そうですか」大宮は云った。 「さよなら」皆あいさつした。
早川は怒ったように先にたった。仲田|兄妹《きようだい》は早川においついて、三人何か話して行った。
野島はあとを見送っていたが、急に泣き出した。 「どうなさったの」武子はおどろいた。 「かまわないで下さい」 「武子さん、海に入ろう。君も早川の馬鹿のことなんか怒っているより海に入る方がいい」 「ええ。野島さんもね」 武子は勢いよく海に入った。野島は黙っていたが、自分で元気をつけて、海に飛び込んだ。 「勝手にしろ!
杉子とは絶交だ」そんな気もした。 しかし野島は海に入っても面白くなかった。彼は海から出て黙って家の方へ一人で帰った。
彼は井戸端で水をあびて、身体をふいて自分にあてがわれている室《へや》に入って仰向けにねて、あーあ[#「あーあ」に傍点]と云って見た。淋しいような、腹立しいような、後悔するような気がした。彼はその気に打ち克《か》って、その気を一方切りぬけて気持よくなりたく思った。だがその力はなかった。稍《やや》もすると泣きたいような気になった。
其処に武子が来た。 「一寸、御本拝借」 「ええ、どうぞ」 武子が本をさがしている後姿を見て彼は武子が杉子だったら、武子の心が杉子に入っていたら、彼はそう思った。自分はやはり杉子の心を愛しているのではなく、美貌と、身体と、声とか、形とかを愛しているのだなと思った。しかしそう思って見れば見る程、杉子の桃のつぼみが今にも咲きかけているような感じが、実になつかしかった。失うにしては余りに貴すぎる。 しかし屈辱は彼にはなお耐えられないもののように思えた。
二十二
彼は夕食後一人でそっと浜に出た。やはり杉子のことを考えていた。彼はもう杉子を憎んではいなかった。杉子に嫌われているとも思っていなかった。反って杉子は、無邪気なのを、自分の方で早合点して淋しがったり、腹をたてたりしたのだと思った。
彼は浜の石をひろって、海へそれを投げた。そして、それが三つ以上、波の上を切ってとんだら杉子が自分としまいに結婚するのだとやって見た。しかし石は波の上を切って、一つ大きくとんだだけで沈んでしまった。 「こんなことはあてになるものか」 しかしいい気はしなかった。今度は偶数の数だったら一緒になれないのだ。奇数だったら一緒になるのだ。一つきりとばなかったのは二人が一緒になる意味かも知れなかった。今度は沢山とびすぎて、数え切れなかった。
三度目こそ本当だ。
彼は波のくずれようとする頭を目がけてなげた。その日は殊に波のおだやかな日だった。
石は水をかすめて立派に三つとんで沈んだ。 「運がいいぞ」 彼は気持よく思った。だが信用する気にもなれなかった。彼は又波のやって来るか来ないかと云う処に小さく杉子という字をかいた。そして波が十度くる迄にそれが消されなければ杉子は自分のものだと思った。彼は波を睨《にら》んでよせつけまいと云う顔をして立って居た。一つ、波は来たが三間程前で、ひき上げた。 「それ見ろ」 波は又来た。それは一間程近く迄来て、彼を心配させ、そのかわり、彼にねめつけられて帰った。
三度目、四度目、五度目、波は根気よく来たり帰ったりしたが、杉子と云う字は消されなかった。 「あと五度、くるな、くるな、来てくれるな」 しかし波は字を消したがるようにこりずに来た。六度目のは可なりひどかった。あと一尺。七度目は三尺前でとまったが、八度目は悠々《ゆうゆう》と来て杉子の字を消し、しかも一間程、あたりをなめて帰って行った。
彼はがっかりした。 「野島!
君は其処に居たのか。今、杉子さんが来たよ」 「どうしていたい」 「相変らず元気にしていたよ」 「今は」 「武子と話しているよ」 「一人で」 「ああ一人で、さあうち[#「うち」に傍点]に帰ろう」 「僕はもう少し居よう」 「それがいけないのだよ」 「だって杉子さんは僕に逢うのをよろこぶまい」少し大宮の意見をさぐるように云った。 「あの人は他人を憎むと云うことは出来ない人だよ」 「そう云うのは人を愛することも出来ないと云う意味かい」 「そうじゃない。しかし情熱家と云うのとはちがうだろう。しかしそれは君の方が知っているだろう」 「いや、僕の方が君の意見をききたいのだ。あの人は早川を愛しているだろうか」 「まだ愛してはいないだろう。あの人はまだ誰も愛しようとはしていないよ。しかし今が正直に云うと恐ろしい時と思うね。今が一番大事な、危険な時だと思うね。武子より一つ齢下だと云うが、武子とちがってもう男に愛されるように用意されている。誰か一人を愛し、たよりたがっている。しかし処女の本能でそれを今用心深く吟味している。まだ意識はしていないだろうが、だから君は今はむしろ少し図々しい位に杉子さんに逢うのがいいのだ。君のいい所は逢えば逢う程わかる所にあるのだ。君のいい所は中々わかりにくい。それだけわかればもうしめたものなのだ。だから君は今|躊躇《ちゆうちよ》すべき時じゃない。もう一歩杉子さんがどっちかにころんだら、それこそ事件は厄介になる」 野島は大宮の云うことを本当だと思った。
二十三
二人は大宮の室に入った。武子の室からは時々二人の笑い声が聞えた。野島はその方に気をとられて黙っていたかった。しかしそれだけなお気がひけて、何か言葉を見出そうとした。だがそれがなお技巧的でそらぞらしいのに気がひけた。おちつかない気持がした。 すると足音がして武子が入って来た。 「お兄さん、トランプなさらなくって」 「してもいいだろう」大宮は野島に聞いた。 「ああ」野島はよろこびをかくそうともせずに云った。この友には万事、かくす必要はないと思った。 「それならここでしよう」 武子は杉子を呼びに行った。
杉子は入る時に、一寸躊躇したようだった。入った時、少し赤い顔しているようにも見えた。二人は黙って丁寧に挨拶した。いつもの笑い顔を見せていた。
野島は何となく嬉しく思った。杉子は和解に来たのだ。自分のことを気にしていてくれるのだ。自分を嫌ってはいないのだ。もしかしたら幾分厚意を持っていてくれるのかも知れない。
杉子は一寸遠慮して見せたが、武子に云われるとすぐ座蒲団の上に坐った。 「なにをしよう」 「なんでも」武子は云った。 「組をわけてプラス、マイナスをしようか」 「ええ」 「どう組むかな、野島と杉子さんと組んだらどうだ」 誰も返事はしなかった。 「それなら女同士と男同士とやるか。それでやる勇気がありますかね」 「ありますわ。ねえ杉子さん」 「ええ。男の方《かた》の方でありさえすれば」杉子は少しきまりがわるそうに云った 「之はおどろいた」 皆笑った。組はきまって、大宮は器用にしかし無造作にきってわけた。 トランプは殆んど武子と大宮の勝負だった。杉子と野島は時々馬鹿気たへま[#「へま」に傍点]をやった。野島は時にはうまいこともやったが、随分へまもした。杉子は時々トランプのことを忘れているようにも見えた。武子に注意されてあわててまちがった札を出したりした。顔は益々赤くなって、どうかすると手さえふるえるように見えた。
気をとりなおすように気がきいたことをするかと思うと、すぐへまをした。野島もそれに気がつくとへんに気がおちつかなくなった。何か見てはならないものを見るような気がした。杉子は恋しているのだ。自分に? いやもしかしたら大宮に? もしそうだったら。
野島はちらっとそんなことを考えた。しかし例の自分の廻り気だろうと思った。その内に杉子もおちつき出した。そしていつものように快活になった。それで野島も、気のせいだと思った。そしてへんに思ったことさえ忘れてしまった。だが、その後も大宮を恐れる気だけはのこった。
彼は大宮の様子を見ないわけにはゆかなかった。しかし大宮は普段と少しもかわらなかった。杉子を眼中においていないようだった。いつもよりいく分か快活に見えたが、それだけだった。彼は大宮のその態度を感心したくなった。武子は実に無邪気だった。そして少しでも勝つと喜んだ。そして少しでも負けそうになると怒った。そして杉子を妹のように叱《しか》りつけたり、教えたり、おだてたりしていた。
杉子は武子に従順だった。殆んど口答えさえしなかった。そして武子に云われる通りにしていた。その従順な所が、なお可憐《かれん》に見えた。武子は時々随分乱暴なことを云った。 「あなた、だめよ。そんなもの出して」 「それだって他《ほか》に何にもないんですもの」 「それならさっき妾の出す時、注意なさればいいのに」 「だって野島さんがもっと大きいのを出すと思っていたのよ」 「それだってその札は野島さんがついさっきとったのよ。あなたはぼんやりして見ていなかったのね」 「ごめんなさいよ」 皆笑った。野島はその時の杉子の表情を限りなく可愛く思った。 トランプは二時間程つづいた。野島は時間もその他のことも忘れて幸福になっていた。そして杉子のよろこぶ時は心からうれしかった。 「もう帰らなければ」と杉子は不意に云った。 「まだいいじゃありませんか」 「いつまでいても限《き》りがありませんから。それでは明日は是非来て頂戴ね」 「上ります」 「それでは失礼しますわ」 「そうお」 杉子は大宮に礼を云った。 「其処まで皆で散歩しなくって」 「してもいいよ」 「お送り下さらないでも」 「いいえ、お送りしてよ。散歩がてらに」 「恐れ入りますわ」 「遠慮すると怒ってよ」 四人はそとに出た。そして海岸を通って杉子を送って行った。
杉子は野島にふいに話しかけた。 「野島さん、村岡さん御存知?」 「芝居をかく、いつか仲田君やあなたと見にいった?」 「ええ、あの方がお友達と鎌倉に来ていらっして、さっき一寸見えて、あなたのことを聞いていらっしてよ」 「そうですか」 「あの方はこの二十九日にうちで芝居をするので、女優がないから、妾に出てくれとおっしゃるのよ。早川さんの親友で早川さんもおすすめになるの。ですけど妾はなんだか気まりがわるいのでお断りしようと思っておりますの」 「それは断った方がいいね」と野島は大宮に合槌《あいづち》を求めた。 「それは勿論、お断りになる方がいいでしょ」 「兄が野島さんや、大宮さんにきいてきめろと申しましたの。それならお断りしますわ」 「それはお断りしなければ、妾は杉子さんと絶交するわ。妾、誰が嫌いだって村岡って云う人位嫌いはないの」武子は云った。 「どうしてそんなに大嫌いなの」 「だって嫌いだから仕方がないわ。あなたはあの人のかくものを嫌いにならなければ駄目よ」 「そんなら嫌いになりますわ」 皆笑った。 その晩、野島は幸福だった。杉子は自分を嫌ってはしない。もしかしたら自分を愛していてくれるかも知れない。あの人は武子さんの云うことなら何でも聞き、又信じる。武子さんは自分の価値を知って居る。あの人も少しずつ自分のいい所がわかり出したのにちがいない。彼は武子と大宮に感謝したかった。その晩はよくねむれなかった。
二十四
翌日だった。朝早く彼は海岸に出て、ある砂丘の上に腰かけて海を見ていた。幸福は彼の心を満していた。希望は輝いていた。彼は何かに感謝したい気がした。それと同時に、何かに未来の幸福の為に祈りたかった。
彼は杉子と一軒家をもつことを考えた。杉子が自分一人にたより、自分一人に媚《こ》び、自分一人の為に笑顔をし、化粧をし、自分の原稿を整理し、自分の為に料理をつくり……、彼はそんなことを考えると天国に居るよりもなお幸福になれるような気がした。その時、自分は精神界の帝王になり、杉子は女王になる。自分の脚本は世界を征服する。自分の脚本の私演を杉子がやる。自分達二人は一緒に旅行する…… 彼はそんな夢を勝手に見ていた。すると大宮がやって来た。 「早いね」 「君こそ早いね」 「僕はよく眠れなかった」 「そうだろうと思った。僕は今日君によろこびを云おうと思った。昨日初めて僕は君がなぜ杉子さんを本当に恋するようになったかがわかった。僕は今迄杉子さんの価値を内心ひくく見つもっていた。あの声とあの表情では大概の男がまいるのはあたりまえと思ったよ。僕でさえ、君の妻になる人として尊敬する気がなかったら心を動かされたかも知れないと思ったよ。しかしそれだけじゃない、僕は杉子さんが君のいい所を認めだしたことに気がついた。武子にも君のことをほめていたそうだ。早川はあんまり信用していないらしい」 「しかし僕より君を尊敬しているかも知れないよ」 「そんなことはないよ。僕は碌《ろく》にあの人と話したことさえないのだから。少なくも君を信用していることはたしからしい。ともかく僕は昨日の杉子さんを見て、君の結婚の幸福を本当に望む気がしたよ。今までそう云っては失敬だが、少し疑っていた。あれなら安心と思った」 「ありがとう。君にそう云われると僕は本当に安心する。僕ほど幸福なものはない」 「君は幸福になっていい人間だ。それで浮き足にはなれない人間だから」 「僕はまだよろこぶのは早いことは知っている。しかしともかく僕は君達の信頼に背《そむ》かないだけの人間になるよ」 野島は少し涙ぐんだ。 「海に入ろうか」野島はそう云った。 「入ってもいいね」 「入ってから僕は一ねむりするのだ」 「僕は小説をかき出したよ」 「そうか。僕も何かしたくなった。勉強もしたい」 「お互に偉くなろうね」 「それはきっとなれるよ。君がいてくれるのがどんなにうれしいだろう。日本も之《これ》から面白くなる。本当に仕事らしい仕事をしなければ不名誉だ」 「昨日、村岡の話にはおどろいたね」 「随分図々しい奴だね」 「きっと、見ていたまえ、杉子さんが入らなければ芝居をやるのはやめるよ。あの仲間では村岡はまだいいのだよ。もっと恐ろしい女たらしがいるのだよ」 「しかし断られただけで満足はしないだろう。何か手をかえてくるだろう」 「いくら手をかえて来ても、武子がいるから安心だ。あれは自慢じゃないが、一こく者で、僕達を信じ切っている。それに仲田のうちでも武子に一番遠慮している」
二十五
杉子を中心にしていろいろの男があつまり出した。仲田の家は交際家であり、仲田が又交際家であり、杉子がまた誰にでもある点までは遠慮なく愛嬌《あいきよう》を見せる質《たち》であり、早川がまた社交家である。
仲田と一寸でも知っているものや、早川の友達、そう云う連中が五六人、よく仲田の家に集った。皆トランプしたり、ピンポンをしたり、一緒に海水に入ったりした。従って野島は杉子のそばによりつくのがいやになった。
早川とも少しへんになっている。其処に村岡の仲間が近づき、ある一高の生徒が近づき、北極星の周《まわ》りを北斗七星が廻るように廻っている。皆が杉子を露骨に讃美することがはやり出した。武子さえ、杉子の家にゆくのをいやがった。しかし仲田兄妹は暇を見ては大宮の家に来た。大宮に来るのか、野島にくるのか、武子にくるのかわからなかった。 ともかく、杉子も仲田のくるのも目的は武子にあるらしく野島は思った。しかし杉子の時々来てくれるのは何よりうれしかった。それを厚意に解釈出来る時はなおよろこんだ。
大宮はますます杉子に冷淡になった。大宮は方々から原稿をたのまれ出したせいもあって書斎に籠《こも》っている時が多くなった。仲田は野島の処にくるような顔していた。野島の室によく四人集って何かした。武子は大宮をよびに時々行ったが、 「書きものしているから失礼します」とことづけた。之をきくと野島はある刺戟をうけた。しかし杉子とあそぶ時は大宮のことも、脚本をかくことも忘れた。ただ杉子の帰る時がせまってくるのを恐れるだけだった。杉子はもう野島にはすっかり親しくなった。 「大宮さんはあなたとちがって勉強家ね」と云ったり、武子に、「大宮さんは兄をお嫌いじゃないの」と云ったりした。 しかしたまには大宮も出て来た。そして仲田とも仲よくあそんだ。 あるとき、仲田の家でピンポン大会をするからよかったらしに来てくれという通知を杉子がもって来た。 することは出来ないが拝見に上りますと答えた。大宮はゆきたがらなかったのだが、野島にたのまれて出かけることにした。
三人はわざと少しおくれていった。三人は皆に歓迎された。早川は大宮を先ず皆に紹介した。皆好奇心と尊敬とを見せた。村岡は、 「あなたのものをどれも感心して拝見しています」と云った。 「どうも」と大宮はいって、あとの「ありがとう」を口に出さずに感じだけで濁した。それが謙遜《けんそん》からか、傲慢《ごうまん》からかわからなかった。
次に野島が紹介されたが、それは露骨に冷淡にあしらわれた。むしろ約束でもしてあった程、二人の間に尊敬の差を見せた。
野島は丁寧にお辞儀したことをとり返したいような気がした。しかし知らん顔して居た。武子は皆に注意されていたが、一向平気に気軽にあいさつして、杉子のそばに行った。
仲田の母は丁度来ていた。そして、武子にいい処の席をすすめ、大宮にはわざわざ紹介してもらって、程度強く厚意を見せ、いい席をすすめ、野島は自家の人のように親しさを見せて、大宮のわきの席をすすめた。腰かけは十程、ふぞろいのがおかれてあった。早川と村岡の仲間は、向い側に腰かけていた。先ず五人ぬきの競技が始められた。
二十六
皆そううまくはなかった。一人一高の生徒が図ぬけていた。それは村岡を崇拝しているらしかった。その他は勝ったり、負けたりしていた。一高の生徒は四人ぬいた。五人目に誰も出る人がなかった。 「杉子さんは今日はやらないのですか」 「妾、今日拝見するの」 「それはいけませんね」と誰かが云った。 「だって妾、負けるといやですもの」 「勝ったり負けたりするので面白いのでしょう」 「負けて許りでは面白くありませんわ」 「あなたは負けませんよ。とても僕なんか敵《かな》いません」一高生徒は云った。 「おしなさいよ」武子は腹立てたように云った。皆がいろいろ饒舌るのを聞くのがいやなように。 「武子さんがそうおっしゃるなら、負けてもしますわ」 野島と大宮の他は皆|喝采《かつさい》した。
一高の生徒は過失か故意か、つづけて三つしくじった。杉子の方が景気がよかったり、うまくやったりすると、皆|厚顔《あつかま》しくほめた。 「君は相手じゃないね」 「とても杉子さんには敵わない」 杉子も二つ程しくじったが、とうとう勝った。皆拍手喝采をした。 「それなら一つ兄の威光でやってやるかな」 仲田はそう云ってかわった。皆大笑いして喝采した。全体の調子が急に高まったようだった。
仲田に味方する者は誰もなかった。仲田がしくじると皆嬉しそうに笑った。そして杉子のうまいのを大げさに誇張してほめあった。それが野島には空々しく軽薄に聞え、根性が見えすくように見えた。彼の顔は益々苦虫をつぶしたようになった。来なければよかった。毎日こんなことして皆さわいでいるのだろうと思ったらいやな気がした。彼は仲田の味方をしたい位に思った。だが黙って笑い顔さえ見せなかった。大宮はもっと自然な態度をとって居た。笑う時は笑った。不愉快な時は顔を一寸しかめたが、又すぐ愉快そうに皆と一緒に笑った。だが手もたたかなければ、何にも云わなかった。
仲田は大笑いのうちに負けてしりぞいた。 「それなら一つ仲田君の讐《かたき》をうつかな」 早川はそう云ってかわって出た。皆喝采した。杉子は実際、その日はうまくもあった。時々駄目かと思う処をうまく切りぬけた。
皆はその度に嬉しがった。ほめ上げた。杉子もうれしそうに、少し上気した顔はいつもより生生して、美しく見えた。注意が一つに集って、手が機敏に動いた。野島も何もかも忘れて讃美したい気持で見ていた。しかし時々皆がお世辞の競争をするには閉口した。
早川も負けてしりぞいた。 「今日は杉子さんには何かついている」 皆よろこんだ。
四番目に、村岡が出た。 「それなら一つ負けに出るかな」 村岡の仲間は大喝采をした。村岡はいい加減うまかった。しかし半分茶かしたようにした。そして杉子に其処を突込まれて強い球をたたきつけられるとしくじった。
皆その度によろこんだ。村岡もまけた。今度は誰もすぐは出なかった。 「今日の杉子さんにはとても敵わない。五人抜したのも同じことだ」と誰かがいった。 「本当にうまいのにおどろいた。いつも皆|飴《あめ》を喰わされていたのだね」 「野島君、どうです」早川が云った。
皆喝采した。野島は本当に閉口した。すると大宮が云った。 「野島の代理を僕がしましょう」
二十七
皆、大なる期待をもってその勝負をむかえた。拍手は一きわ盛んに起った。皆、大宮には一目おいていることが露骨に感じられた。
杉子は赤い顔をしてぼんやり立っていた。思わぬ敵に出くわして、逃げこみたいようにも見えた。何か云いたそうにしたが、言葉は外に出なかった。勇気を起すように用意した。
審判官の合図があって、大宮はまず球をうち込んだ。初めはしくじったが、それは明かに杉子を頭からやっつけるような獰猛《どうもう》なものだった。杉子は度肝《どぎも》をぬかれたようにふるえ上るように見えた。二番目はそれ程ではなかったがひねくれた球だった。杉子は辛うじてうち返したが、次の極端に意地のわるい球には手の出しようがなかった。
皆、大宮のうまいのに驚いた。しかしその容赦のないのになお驚いた。皆のピンポンは女王のお相手をしているのなら、大宮のは獅子が兎《うさぎ》を殺すにも全力をつかうと云う風だった。勝負は二度やることになった。
杉子がサーブをして処女のような人のいい球を打ちこむと、それがまた脱兎《だつと》の勢いで帰って来た。杉子はすっかり勢いにのまれてしまった。しかし杉子は自暴《やけ》はおこさなかった。一生懸命になって暴君のお相手をするように見えた。
野島は見ていて冷々した。いたいたしい気さえした。他の人にたいしては痛快に思ったが。武子はうれしそうに見ていた。勝負は無造作にかたがついた。座は少し白けた。 「大宮さんは本当にお上手ね」と杉子は少しどもりながら本当に感心したように、武子に云って、上気した顔に乱れかかっている髪をなで上げた。 「随分乱暴でしょ」 「あれが本当ね、妾《わたし》達のはママゴトね」 一高の人がかわって出た。犬の噛《か》みあいのような勝負をしたが、大宮の敵ではなかった。仲田が出たが、すぐまけた。もう出る人はなかった。大宮は野島を見て気まりわるそうに笑って引込んだ。それが野島には奥ゆかしく、うれしく思えた。 ピンポンはそれでお流れになって、それから皆、菓子を食ったり、茶をのんで話をした。野島達はいい加減で切りあげた。
夏の夕は気持がよかった。別荘の沢山ある道は気持がよく、蝉《せみ》のなき声も余りに高くはなく、夏の夕らしい感じを与えた。三人は各々何か考えているようだった。少しして武子は云った。 「妾、胸がすいたわ」 「僕はあとで大人げない気がして淋しかった。しかし野島の困っているのを見ると出ないわけにもゆかなかった。出ればああやるより他なかった」 野島に、 「君に不愉快を与えやしないかと気にした」 「そんなことはない」 「皆があまり空々しい御機嫌をとっているのだろう。僕もしなければいいが、すればああやるより仕方がなかった。杉子さんにたいして尊敬は失いたくないとは思ったが」 「杉子さん、ちっとも不愉快には思っていらっしゃらなくてよ。反ってあなたのことをほめていらっしたわ」 「ピンポンがうまくったって自慢にはならない」 「だがあんな遊びでもその人の性質の出るものね」 「そう云われると恥かしいよ。俺は自分ですぐムキになるのがわかって滑稽な、恥かしい気がした」 「僕は、君の態度を少しも恥かしがらなくっていいと思うよ。僕は本当に気持よく思い、胸がすいたよ。僕は出ろと云われた時どうしようかと思った。君が出てくれたので本当に嬉しかった」 「君にそう云われれば僕も安心する」
二十八
翌朝だった。野島は不意にさむけがし、頭痛がした。熱をはかって見たら三十八度九分あった。彼は床に入った。しかし元気は失わなかった。彼は寝床で西洋の本や画《え》を見ていた。大宮や武子は心配したが、彼の方が反って安心していた。医者にかかる必要もない、その内なおると云った。そして風邪《かぜ》薬をのんだ。午後二人は海に入りに行った。野島はうとうとねむった。その内ふと足音で目がさめる迄、三時間許りねこんだ。
大宮は一人で入って来て「どうだ」と云った。 「大へんいいようだ。もう寒気もとまったし、こうしていると頭痛もしない」と云った。 「杉子さんからお大事にとことづけがあったよ」 「そうか」野島は感謝したかった。
大宮は杉子のことはそれっきり云わなかった。そして野島の枕許《まくらもと》にある泰西美術史を見ていた。すると不意に、 「西洋にゆきたくなった」と大宮は云った。 「どうして」 「僕はレオナルドや、ミケルァンゼロや、レンブラントの本物が見たくなった。ベートオフェンの音楽もじかに知りたい。マーテルリンクや、ローマン・ロランにも逢って見たい」 野島は大宮が西洋にゆきたい気のあるのは前から知っていた。しかし大宮は三十二三になってからゆくと云っていた。 「それは僕も行って見たい。しかし今はやはり日本にいる方がいいと思う」 「君は日本にいなければ駄目だよ。杉子さんのことがあるから。僕は自由な内に行って来たい」 「君は三十二三になってからゆくと云っていたろう」 「僕はこの頃はすぐにもゆきたくなった」 「そんな話はちっとも聞かなかった」 「正直に云うと今、不意にゆきたくなったのだよ。この本を見ていたら」 「なんだ。僕はもっと根拠のある話かと思った。今君に行かれると僕は本当に淋しい」 「僕も今君とはなれるのはよくないとも思うがね。向うへゆけば、本や画を送るよ」 「本当にゆくのか」 「ああ、僕はもう決心した」 野島の腹の底の何処かではこのことをよろこんだ。彼は杉子が早川や、その他の人を尊敬していないことを感じだしていた。それと同時に彼にとっての大敵は実に親友の大宮だと云うことを感付かないわけにはゆかなかった。大宮は安心だが、杉子の方が、大宮にあまり感心してしまわれては困ると思った。しかしそう思うだけ、ことが露骨なので、とめなければわるいような気がした。又実際、今大宮にわかれるのは淋しくもあった。しかしどっちの気が強いか、ややもすると押えようとしても押えきれない気持はどっちか。それは寧《むし》ろ大宮の外国へゆくことをのぞむ心だった。そして行くのをやめたと云われるのが反って怖《おそ》ろしい気もした。外国へ行くと思っていて行かなくなるとがっかりしはしないかと云う不安さえ感じた。そしてその根性を自分でも醜く思った。之が自分の本音か、自分の友情か。野島はそう思うと自分が骨の髄迄利己主義のような気がした。しかし大宮は外国へ行けば行くで、何か獲物をしてくる男だ。大宮は何処へ行ってもまちがいのない、得るものをちゃんとうる男だ。ジョットーや、ミケルァンゼロや、レオナルドや、デュラー、レンブラントの本物を見る。又ドラクロア、ミレー、シャバンヌ、セザンヌなぞの本物を見る。それからよき芝居とよき音楽と、よき本を見る。自由な心で。彼はそう思うと其処に又一種の恐れを感じた。おおお[#「おおお」に傍点]、自分は何と云う見下げた男だ。
自分も真価の方でしっかりやらなければならない。杉子よ、自分を信じてくれ、自分にたよってくれ、この獅子に翼を与えてくれ。
野島はそんなことを考えた。
二十九
其処に武子は入って来て、 「御病気どう」と云った。 「ありがとう、もう随分よろしい」と野島は云った。 「熱をお計りになったら」 「ありがとう」彼は武子の親切をありがたく思った。病気で気がよわくなっているので、なお、之が杉子だったら自分は病気したことをどんなに感謝したろうと思ったが。
熱は八度二分位にさがっていた。 「何かお食べになりたいものなくって」 「ありがとう。別に」 「口がかわくでしょ。梨でもとりにやりましょうね」 「それがいいだろう」大宮は云った。 「ありがとう」 武子は出て行って、すぐかえって来た。
野島は杉子のことが聞きたかった。自分の病気を本気に見舞ったのか、ただ礼儀に見舞ったのか、少しは心配してくれたのか。少しも心配してくれなかったのか。しかし聞くことは出来なかった。
大宮は武子に、西洋に行こうかと思うことを話した。 「何処にいらっしゃるの」 「まあ伊太利《イタリー》から仏蘭西《フランス》だね」 「羨《うらや》ましいわ、いついらっしゃるの」 「この九月か、十月に」 「そんなに早く、本当?」 「本当だよ」 「杉子さん、随分……」武子はそう云いかけてあわててどもった。しかし之は野島には随分の打撃だった。しかし聞きちがえのような気もした。誰も、そのことを気がつかないような顔していた。 「妾も行きたいわ」 「行ったらいいだろう」 「妾、だめよ。お兄さんが行くと云うと叔母さん随分心配なさってよ」 「今の内ゆく方が反《かえ》っていいよ。もう六七年あとにゆくより」 「妾、音楽の才があれば西洋にゆきますがね。ただ見ただけではすまないわ。それにお母さんは承知なさらなくってよ。妾がわきに居るのはお嫌いでも、妾をもう何処かに嫁にやろうと思って心あたりをつけていらっしゃるのですもの。再《さ》来年位になったら、妾新婚旅行で外国にゆくかも知れないわ」 「そうすれば向うであうか」 「向うで逢えれば随分うれしいでしょうね。ルーブルにつれていって頂戴ね。それから芝居や、音楽会に」 野島は二人の会話を聞いている内に、へんにのけものになったような気がした。彼の家はやっと食うに困らない程度だった。大宮とはそう云う点では世界がちがっていた。しかしその点はまだよかった。二人はやはり自分にとって赤の他人だと云う気がした。武子だって自分をただ大宮の親友としていく分か厚意を持つだけで、大宮の方をどの位、信用したよっているかが露骨にわかった気がした。
杉子も。彼は淋しく、一人ぼっちのような気がして、早く母のもとに帰りたかった。彼は元気な時には母のそばにいるのを嫌った。ある齢《とし》がくると子供は親の手からはなれたくなる本能をもっていることをよく感じた。ところが人の家で病気をすると母が恋しかった。母なら本当に自分の事を心配してくれ、熱があると心配して手がすく度にやって来て、頭をひやしてくれたり、うるさい程容態を聞いたりしてくれる。其処に誠があらわれていて疑う余地がない。しかし母以外は今の自分にとって誰も他人だ。しかしそれは無理はない。
三十
その晩はうとうとしてふと、大勢の笑い声がしたと思って目をさますと、大宮の室にはお客が来ているらしかった。仲田の声が聞えた。又皆の笑い声が聞えた。その内に杉子の無邪気なというより、馬鹿気たと云いたい位に野島にはとれた、笑い声がまじっていた。見舞いに来たのか。そうじゃない。遊びに来たのだ。自分の病気なぞは杉子にとっては蚤《のみ》が喰った程にも思われないのだ。
彼は腹が立って来た。勝手にしろと思った。しかし淋しかった。孤独の感じが更に強くした。自分は杉子が病気だと聞くと本当に心配する。しかし杉子は自分の病気はまるで気にしないのだ。誰がなんと云っても、あの笑い声でわかる。そう思うと孤独な感じがした。
大宮も笑う、武子も笑う、仲田も笑う、杉子も笑うのはあたりまえだ。だが野島は杉子だけには笑ってもらいたくなかった。
杉子は自分のことを心配してくれて、皆にへんに思われることなんか平気になって、この室に来て、自分を看護してくれたら、自分はどんなに喜ぶだろう。極楽も之以上とは思えまい。そう思えば思う程、杉子の無頓着が、腹がたち淋しかった。
大宮が西洋にゆく。いい気味だ。自分はもう杉子のことなんか思ってやるものか。
自分は自分を偉大にする。自分は乞食《こじき》ではない。愛を嘆願はしない。自分を愛することも尊敬することも出来ないものに用はない。 しかし彼は淋しかった。そして枕|許《もと》の雑記帳に、 「杉子よ、杉子よ、俺の病気の時はどうか笑わないでくれ、たのむ。お前は親切な、人のいい女じゃないか。お前だけは笑うのはよしてくれ」 しかし杉子の笑いは、気にすれば気にする程、彼の耳にひびいた。
彼はまだ杉子の見舞いにくるのに望みをおいた。しかし来ないのがあたりまえだとも思った。そして杉子はとうとう来なかった。十一時がなるのを彼は聞いたが、仲田|兄妹《きょうだい》の帰ったのはそれから可なりあとだった。彼はおかげで自分の病気が重くなったと思った。 しかし翌日になると、すっかり熱がなく元気になっていた。起きると、少しふらつき、力はなかったが。そして午後皆が水泳にゆく時、彼も、大宮や武子にとめられたが、杉子の様子が見たいので出かけた。
杉子はもう来て居た。そして野島を見ると、微笑《ほほえ》みながら近づいて、親しく挨拶して、 「御病気はもうおよろしいの」と聞いた。 「ええ」 彼は他愛なく幸福を感じた。彼は砂の上に腰をおろした。杉子は海水服のまま、そのそばに腰をおろして、 「大宮さんが西洋にいらっしゃるって、本当」 「ええ」 「大宮さんがいらっしてはあなたお淋しいでしょう」 「ええ、大宮に行かれると、僕はもう話相手がなくなります」 「妾ではお話相手になれなくって」 「あなたなら、話相手になれます」 野島は幸福を感じた。 「妾《わたし》この頃だんだん神と云うものがあるような気がしてきましたわ」 「ありがとう」 「之からわからないことがあったら、色々教えて頂戴ね」 「僕に出来ることなら」 「あなたは大宮さんの先生でしょ」 「そんなことはありません」 「昨日大宮さんと武子さんはあなたのことを随分ほめていらっしてよ」 「僕はほめられる資格はありません」 彼は本当にそう思った。そして大宮たちに謝罪したい気がした。
三十一
彼は本当に幸福を感じた。自分が値しない幸福が彼に微笑みを見せて来た気がした。彼はすべての人を愛と感謝をもって見たく思った。自然はどうしてこう美しいのだろう。空、海、日光、水、砂、松、美しすぎる。そしてかもめ[#「かもめ」に傍点]の飛び方の如何《いか》にも楽しそうなことよ。そして人間にはどうしてこんなに深いよろこびが与えられているのだろう。まぶしいような。彼はそう思った。自分のわきに杉子がいる。そして自分を尊敬し、自分にたよろうとしている。自分に住む資格がないような幸福が自分をとりまいて、悲しみと淋しさに向って彼が自《おの》ずと用意していた甲冑《かつちゆう》がいつのまにか溶けている。しかし彼はまだ何となく運命を信じ切れず、不安を何処かに感じている。しかしうれしさがややもすると抑《おさ》えきれずあふれてくる。
彼は皆に感謝したかった。殊《こと》に神に。 「私は謹《つつし》みます。出来るだけのことをします。どうかたった一つのことは叶《かな》えて下さい。お願いですから。杉子を私のものにして下さい。杉子を私から奪わないで下さい。私はあなたの為に出来るだけ働きます。皆の幸福の為に働きます。あなたの意志に出来るだけ従います。ですから、私を憐《あわ》れんでこのあなたから与えられた限りない幸福を奪わないで下さい」 彼は杉子にいつまでも自分のわきに居てもらいたかった。しかし杉子が立ってゆく時が怖《こわ》すぎるので、早くいい時に立って行ってほしくも思った。あまり幸福すぎる時、彼は一種の恐れを持つ。人間にはまだあまりに幸福になりきれるだけの用意が出来ていないように彼には思えた。生れたものは死に、会うものは又別れる。そう云う思想は何時となく彼の心にも忍び込んでいる。 「幸福であれ」と彼は心に祈った。沈黙が一寸《ちよつと》つづいた。 「あなたは殆んど病気をなさいませんね」 「ええ、妾は随分丈夫よ。武子さんに笑われるのよ。あなたは楽天家だから病気をしないのですって。ですけど妾だって心配はありますわ」 「どんな」 「だって人間は誰だって死ぬものでしょ。運と云うものはわからないものでしょ。こうしている内に母が死なないとも限りませんわ」 「だけど大丈夫でしょう」 「大丈夫だと思わなければ、妾、とんで帰りますわ」 「あんまり心配しない方がいいのですよ。夜半《よわ》に嵐の吹かぬものかは、と云う歌がありますね。しかし私逹は六千べんか、七千べん夜を無事に通して来ていますからね。その方が反《かえ》って不思議な気がしますが。あんまり心配すると損しますよ」 「妾だって、そう本気に心配してはいませんわ」 「あなたは出来るだけ身体を大事になさらなければいけませんよ」 「ありがとう。あなたもね」 「ありがとう。僕は本当に身体を大事にします」 「大宮さんがおっしゃってよ。あなたは意志の強い方で、身体のよわいのを意志で十分とり戻しているって。しかし御無理なさらない方がおよろしいわ。大宮さんは又あなたのことを、どうしてあんないい奴が日本に生れたのだろうとおっしゃってよ。本当に大宮さんはいい方ね」 「ええ、ええ。あんないい人間はありません。僕は大宮を限りなく尊敬しています。あんなに友情にとんだ、人の心がよくわかり、思いやりのある男は他にありません」 「本当ね。妾、あんなに友情の厚い方を見たのは初めてよ」
三十二