# 羹

## Part 4

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「橘さんはいらつしやいますか。電話でございます。」 と、寢室のドーアを開けて、呼び覺ました小使の聲に、宗一はふと眼を覺した。 「何、電話？」 かう云つて、夜具を捲くつて立たうとしたが、昨夜の川甚の酒が未だ頭に殘つて居て、彼はふら〳〵と昏倒しさうな懈怠《けだる》さを覺えた。二日醉ひの結果、思はず寢過ごしたものと見えて、彼の周圍の蒲團は殘らずきれいに疊まれてあつた。枕許の時計は、もう十時半である。顏も洗はず、寢間着の上へ袴を着けて、彼は惶てて電話口へ飛んで行つた。 「もし、もし、あなた宗ちやん………」 なまめいた女の言葉が、受話器から耳の奧へ傳はつた時、半分寢惚けて居た彼の意識は一瞬間にハツキリと冴え返つた。 「あなた宗ちやん、………あたし誰だか判つて？」 「うむ、判つた、判つた。」 「あのね、あたし今本郷三丁目の自働電話に居るのよ。今朝早く内證で小田原から出て來たの。………宗ちやん此の間の手紙御覽になつて、………」 「あゝ」宗一はなつかしい聲音をしみ〴〵と味はふやうに耳を傾けた。此の聲、此の人に自分は幾日憧れたであらう。………普通の年頃の女よりは稍《やゝ》落ち着いて、テキパキと明瞭に發音する物の云ひ振りが、電話では殊に著しく感ぜられ、美代子の姿が髣髴《はうふつ》と浮んで來るやうであつた。 「それでね、今日中に是非歸らなくツちやならないのだけれど、ちよいと［＃「ちよいと」に傍点］でいゝから、あたし宗ちやんにお目に懸りたいの。どうにか時間の都合がつかなくツて？」 「そんなら直《ぢき》に行くから、其處邊《そこいら》に待つて居てくれないか。」 「だつて學校があるんでせう。」 「ナニ休んだつて構はないんだ。」―――かう云はうとして、彼は電話の傍に腰かけて居る寮務室の委員の手前を憚り、又一つには男としての鷹揚な態度を失ひ過ぎるやうにも思つて、 「いや、別に差し支へない。」 と、答へた。 「さう、濟まないわね。それぢや四つ角で待つて居てよ。」 「うむ、左樣なら。」 電話を切ると、彼は楊枝《やうじ》を咬へて、洗面所へ駈けて行つた。 やつぱり美代子は、宗一を戀して居るのであつた。齒を硏きながら、口を嗽《すゝ》ぎながら、彼は天から授かつた幸福な今日の一日を如何にして送らうかと頭を惱ました。此の機會を利用して、結婚問題の解決方法を講じなければならないと云ふ、實際的な考へよりも、先づ第一に二人で手を携へて、喜び合ひ勇み合ふ光景の想像に心を躍らせた。 いつものやうに水風呂に漬かつて寢室へ戾つて來ると、行李の底から、取つて置きの薩摩がすりの綿入に羽織を引き出して、其れを纏つた。袴も先日濱町から貰つて來たばかりの、襞《ひだ》の整つた小倉の大名縞の餘所行きの方に穿き更へた。戶外《おもて》へ出ると、昨日と同じ上天氣で、心持風が立つて居た。もう二三日の後に近づいて居る冬の時候を想はせるやうな、肌寒い空氣がうらゝかな日射《ひざし》の裏に潜んで居た。うれしいやうな、悲しいやうな氣を起させる日であつた。

萬事を當人に打つかつてからの成行に任せて、と、何等の方針も考へずに、彼は本郷通を眞直ぐにてく〳〵步いた。長らく照りが續いて、鐵板の如く乾いて、堅くなつた往來の地面には、小石の粒が鋲《びやう》を打ち込んだやうに埋まつて、無數に頭を並べて居る。そんな物を宗一は無心に眺めた。殆ど生活の目標を失つて居た昨日の悲觀狀態から、急に希望に充ちた光明世界へ浮び上つた喜ばしさに、半分は精神の爽快を覺えながら、二日醉ひの胸の塞《つか》へと、蟀谷の痛みが、全く拭ひ取られないのを、彼は忌まはしい事に思つた。尤も其れは僅かの間で、やがて美代子の姿を見たならば、忘れられるに違ひないであらう。

勸工場《くわんこうば》の前まで來ると、一町ばかり向うから、眼まぐるしい通行人の間を避けて、女はちら〳〵と笑顏を覗かせながら、近寄つて來る。 「どうも暫く。」 と、丁寧にお辭儀をして、宗一の前に立つた時、いろいろと苦勞の種を訴へて寄越した程、美代子は打ち萎れても居なかつた。却つて頰のあたりは肉が附いて、赤みがゝつた、元氣の好きさうな血色に見えた。あらい大島の龜甲絣の對《つゐ》の着物に、金春織《こんぱるおり》の白茶地に花丸模樣の丸帶を締め、銀の平打《ひらうち》を挿した高島田の風情は、もう結婚期に迫つて居る處女の資格として、男に對する相應な落着きと分別とを備へて來たやうに感ぜられた。宗一は自分より年嵩《としかさ》になつて了つたやうな、物馴れた女の素振と、きらびやかな服裝に氣壓《けお》されて、輕い嫉妬を覺えながら、 「好く來られたね。―――ま、其處いらまで一緖に行かう。」 と、云つた。 「今日はあたしやつと［＃「やつと」に傍点］の事で出て來たの、手紙に書いた通り、此の頃は家《うち》がやかましくつて仕樣がないの。それに此の間の宗ちやんの手紙ね、あれがおツ母さんに知れつちまつて、お前は宗ちやんと何か約束でもしたんだらう、なんて云はれて、散々叱られたもんだから、あたしもうやけ［＃「やけ」に傍点］になつ了《ちま》つたの。一昨日《をとゝひ》宗ちやんに返辭を上げた時なんか、何が何だか頭が滅茶苦茶で自分なんぞどうなつてもいゝと思つて居たのよ。」 美代子は、こんな事をすら〳〵と流暢に喋舌つた。 「やけ［＃「やけ」に傍点］になつたから、誰と結婚しようが構はないと云ふのかい。」 かう云ふ意味の反問をしようとしたが、適當な、圓滑な言ひ廻しが出來ないので、宗一は遠慮して了つた。いくらひいき［＃「ひいき」に傍点］目《め》に考へても、自分に遠慮と云ふ氣分を作らせるだけ、女は人形町時代から見ると、多少態度が異なつてゐた。

會はないうちは、手紙の文句から推量して女の身の上を憐れんで居たのに、今は自分が憐れまれるやうな境遇に轉じた。女はどん〳〵思ひのまゝを喋舌つて行かうとするのに、男にはどうしてもそれが出來ない。何とかして今日一日の間に、此の不自然な關係を打ち破つて、昔の通りの親しみ易い間柄に復らなければならなかつた。 「かうやつて、步きながら話をして居ても仕樣がない。………」 湯島五丁目の停留場のところで、宗一はふと立ち止つて、 「何時頃に歸ればいゝの。」 と、優しく訊いた。 「八時ごろまでの積りで出て來たんだけれど、日一杯に歸ればいゝわ。」 かう云つて、美代子は今日の外出の口實を話した。幼い折の乳母《ばあや》が東京から尋ねて來て一泊したのを幸ひに、新橋まで送りがてら、ちよい［＃「ちよい」に傍点］と出て來たのだと云つた。其れも父の不在を附け込んで、半ばは喧嘩腰で母に泣き着き、 「お歸りには私がステンシヨ迄お見送り申しますから、大丈夫でございますよ。」 と、乳母《ばあや》に助言して貰つて、漸く許されたのださうである。 「お父さんには内證だから、濱町へ寄るんぢやありませんよ。」 と、出しなに母からダメを押された事まで附け加へて語つた。 「そんなら、少しはゆつくり出來るんだね。」 宗一は一二臺の電車をやり過ごしながら、 「………上野の方へでも行つて見ないか。」 「えゝ、けど宗ちやんのお友逹に見付かりはしなくツて？」 「大丈夫だよ。家の者にさへ知れなければいゝぢやないか。」 「だつて、學校の方に見付かツちや嫌だわ。―――何かあたしの事を、お友逹にでもお話しなすつたの。」 美代子は臆病な眼つきをして、聞き咎めるやうに云つた。 「大丈夫だよ。」 宗一は同じ文句を繰返した。戀人に對しては、絕對に正直を守つて、微塵の祕密をも藏しまいとした心の誓ひが、もう破れて了つた。 「さう、そんならいゝけれど、時々手紙なんか上げたから、若しか知れやしないかと思つて、隨分心配しちやつたわ。ほんとに默つて居て頂戴ね。みだらな眞似をするやうに思はれると、嫌だから。」 かう云つた最後の一句は、恥かしさうな、消え入るやうに微かな聲であつた。

何處かへ行つて休むにしても、平生友逹と一緖に出かける「藪そば［＃「そば」に傍点］」や牛肉屋では、女が可哀さうである。立派な令孃、立派な學生と云ふ體面を保つに適當な、品のいゝ料理屋の靜かな座敷を擇びたかつた。家柄の正しい新婚の夫婦か、兄弟と間違へられても、素性の惡い野合《やがふ》の男女のやうに見られたくない。………彼の蟇口《がまぐち》の中には、寄宿舎の賄《まかなひ》へ支拂ふ可き十一月分の食料と、それから半月ばかりの小遣ひと、合せて十二三圓の金が、此の間母親から受け取つたまゝ手着かずに入れてあつた。兩親に隱して一時其れを融通しても、彼は女に肩身の狹い思ひをさせたくなかつた。 「此れをみんな遣つて了つても、何とかしたら又家から貰へるであらう。」―――こんな目算が、彼の胸の奧に潜んで居た。苟くも金錢問題に關して、今迄毛程の疚《やま》しい行爲すら許さなかつた自分の良心が、女の爲めに譯なく鈍つて了ふのを、宗一は我ながら驚かれたのである。 「もう直きお午《ひる》だがお腹《なか》が減つて居やしないか。」 「いゝえ、ちつとも。―――もう少し步いたつて構はないわ。」 「しかし、どうせ何處かで飯を喰べなきやならないんだから………。」 かう云ひながらも、宗一は美代子に釣り込まれて、又そろ〳〵と步き出した。

平生父が宴會の歸りに、土產に持つて來る料理の折の燒印を想ひ浮べて、百尺《ひやくせき》、岡田、福井などゝ、彼は順々に考へて見た。藝者を呼ぶではなし、酒を飮むではなし、懷の金だけあれば十分であらう。土曜日曜ならば格別、木曜日の而も時間が晝間の事ゆゑ、下町の茶屋へ入つた所で、顏が會ふやうな恐れもあるまい。どうせ行くなら、父が昔放蕩を盡した柳橋の土地、なつかしい江戶の空氣の殘つて居る柳橋の、大川添ひの料理屋の離れ座敷が慕はしかつた。 「兎も角も兩國まで。」と云つて、松住町から電車へ乘らうとする時、 「宗ちやん、あなたは其方からお乘んなさいな。」 と、美代子はわざ〳〵彼と別々に、運轉手の臺の方から中へ入つて、五六人を隔てた席へ、澄まし込んで腰をかけたきり、成る可く言葉を交さないやうに側方《そつぱう》を眺めて、たま〳〵男の方から眼で笑つても、心付かない風を裝つた。其の樣子が、 「人ごみの中で、少しはあなたもお嗜みなさい。」 と、男を叱りつけるやうにしか取れなかつた。 「罪人ではあるまいし、何でそんなにビク〳〵する必要があるんだらう。」 と、宗一は思つた。

淺草橋で下りた二人は、暫く途方に暮れて彳んだまゝ、顏を見合はせた。 「何だか此方へ來ると濱町へ知れるやうな氣がしてならない。」 美代子は往來を見るのが恐ろしさに下を向いた。 「いつそ柳光亭へ行つて見ないか。なまじな所よりも、却つて居心地がいゝだらう。」 「さうね、あたし、何だかきまりが惡い。」 きまりの惡いのは宗一も同じであつたが、强《しひ》て女を勵まして、下《しも》平右衞門町の柳の植わつた川岸《かし》通《どほ》りを、柳橋の方へ步いた。

天氣がいつの間にか曇り始めて、淡い、煙のやうな雲が、靑空に掩ひかゝつて居た。其れにも拘はらず、大川の水の色は飽くまでも濃く、川蒸汽の白波が、殊更鮮かに眼立つて居る。婀娜《あだ》つぽい姿をした湯歸りの藝者が、二三人擦れ違ひざま、美代子の顏をふり返つて行つた。

柳光亭の門口には、きれいな俥が四五臺並んで居た。今しがた水を打つたばかりの、漆塗のやうに輝く玄關のたゝきを見ると、宗一は再び氣後《きおく》れがして、「書生の癖に生意氣な。」と女中に蔑まれさうに弱々しい心になつた。二人はひろ〴〵とした、玄關の前に立つて、案内を乞うたが、誰も相手にしてくれないのか、容易に奧から人の出て來るけはひ［＃「けはひ」に傍点］はなかつた。いつそ此處から引き返して了はうかと思つた位、宗一は極りの惡い、落ち着きのない氣持に襲はれた。 「お客樣ですよ。誰か居ないのかい。」 暫くしてから、キビ〳〵した女の聲が聞えると、女中が一人ぱた〳〵と駈けて來て、二人の前へ中腰に蹲踞《しやが》んで、垂直に垂れた指の先を、ちよいと疊へ擦り着けながら、 「お二人さんでございますか。」 と、不愛想な顏をした。

玄關を上つて、左へ左へといくつも折れ曲つた細い廊下の盡きたところで、女中が襖を開くと、其處は誂へ向きの大川添ひの小座敷であつた。靑い靑い、たつぷり［＃「たつぷり」に傍点］とした水面が、窓より高く漫々と膨れ上つて居るのを見ると、二人共窮屈な胸のこだはり［＃「こだはり」に傍点］がサツパリして、少し興奮したやうな嬉しさを覺えた。 「お風呂が沸いて居りますが、お召しになつては如何でございます。」 女中が茶を出しながら訊いた。 「いや、僕はいゝ。」 「あたしも澤山よ。」 美代子は半分宗一の方を向いて答へた。 「左樣でございますか、丁度空いて居りますから、お二人さんでお召しになりましたら………。」 かう云つて、女中は其の時始めて笑つた。

宗一は、いつか知らず鷹揚な、大膽な心になつて、水に近い柱に凭れながら、片手を窓の閾に伸ばして、どつしり［＃「どつしり」に傍点］とあぐらを搔いた。もう斯うなれば、女の爲めに不正の金を遣はうと、兩親を欺かうと、其れに換へ難い歡樂の蜜をすゝる事を辭さなかつた。こんな時に女が駆落をしようと云ひ出せば、彼は決して否《いな》みはしまい。地位も名譽も捨てゝ、どんな野の末へでも、逃げて行くであらう。 「お誂《あつら》へ」を極めて、女中が退つて了ふと、美代子は手持無沙汰のやうに行儀よく座蒲團の上へ畏まつたまま、默つて居た。お互に面と向ふのが工合が惡く、川の景色を眺めるより外仕樣がなかつた。宗一は、何か話をしなければならない場合に迫りながら、まだ本問題に入るのは早いと考へた。さうして、 「一體二人は何に見えるだらうな。」 と、さも打ち解けた、空々しい聲で云つた。 「さうね、………きつとをかしな者に見られて居るんだわ。お二人さんでお風呂をお召しになりましたらなんて、好くあんな事が云へるもんだわね。」 「それでも未だ此處いらは好い方だよ。僕の友逹なんか女と一緖に森ケ崎の鑛泉へ行つたら、賴みもしないのに眞ツ晝間夜具蒲團を出されて閉口したさうだ。」 「其の女と云ふのは、女學生なの。」 「うん。」 「宗ちやんのお友逹には、そんな方が澤山あつて。」 「澤山と云ふ程でもないさ。やつぱり僕等と同じやうな境遇になれば、仕方がないぢやないか。別段惡い事をするんぢやあるまいし………」 宗一は自分と美代子とを慰めるやうに云つた。

剝身《むきみ》の辛子《からし》あへ［＃「あへ」に傍点］に、猪口《ちよこ》と割箸を載せた平たい膳が二人の前へ据ゑられた。女中が盃洗《はいせん》だのお銚子だのを運び込んで來るのを見ると、宗一は何となく、酒の爲めに此の場合の神聖を汚されるやうに感じた。徹頭徹尾、今日の對談は眞面目で通したい。少しも不純な無禮な態度を以て女を遇すまい。彼はさう云ふ考へから、絕對に醉を買はない覺悟であつた。それでも、 「まああなた、お一ついかゞでございます。」 と、女中に進められて、斷りを云ふのが面倒臭《めんだうくさ》さに、 「あんまり飮めないんだから、此れぎりにして、後はサイダでも貰はうかな。」 と、彼は最初の一杯を淸く受けた。 「お天氣が大分怪しくなつて參りましたね。今日はお酉樣《とりさま》ですのに、降らなければ宜しうございますが。」 女中はお酌をすると暫く其處へ坐つて、美代子の服裝を流眄《ながしめ》に視ながら話しかけた。 「あゝ今日はお酉樣か、もう直き正月だな。」 「ほんとに嫌でございますねえ、年ばかりどん〳〵［＃「どん〳〵」に傍点］たつて了ひまして………。」 未だ十二時頃であるのに、戶外は夕暮のやうに暗くなつて、向う河岸の百本杭のあたりには蒼白い靄が籠つて居た。兩國橋の電車の響きが水の上を傳はつて、始終轟々と呟くやうに聞える。空には、低い鼠地の雲が一面に蔓《はびこ》つて、今にもぽつり、ぽつりと來さうである。時々冷い風がこつそり袂の裏へ吹き込んで、不意に肌をぞウツとさせる。

平生寄宿舎のまづい賄を喰ひ馴れた宗一には、久し振でかう云ふ家の料理を味はふのが一つの喜びであつた。彼は寒さと興奮とに顫へた手先で、お椀の蓋を取つて、松茸の薰《かをり》の漂ふ暖かい露を吸ひながら、柔かい蝦《えび》の糝薯《さんしよ》と、輕い鱚《きす》の肉を舌へ含んだ。それから、口取の蒲鉾に添へられた針魚《さより》の雲丹燒《うにやき》だの鴫《しぎ》のたゝき［＃「たゝき」に傍点］だのを、珍しさうに突ツついて、 「美代ちやん、君は白いお刺身が好きだツたぢやないか。」 と、刺身の皿へ眼をつけて云つた。 「えゝ、あたし後で、御飯の時に頂くわ。」 「さうだね、もうそろ〳〵御飯にして貰はうか。」 かう云つて、宗一は立つて行かうとする女中の後から、「直《すぐ》でなくても好いんだから、呼んだら持つて來てくれ給へ。」 と附け加へた。

再び、さし向ひになつた二人の座敷に沈默が來た。お互に此れから語り出すべき事件を持つた儘、其れを控へて唇を嚙んだ。 「美代ちやん。………此の間の手紙ね。」 と、男の方から口を切つたのは、稍暫くした後である。 「えゝ。」 と云つて、美代子は體が凝結したやうに堅くなつた。兩手で握り緊めた膝の上のハンケチに眼を落しつゝ、肩を崩して、一遍忍びやかにスウツと溜息をしたのが餘所目にも著《いちじる》しかつた。男は「可愛い指の恰好だな」と、苺《いちご》の汁に滲みたやうな女の紅い手先に見惚れて、指輪の彫の模樣を判じるともなく眺めながら、 「あれで見ると、君はお父さんの言ひ附け通りになる積りかい。決して僕は、どうのかうのと云ふ譯ぢやないんだから、正直な考へを、遠慮なく云つてくれないか。僕は唯、君の本當の考へさへ解れば、其れで滿足するんだから。」 「あたし、あの手紙の事で、是非宗ちやんにお目に懸りたいと思つて、今日やつて來たの。實は一昨日家であんまりやかましい事を云はれたもんだから、あたしやけになつちまつて、あんな事を書いたんだけれど、後で宗ちやんが怒つていらツしやるだらうと思つて、氣になつて氣になつて、仕樣がなかつたのよ。だから、是非お目に懸つて、譯を話して詫《あやま》らなければならないと思つて居たの。ほんとに濟まなかつたわね。あたし、つく〴〵自分を馬鹿だと思つてよ。」 いざ喋舌り出すと、女は又雄辯であつた。宗一は敏捷な言ひ廻しに眩惑されないやうに、要所々々に心を留めて聞き終つた後、 「そんな事は、怒るも怒らないもないよ。………口に出すのは初めてだが、僕は美代ちやんを戀して居る。………」 かう云つて、自分の唇が洩らした大膽な言葉に、自ら戰《をのゝ》きながら語り續けた。……… 「そりや美代ちやんだつて、氣が付いて居るだらう。………僕は出來る事なら、君と結婚をしたいと思ふ。君の家でも、僕の家でも承知してくれなかつたら、已むを得ないけれど、若し兩方の親が許したら………僕の所へ來るなり、外へ嫁に行くなり、美代ちやんに撰擇の自由が與へられたら、君は僕と結婚をしてくれまいか。」 「宗ちやん、そりや本當のこと？」 美代子は、低い、熱心の籠つた聲で、力强く念を押した。 「うむ。………」 「あたしのやうな者を、そんなに思つて下さるのは勿體ないけれど、宗ちやんなんか、いくらでも立派なお嫁さんを貰へるぢやありませんか。………宗ちやんはまだ、家の事情を詳しく御存知ないんでせう。あたしはほんとに不仕合せな人間なのよ。此の間から、いつそ死んで了はうかと思つた事が度々あるの。先逹《せんだつて》手紙に書いて上げた結婚の話なんぞ、あたしは嫌で嫌で仕樣がないんだけれど、此の頃は每日のやうに責められるの。」 ぽたり、と、女の手の甲へ淚が落ちたかと思ふと、續いて二三滴、ぱらぱらと膝へこぼれた。 「君が一緖になつてくれる氣さへあれば、そんな嫌な所へ行かないでも、どうにかなる話ぢやないか。美代ちやんさへ承知なら、僕は明日にも親父に賴んで、小田原の方へ至急に相談を持ち込んで見よう。是非とも美代ちやんを、私の方へ下さいツて、折入つて懇望したら、君のお父さんだつて、まさかいかんとは云ふまいと思ふ。僕は今まで親父に向つて、此れツぱかりも無理を云つた事はないんだから、一生に一度の願ひだと云つたら、親父だつて、屹度其のくらゐの事は聞いてくれるに違ひないんだ。………」 「宗ちやんの氣持はよく解つて居ますけれど、母はあたしに養子を貰つて、一緖に分家をする積りなんだから、とてもそんな譯には行かないわ。若しも宗ちやんが一人息子でなければ、そりや何とでも考へ樣があるけれど、………だから、後生だから、あたしの事はあきらめて下さい。其の代り、親が何と云つても、あたしは一生夫を持たずに通して了ふわ。それで宗ちやんが、可哀さうだと思つて下されば、滿足するわ。」 「そんな事が出來るもんぢやない。」 「いゝえ出來ますとも、自分の決心さへ堅ければ出來ない筈はないわ。若しか出來なかつたら、死んで了ふわ。」 「けれども、其れではおツ母さんに濟まないぢやないか。おツ母さんは君一人を老先の賴りにして居ればこそ、普通ならば嫁にやるところを、わざわざ養子を貰つて分家させて、一生君に懸らうと云ふ考へなんだらう。美代ちやんの一身に間違ひがあれば、おツ母さんがどの位失望するか、僕よりも君の方がよく解つて居なければならない。え、さうぢやないか。かう云ふと失禮だか、君とおツ母さんが居なかつたら、小田原の家は闇になるんだぜ。」 宗一はかう云つて、相手の返辭を待つたが、美代子は突伏して聞いて居るばかりであつた。 「………若し獨身で通すとか、死ぬとか云ふのが僕に對する義理だてなら、止めてくれ給へ。僕は美代ちやんやおツ母さんの不仕合せを見せられて、決して好い心持はしないから。其れよりか立派な人を婿に貰つて、夫婦でおツ母さんに孝行を盡してくれた方が、僕に取つてはどんなに嬉しいか知れやしない。―――君はさう考へないかい。美代ちやんが其れを納得してくれゝば、僕だつて立派に思ひ切る。」 最後の言葉を吐くと同時に、男も危く歔欷《しやく》り上げさうになつて、濕んだ聲が鼻につまつた。 「宗ちやん、そんならあたし、あなたにお願ひがあるわ。」 美代子は何か決心したらしく、すつかり泣き止んで、ハンケチで面《おもて》を拭いて、紅く脹れた眼を男の顏に注いだ。 「………いろ〳〵勝手な事ばかり云つて、濟みませんけれど、そんなら兎に角、今宗ちやんの仰しやつた通りにして下さる譯には行かなくつて。」 「僕の云つた通りツて、どうするのさ。」 「駄目かも知れませんが、宗ちやんのお父さんから、小田原の方へ相談をして見て下さるやうに。………母は是非とも分家をさせたいのでせうけれど、宗ちやんの所へ行くならば、もと〳〵親類の間柄だし、いつでも會ひたい時には會へるんだから、おツ母さんだつて他人に子供を取られるのとは氣持が違ふだらうと思ふわ。濱町の叔父さんさへ御承知なら、どうにでもおツ母さんの安心が出來るやうにして上げられるわ。小田原に居るのが嫌なら、東京へ引き取つてもいゝわ。一體あたしに養子を取らうと云ふのは、おツ母さんだけの考へで、お父さんは、あたしが嫁に行かうと、婿を貰はうと、おツ母さん次第にする積りなのよ。だから、おツ母さんさへ納得すれば大丈夫なの。」 「そりや成る程、おツ母さんとしたら、それでいゝかも知れないが、いゝからと云つて、世の中の事はさう易々と實行出來るもんぢやないよ。兎に角小田原に立派な家があるのを打ツちやり［＃「ちやり」に傍点］放《ぱな》しにして、たとへ親類であるにもせよ、娘の嫁入先へ附いて行つて、お母《ふくろ》が厄介になれるかなれないか、考へて御覽。よしんばおツ母さんが、さうしたいと云つてもお父さんが承知しまい。君のお父さんは道樂もするし、お妾もあるし、おツ母さんなんぞ、どうなつても構はないと、思つておいでかも解らないけれども、世間と云ふものがあるから、正妻を娘の嫁入先へ追ひ出すやうな不都合な事は出來ないだらう。さうなれば、僕の親父がいくら同情してくれたつて、人の女房を預つて返さない譯には行かないぢやないか。」 「だけど其れは、お父さんも承知するやうな方法がいくらでもあるの。宗ちやんの仰しやつた通り、お父さんはおツ母さんに對して、ちつとも愛情なんかありやしないのよ。そりやほんとに非道いのよ。世間體さへ繕へれば、結句出て行つてくれた方がいゝくらゐなの。だから濱町の叔父さんに事情を話して、當分あなたとあたしだけに別家させて頂いて、其處へ暫く遊びに來て居る形で、おツ母さんを呼んでもよし、末始終はおツ母さんだけ分家して、あたしの子供を養子に直して、濱町の近所へ家を持つても濟むと思ふわ。」 美代子の云ふことは、女としては感心な程、なか〳〵筋道が立つて、理路の整つたものであつた。女は疾《とう》から斯かる目算を胸に疊んで居て、男の了見を確かめてから、始めて其れを打ち明けたのか。或はせツぱ［＃「せツぱ」に傍点］つまつて窮策を案出したのか。いづれにしても宗一は、美代子がこんな綿密な實行方法まで考へて居ようとは思はなかつた。其れ程に自分を慕つて居たのなら、何故早くハツキリ知らせてくれなかつたのだらうと、彼は嬉しさを通り越して、今更女のエゴイスチツクなのが恨めしかつた。 「こんな我儘を云へた義理ぢやありませんけれど、宗ちやんと叔父さんだから、無理と知りつゝお願ひするのよ。あつかましい女だと云はれるのは、覺悟して居るわ。」 「さう云ふ譯なら、出來ないまでも、一應親父に話をして見よう。萬事を打ち明けて相談したら、何かまたいゝ分別があるかも知れない。………其れにしたところで、小田原へ掛け合ひに行くには、四五日間があるだらうし、いざ談判となつてから決定する迄には、隨分暇が懸るだらうと思ふ。其の間君はどんなに、養子の方を迫られても、斷り通して居るだらうね。」 「えゝ、そりや解つて居るわ。宗ちやんの話が極るまで、あたし剛情を張り通すわ。………だけど、今日の事だけは、濱町の叔父さんに默つて居て頂戴な。あたしが生意氣に入れ智慧をした樣で惡いから。」 「しかし、或る程度まで打ち明けなければ話が解らないよ、好い事も惡い事も殘らず眞相をさらけ出して、親を出し拔いた不都合な點は十分｜詫《あやま》つた上で、賴まなければ、此方の誠意が屆くまいと思ふ。勿論、美代ちやんと結婚したいのは僕自身の希望なんだから、何も君が入れ智慧をしたやうに話す筈はない。」 「ほんとに濟みません。今日はあたし、嬉しくつて胸が一杯だわ。」 美代子は氣も心もせいせい［＃「せいせい」に傍点］したやうな調子で云つたが、眼には又淚が濕んで來て、 「どうも、有難うございました。」と叮嚀にお辭儀をしながら、そつとハンケチを顏にあてた。

二人は大そう長い間會話を續けて居たやうに感ぜられた。呼鈴《よびりん》を押して飯を運ばせたのは、さし向ひになつてから二時間ばかり後であつた。 「もうお話がお濟みでございますか。何卒御ゆつくりなすつていらツしやいまし。」 かう云つて入つて來ると、女中は立ち上つて電燈を拈《ひね》つた。座敷の中にはほの暗い夕闇の光と、赤い灯《ともしび》の光とが溶け合つて、庭續きの隣座敷に粹《いき》な音締《ねじめ》が洩れ始め、向う河岸の本所の方から、黃昏の色が次第々々に川面へ這ひかゝつた。 「美代ちやん、あの三味線は何だか分るかい。」 宗一は飯を喰ひながら、女中を前に置いてこんな事を喋舌り出した。 「えゝ、淸元《きよもと》ぢやなくつて、保名《やすな》でせう。」 「それぢや、美代ちやんのお得意だね。―――君、此の先生は淸元の名人なんだよ。」 と、宗一は女中に目くばせをした。 「おや、左樣でございますか、是非伺ひたいもんでございますね。三味線を持つて參りませうか。」 「あら、噓よ、噓よ、淸元なんか出來やしないわ。」 時計を見るとまだ漸く四時頃である。何にしても、二人は一旦此處を引き揚げて、夜を幸ひに街を步きながら、殘る時間を樂しみたかつた。七圓程の勘定書を取り寄せて、 「其れでは、此れで………」 と、宗一は蟇口から、四つに疊んだ皺くちや［＃「くちや」に傍点］の十圓札を出した。 「宗ちやん、あたし持つて居てよ。」 美代子も慌てゝ紙入を抽き拔いたが、 「まあ僕が拂つて置く。」 かう云つて、宗一は美代子の手先を押し除けながら、其の手に握つて居る二三枚の五圓札にちらりと眼を着けて、 「へーえ、美代ちやん大分お金持ちだね。」 と云つた。 「えゝ、さうよ。いくらでも奢つて上げてよ。」 「いづれ今日の返禮に、うんと御馳走して貰ふさ。」 結局男が全部を負擔して、釣りの中から一圓の祝儀を女中に取らせて、二人はそこ〳〵に立ち上つた。長い廊下をばたばた［＃「ばたばた」に傍点］と玄關まで送つて出て、 「御機嫌宜しう。―――どうぞお近いうちに是非、ほんとにお待ち申しますよ。きつとでございますよ。」 と、女中は二人の身の上に興味を感じたのか、一と通りのお世辭とは思はれない程、前よりは打つて變つて、深切な、愛嬌のある態度で云つた。

晩秋の短い日脚がすつかり暮れて、代地河岸の兩側に並ぶきやしや［＃「きやしや」に傍点］な家作りの障子の蔭に、黃橙色《だい〳〵いろ》の暖かい灯がふつくら［＃「ふつくら」に傍点］と包まれて居た。柳橋を渡つた、賑やかな廣小路の往來から藥硏堀《やげんぼり》の方へ、二人は人形町時代のやうに手を取り合つて睦ましく步いた。酉の市の歸りと見えて、夜目にも著《しる》い大きな熊手や羽子板を翳した俥が、何臺も二人の側を掠めて通つた。 「ほんとに旨く行けばいゝわね。もう今度はあたしのおツ母さんより、濱町の叔父さんの方が心配だわ。叔父さんが承知して下さるといゝけれどなあ。」 「まあ僕に任して置くさ。うまくやつて見せるから。」 「何卒お賴み申します。ほんとに此れさへ旨く行けば、あたし宗ちやんに手を合せて拜むわ。」 「だけど、いよ〳〵話が極つたとしたところで、一緖になる迄には、隨分手間が取れるだらうな。學生時代に結婚するか、大學を卒業するまで許嫁《いひなづけ》で居るか、其處いらは親父の考へ次第だからね。」 「極つてさへ居れば何年でも待つわ。大學を卒業するつたつて、二年、三年………と、もう後五年だわね。五年ぐらゐ、直き立つて了ふわ。」 「五年でも、六年でも、どんな事があらうと必ず大丈夫だと思つて待つて居てくれ給へ。僕も美代ちやんを信用するからお前も僕を信用しておいでよ。………」 男は知らず識らず、「お前」と云ふやうな言葉を使つて居た。 「………此れからは談判が表向きになるのだから、當分内證で手紙のやり取りなんかしない方がいゝと思ふ。信じ合つて居さへすれば、顏を見なくたつて差支へがない。其の代り、ふだんはいくら會はないでもいゝから、萬一お互の體に變事でも起るやうな場合があつたら、電報でも何でも構はずに打つとしよう。」 宗一は嚴粛な調子で諄々と語つたが其の話が耳に入らない位、女は上《うは》の空《そら》になつて喜んで居た。 「あたし、今日の事は一生忘れないわ。あたしも此れから死ぬなんて事は云はないから、宗ちやんも體を大事にして下さいな。」 二人はかう云つて、堅い握手をした。

六

濱町の橘の家では、追々節季がつまつて來たので、掃除やら、洗ひ張りやら、針仕事やら、お品は天氣の續くのを賴みにして、每日々々せつせ［＃「せつせ」に傍点］と働いて居た。雨と云つたら、三の酉の晚に、一としきり激しい土砂降りがあつたばかり、明くる日から又からり［＃「からり」に傍点］と冴えて、大道の泥濘《ぬかるみ》も朝のうちに乾き、梅の莟でも綻びさうな、うら〳〵とした陽氣であつた。 「ほんとに有り難い、………此の鹽梅なら、今年の冬は凌ぎいゝだらう。」 かう云つて、お品は宗兵衞が店へ出掛けて了ふと、お午前《ひるまへ》の間に夫や忰の不斷着の綿入を解《ほど》いて了つて、お午からは小間使のお兼と一緖に、物干へ出て洗ひ張りに取りかゝつた。

階下には御飯焚きのおえい［＃「えい」に傍点］が獨《ひとり》で留守番をしながら、太つた手頸を石鹸《しやぼん》だらけにして、勝手口で白足袋の洗濯をして居た。ところへ、格子ががらりと開いて、十日ばかり姿を見せなかつた宗一がやつて來た。四疊半の玄關を上ると、座敷を一と通り覗いて廻つて、 「おツ母さんは。」 と、おえい［＃「えい」に傍点］に聲をかけた。 「物干にいらつしやいます。」 「さうか。」 と云つて、彼は臺所に接した女中部屋の梯子段を登つて、物干へ出た。

母は張板と張板の間に挾まつて、西日を背中に浴びながら、頻りにべつとり［＃「べつとり」に傍点］と濡れた布を板の上へ押し伸ばして居たが、ちよいと宗一を振り返つて、 「おや、今日は半どんかね。」 「いゝえ。―――もう直き試驗で忙しくなるので、當分來られないかも知れませんから、今のうちに汚れ物を持つて來ました。」 「それぢや今日は泊らないのかい。」 「ナニ泊つても明日《あした》の朝早く歸ればいゝんです。―――それに、少しお父さんにお話しゝたい事がありますから、孰方《どつち》にしても泊りませう。」 「さうかい。………今何時頃だね。」 母は、半分仕事の方に氣を取られて居た。 「二時過ぎでせう。」 かう云ひながら、宗一は、見覺えのある自分の着物の布《きれ》が、順々に張られて行くのを眺めて居た。板の上に働いて居る母親の手先には、鮮かな光線がくつきり［＃「くつきり」に傍点］と落ちて、糊だらけの十本の指は、色こそ白けれ、傷々《いた〳〵》しく節くれ立ち、ぱつくりと肉の裂けた傷口に黑い線が入つて、爪などはみんな短く擦り切れて居た。戀は神聖だとか、生活の基礎だとか、單に口の先ばかりでなく、腹の底から考へを据ゑて居た宗一も、此の手が暗示する堅實な力ある生命《ライフ》に對しては、比較にならぬ位、浮薄な輕佻《けいてう》な事のやうに感ぜられた。

彼は暫く物干の手すりに倚つて、靑空の下に遠く連なる街々の甍《いらか》を望んだ。其處からは久松町の明治座の屋根だの、深川のセメント會社の煙突などがよく見えて、子供の折から彼の瞳孔に沁みついて居た。此の物干から濱松界隈を俯瞰する時程、自分の幼い頃を想ひ出すことはなかつた。 「あの時分から見ると、母も隨分年を取つたものだなあ。」 と、宗一は思つた。

一方の手すり［＃「すり」に傍点］の外には、臺所の屋根がだら〳〵と下つて居て、半分硝子障子の開いて居る引窓の下に、流し元のおえい［＃「えい」に傍点］の頭が見えて居た。彼は物干用の冷飯草履を穿いたまゝ、屋根の上へ下りて、みしみし［＃「みしみし」に傍点］ととたん［＃「とたん」に傍点］葺《ぶき》を踏みつけながら、一二間離れた二階座敷の自分の書齋のところまで傳はつて行き、機械體操をするやうに、身を躍らせて高い窓から部屋の中へ飛び込んだ。さうして、庭に面して緣側の方へ頭を向けて、大の字に寢そべつて了つた。

近所に話相手の友逹はなし、家《うち》の者は働いて居るし、夕方父の歸宅する迄は、別段しよざい［＃「しよざい」に傍点］がないので、彼はかうやつて居るより仕樣がなかつた。どう云ふ風に談判を切り出さうか、母の居る時にしようか居ない時を窺はうか、打ち明けるにしても、悉く白狀しようか、或る程度まで保留して置かうか、殊に賄の一件などは、どうしたら好いであらう。こんな考へが、頻りに彼の頭を往來したが、結局父の顏色を見てからでなければ豫め極てかゝつても何にもならないとあきらめて、ぼんやりと天井を睨んで居た。

宗一が寄宿へ入つて以來、誰も此の部屋に住む者がなくなつて、なつかしい書齋の舊態は大方面影を失ひ、六疊の一間は物置きの如く種々雜多な品物で埋まつて居た。父が此の間關西へ旅行した時の鞄が二つ三つ、旅館のレツテルを貼つたまゝ、壁の片隅へよりかゝつて、其の橫には、兩親の居間に敷いてあつた由多加織《ゆたかおり》の敷物だの、茶の間にあつた熊の皮の蒲團など、丸太のやうにぐるぐると卷いて重ねてある。昔學校の制服や帽子を掛けた折れ釘には、新聞紙にくるんだ鮭の鹽引が吊る下り、昨夜の雨に濡れたらしい蛇の目の傘が、座敷の中央に擴がつて居る。正月、玄關のとツつき［＃「とツつき」に傍点］に立てる二枚折の、萬歲の繪を畫いた屛風が、藏の奧から引き出されて、柱へ凭《よ》せかけてある傍に、夜具蒲團の綿が堆《うづたか》く積まれて、宗一が古馴染の本箱や机はみんな後へ隱されてあつた。彼は何となく其の本箱が戀しさに、綿の上へ腹這ひになつて、窮屈な、狹いところへ首を突込みながら、硝子戶の中に一杯につまつて居る書籍の數々を拔いて見た。中學時代に愛讀した樗牛全集、一葉全集など、手に取るまゝに好い加減なページを開いて眼を落すと、つい［＃「つい」に傍点］面白さに次から次へと何枚も引き擦られて行き、平家雜感とたけくらべ［＃「たけくらべ」に傍点］とを、日の暮れる迄に讀み終つて了つた。あたりが薄暗くなつたので、氣が付いて見ると、もう母もお兼も物干には居なかつた。夕餉《ゆふげ》の仕度をするらしい臺所から、秋刀魚《さんま》を燒く匂ひがぷんと鼻を襲つて、ちやらちやらと皿や茶碗を揃へる音が聞えて居た。

程なく「お歸り」と云ふ聲がして、宗兵衞が戾つて來た樣子である。八疊の居間へ通ると衣類を着換へて風呂加減を訊き、早速湯殿へ行つて十分許りで上がつて仕舞ひ、相撲取のやうに肥滿した、眞赤にゆだつた［＃「ゆだつた」に傍点］體へ、腰卷一つ卷いて、飯の知らせを待つ間茶の間で夕刊を讀むのが例になつてゐる。其の刻限を見計らつて、宗一は目立たぬやうに書齋を下りたが、階下《した》では旣に電氣がかんかん［＃「かんかん」に傍点］燈《とも》つて居て、母は長火鉢の猫板に頰杖を衝き、小皿に滴らした八盃《はちはい》の汁を舐めて見ながら、 「お前、何かお父さんに話があると云つたぢやないか。」 と、宗一に云つた。 「えゝ。」 「話があるなら、もう直《ぢき》御飯だから、今のうちがいゝよ。―――茶の間にいらつしやるから。」 母は何か、ちよいと一と言話せば濟む物のやうに考へて居るらしかつた。けれども、今を除いては、親父一人の折を捉へる機會がないやうに思はれて、 「さうですか。」 と云つて、彼は緣側傳ひに茶の間へ行つた。 「お父ツさん、今日は。」 かう云ひながら、潜り戶を開けて、彼はいつになく改まつてお辭儀をした。 「うむ、―――試驗はいつから始まるんだ。」 父は依然新聞の方へ眼を着けたまゝ、氣輕に尋ねた。 「十二月の十五日ごろからです。」 「體は相變らず丈夫か。」 「えゝ。」 「試驗でも濟んだら、また沼津へでも行つたらどうだ。―――今度は溫泉もいゝだらう。此の間大阪へ行つた歸りに修善寺へ廻つたが、彼方は暖かだな。」 「はあ。」 又旅行の話になつたら、果てしがないので、宗一は氣のない返辭をした。 「尤も正月の事だから、東京に居るも好いし、まあお前の好きにするさ。休みはいつまであるんだ。」 「正月の十日時分までゞす。………お父さん、今日は………」 と云ひつゝ、彼は唾吐《つばき》を呑んで、疊へ兩手をついた。 「少し、私に取つて重大な話があつて、參りました。」 「なんだ。」 かう云つて、父は、側に疊んで置いてあつた浴衣とどてら［＃「どてら」に傍点］の重ね着の襟を摘《つま》むで立ち上がり、湯氣の乾いた素肌の肩へふわ［＃「ふわ」に傍点］ツと纏つて、兩腕を袂へ通すと、縮緬の兵兒帶を手早く締めて、再び坐る拍子に右の手で煙草盆を膝近く引き寄せた。 「私はお父さんにいろ〳〵御詫をしなければならない事と、お願ひをしなければならない事があるんです。實は私は、お父さんにもおツ母さんにも内證で、美代ちやんと結婚の約束をして了ひました。今迄餘計な御心配をかけては濟まないと思つて、隱して居りましたが、今日はお叱りを受けるのは覺悟の上で、何も彼もお話する決心で參りました。」 此れだけ喋舌るのが、宗一には容易な業ではなかつた。すら〳〵と續けて行かうにも、自分の舌が言葉の重味に堪へられないで、苦しい息を吐いたり、文句を劃《くぎ》つたりした。話の中途から、父はつひぞ見た事のない眞顏を作つて、煙管の金口《きんくち》を右の頰にあてがひ、疊の面へ瞳を注いで默つて聞き耳を立てゝ居た。屹度商賣上の相談などを持ち掛けられた時、宗兵衞はいつもこんな態度を取るのであらう。相手の言葉が、いかにも明瞭に靜かに聞き取れさうな身構へをして居るだけ、其れだけ宗一は一層話づらさを感じた。 「勿論、結婚の約束をしたと云つても、二人の間に何か間違ひを仕出來したと云ふ譯ではないんですから、其れだけは御安心を願ひます。私は唯どうせ將來結婚しなければならないものなら、美代ちやんを貰つて頂きたいと思ふんです。さう云ふ考へから、先方の意向を確める爲めに、今迄度々内證で手紙のやり取りをしました。また小田原から美代ちやんを呼び寄せて會つても見ました。親の眼を忍んで、二人で勝手に約束なんかした事に就いては、一言の申譯もありませんけれど、忌まはしい關係のなかつた事だけは、何處までもお父さんに信じて頂きたいんです。」 「一體いつ頃からそんな事をして居たんだ。」 宗兵衞は、いつものやうな隱かな、打ち解けた聲で云つた。 「ことしの夏時分………丁度沼津から歸つて來る時に、一つ汽車で東京へ來た事もありますし、寄宿舎へ入つてからも度々手紙の遣り取りはしました。尤も會つたのは沼津の時と、昨日と、たツた二度ぎりです。」 「昨日？ きのう何處で？」 「美代ちやんが不意に寄宿舎へ電話を掛けて、至急に會ひたいと云ふもんですから、學校を休んで、二人で柳光亭へ行きました。それも此の間頂いた賄のお金で勘定を拂つたんです。………まことに申譯がありません。」 宗一は顏から火の出るやうな恥かしさを忍び、凡べての大《だい》それた［＃「それた」に傍点］不都合を一緖くたにして、吐き出して了つた。 「己はお前の云ふ事を疑つて居やしないが、たとへ實際はそんな行ひがないにもせよ、二人で料理屋へ出入《ではひ》りをしたり、内證で文通したりした事がぱつとなれば、世間では決してお前の思ふ通りに見てくれないぞ。お前は若い了見で、關係さへしなければ、女に傷が着かないと思つて居るだらうけれど、世間ではうはべ［＃「うはべ」に傍点］の樣子を見ただけで、立派に傷物と極めて了ふんだ。此れからもある事だから、よく心得て居なければいけない。ましてお前はまだ學生の身分ぢやないか。どんなに自分逹の意志がシツカリして居る積りでも、男女の仲と云ふものは、得て知らず識らずの間に、とんだ間違ひを來たすものなんだ。―――お父さんは親の慾目でお前を信用するにしても、世間の人に怪しまれたら、己だつてそれを絕對に否認する證據がない。」 宗一は思つた。昔の人は男女の關係になると、案外疑い深いものである。つまり、今日の靑年の抱いて居るやうな、性慾を放れた戀愛の存在を合點する事が出來ないから、惚れたと云へば、直ぐに肉體の方面を考へる。何事に依らず早解りのする父の言葉として、證據がないから否認する譯には行かないとは實際殘念であるが、いくら辯明したところで、到底了解されないに極まつて居る。 「仰しやつたことはよウく解りました。自分でも決して善い事とは思つて居なかつたのですから、此れから必ず氣を着けます。」 「うん、お前も敎育のない人間ではなし、こんな理窟は己よりもよく知つて居る筈だから、解りさへすれば何も云ひたかあない。」 かう云つたぎり、父は再び默つて了つた。肝心な結婚問題の腰が折れたので、逆戾りに話の筋を立て直す可く、宗一は又新たな努力をしなければならなかつた。 「それから、さツきお話しました結婚の事ですが、此れも學生の身分として、まだ其の時機でないことは存じて居ります。美代ちやんが私の大學を卒業する迄、一人で居られる年頃なら今から斯う云ふお願ひをする必要はないんですけれど、いづれ小田原の方ではお嫁の話が出るでせうし、何とか此の問題が極らないうちは、私も落ち着いて勉强する事が出來ません。美代ちやんは望みがかなはないで、外へ嫁《かたづ》くやうだつたら、死ぬと云つて居ります。私も、若し一緖になれなかつたら………一生結婚しまいと、覺悟をして居ります。かう云ふと何ですが、私は今までお父さんに御無理をお願ひした事はない積りです。一生に一度の我儘と思つて、何卒今度だけ、お聞き屆けなすつて下さい。二人が自分勝手にこゝ迄話を進めて了つたに就いて、重々不都合だと仰しやれば據んどころありませんけれど、私としてはかうするより外、世の中に生きて行く望みがありませんでした。結婚が出來れば、二人は勿論、お父さんやおツ母さんのお爲めにも、決して惡い結果にはならないやうに存じます。」 困つたことだ、と云はんばかりに、父は腕組をしながら煙草を吸つて、考へ込んで居る。湯上りの血色のいい顏へ、電燈の明りが照つて、顏や鼻柱がつや〳〵と輝いて居る。宗兵衞がまだ若旦那と云はれた時代、每夜每夜｜親父《おやぢ》やお母《ふくろ》の眼を盗んで、帳場を拔け出した二三十年も前の自分の姿が、ふと彼の顏に泛んで來た。其の時分は、彼とても淺ましい戀の奴であつた。互に命までもと惚れ合つた經驗は、芳町にも柳橋にも二三度あつた。宗一が生れたお蔭で自分の性根が入れ變つた事を忘れず、せめて子供を立派に仕立てようと努めたかひもなく、放蕩の血が其の子の胸に傳はつて居て、今になつて自分に反逆を企てようとは。自分が親に心配をかけたやうに、自分も子供に心配をさせられなければならないのか、さう思つて、宗兵衞は胸を痛めた。 「昨日の美代ちやんの話では、おツ母さんが養子を貰つて分家させる積りで居るから、なか〳〵此方へは寄越すまいと云ふんです。しかし、あか［＃「あか」に傍点］の他人へ嫁《かたづ》くのではなし、何とか話のしやうに依つたら、解決の道があるだらう。要するに美代ちやんのおツ母さんさへ將來安樂に過せる保證が附いたらば、纏まらないことはないだらうと思ふんです。勝手な上にも勝手なお願ひですが、御參考までに一應此の事を申し上げて置きます。」 「ま、其の話は二三日待つて貰はう。今度の日曜迄に考へとくから。」 かう云ひながら、父はぱた〳〵と手を鳴らして、 「おい、己の紙入を持つて來てくれ。」 と、奧へ怒鳴つた。 もう直き御飯だと云つたのに、今迄催促に來ない樣子を見ると、母は話の始終を立ち聞して、遠慮して居るらしかつた。母屋に續いた瓦燈口《ぐわとうぐち》を開けて、紙入を持つて出て來たのはお兼であつた。帛紗《ふくさ》の包みを宗兵衞に渡すと、其の儘何も云はずに引込んで了つた。 「金はいくらばかり足りなくしたんだ。」 「八圓ぐらゐです。」 「それぢや此れを渡して置く。試驗が忙しければ、飯でも喰べて今日は學校へ歸るがよい。」 包みを解いて、菖蒲皮《しやうぶがは》の紙入の中から取り出した十圓札を、宗兵衞は靜かに宗一の前に置いた。 「はい。」 宗一は謝罪の意味を含んで、畏まつて頭を下げて、札を懷に入れた。此れ程にしてくれる親を捉《つかま》へて、散々迷惑を掛けなければならないハメになつたのが、今更辛く悲しく感ぜられた。

七

