# 腕くらべ

## Part 1

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Produced by Kaoru Tanaka and Sachiko Hill

Title: 腕くらべ (Udekurabe) Author: 永井荷風 (Nagai Kafu) Language: Japanese

Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka. (This file was produced from images generously made available by Kindai Digital Library)

Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the base text to indicate pronunciation). Eg. 其《そ》

｜ marks the start of a string of ruby-attached characters. Eg. 十三｜年目《ねんめ》

［＃...］ explains the formatting of the original text. Eg. ［＃ここから字下げ］ -------------------------------------------------------

花柳小説 腕くらべ 荷風小史著

大正六年十二月排印

はしがき おのれ志いまだ定らざりし二十の頃よりふと戯れに小說といふもの書きはじめいつか身のたつきとなして數ればこゝに十八年の歳月をすごしけり。あゝ十八年曾我兄弟は辛苦をなめて十八年親の敵を打つて名を千載に傳へおのれはいたづらなる筆をなめて十八年世の憎しみを受け人のそしりをのみ招ぎけり十八年が同じ月日も用ゐかたによりて變るためしはもろこしに柳下惠といへる賢者は飴のあまきを嘗めて老ひたる親を養はんと申しけるを盜跖とよぶ盜人は人の家の戶に塗り音せぬやうに引あけて忍入らんといひけるとぞ。さはさりながら敵をねらふ兄弟も男と生れしからにはそつと人知れず大磯の濡れ事ばかりは免れず今も昔も男と女客と妓女とのいきさつ此のみ寔に千古不易の人情とや申すべき。それは扨て置きおのれ今年の夏より秋にかけて宿痾俄にあらたまり霜夜の蟲をも待たで露の命のいとゞあやうく思はれければ十八年がこの歲月わが拙き文市に出る度每に購ひ給ひける方々へいさゝか御禮のしるしまで新に一本をつゞりて笑覽に供せんものと思ひ立ちける折からこの小說腕くらべの一作幸雜誌文明にはわづかに草稿の一部を掲げしのみなれば急ぎ訂正改作してその全篇を印刷する事とはなしぬ。然れどもこれとて未尙全く完結に及べるものにもあらざればいよ〳〵その後篇とも稱すべきもの幸ひにしてまた來ん春まで命保ち得たらんにはやがて書きつぐべき折もやあらんまづそれまでは讀切のもの同樣偏に御愛讀を冀ふとしかいふ 大正六年冬至の夜 作 者 識

腕くらべ 荷風小史戯著

一 幕あひ

幕間《まくあひ》に散步する人逹で帝國劇場の廊下はどこもかしこも押合ふやうな混雜。丁度表の階段をば下から昇らうとする一人の藝者、上から降りて來る一人の紳士に危くぶつからうとして顏を見合はせお互にびっくりした調子。 「あら、吉岡さん。」 「おやお前は。」 「何てお久振なんでせう。」 「お前、藝者をしてゐたのか。」 「去年の暮から…………また出ました。」 「さうか。何しろ久振だ。」 「あれから丁度七年ばかり引いてゐました。」 「さうか、もう七年になるかな。」 幕のあく知らせの電鈴が鳴る。各自の席へと先を爭ふ散步の人で廊下は一時《ひとしきり》一層の混雜。その爲め却て人目に立たないのを幸と思つてか、藝者は紳士の方へ鳥渡身を寄せながら顏を見上げて、 「ちつともお變りになりませんね。」 「さうかな、お前こそ何だか大變若くなつたやうだぜ。」 「あら御冗談ですよ。この年になつて………。」 「いや全く變らないな。」 吉岡は眞實不思議さうに女の顏を目戍《みまも》るのであつた。この前藝者に出てゐた頃の事を思合はせると其時分十七八であつたから、七年たつたとすればもう二十五六になる譯だ。然し現在目の前に見る姿はお酌から一本になつて間もない其の時分と少しも變つてゐない。中肉中丈、眼のぱつちりした下《しも》ぶくれの頰には相變らず深い笑靨が寄り、右の絲切齒を見せて笑ふ口元には矢張何處やら子供らしい面影が失せずにゐる。 「その中、一度ゆつくりお目にかゝらせて頂戴。」 「何ていつて出てゐるんだ。先《せん》の名《な》か。」 「いゝえ、今度は駒代ツて申します。」 「さうか。その中呼ばう。」 「どうぞ……。」 舞臺からは早くも拍子木の音が聞える。駒代はそのまゝ自分の席へと廊下を右の方へ小走に立去つた。吉岡は反對なる左の方へと同じく早足に行きかけたが何と思つたか不圖立止つて後を振向いた。廊下には案内の小娘と賣店の女が徘徊するのみで駒代の姿はもう見えなかつた。吉岡は有合ふ廊下の腰掛に腰をおろして卷煙草に火をつけ思ふともなく七八年前の事を囘想した。二十六の時學校を卒業し二年程西洋に留學してから今の會社に這入つて以来こゝ六七年の間といふものは、思へば自分ながらよく働いたと感心する程會社の爲めに働きもした。株式へ手を出して財產をも作つた。社會上の地位をもつくつた。それと共に又思へばよく身體をこはさなかつたと思ふ程、よく遊びよく飮んだ。彼はいつも人に向つて得々として云ふ如く誠にいそがしい身體なので、過去つた日の事なぞは唯の一度も思返して見るやうな暇も機會もなかつたのである。ところが今夜偶然にも學生の頃始めて藝者といふものを知りそめた其の女に邂逅して、吉岡は自分ながらどういふ譯とも知らず、始めて遠い昔のことに思を寄せたのであつた。

何にも知らないあの時分には藝者といふものが何となく凄艷に見えた。そして藝者から何とか云はれるのが眞實嬉しくてならなかつた。今日あの時のやうな初生《うぶ》な淸い心持にはならうと思つてもなれるものではない――吉岡は舞臺から漏れ聞える合方の三味線を耳にしながら、始めて新橋へ遊びに來た當時の事を思浮べ、我ながら可笑しくなつて獨り微笑を漏したが、それにつけて今は遊ぶが上にも遊馴れてしまつた身の上に思及ぶと、これは又一寸人には話も出來にくい程萬事が拔目なく胸算用から割出されてのみゐるのに、自分ながら少し氣まりの惡いやうな妙な氣がした。乃公《おれ》はこんな方面にまであんまり悧巧に立廻り過ぎてゐた。どうも乃公は知らず〳〵細密《こまか》い處に氣がつき過ぎていかんのだと始めて自分を知つたやうな心持がしたのであつた。

全く其の通りかも知れない。吉岡は今の會社に這入つてまだ十年にならないのに早くも營業係長の要路に用ひられ社長や重役から珍らしい才物だと云はれてゐるだけ、同僚や下のものにはあまり受のよい方とは云はれない。

吉岡は新橋に湊屋といふ看板を出してゐる力次といふ藝者をば三年ほど前から世話をしてゐる。然し有ふれた旦那のやうにたわい［＃「たわい」に傍点］なく鼻毛をよまれてゐるのではない。吉岡は力次の容貌のよくないことは其の目で見る通りよく承知してゐる。容貌はわるいが藝はたしかである。何處へ出してもまづ姐さんで通れる女である。吉岡は世の中の仕事をして行く上から宴會其の他の事で藝者の一人や二人は自分のものにして置く方が却つて何かの便利にもなるし又無駄な物費《ものいり》が除けると見て、此方《こつち》から打込んだやうな風を見せて手に入れたのであつた。

吉岡にはもう一人妾同樣にしてゐる女がある。それは濱町に相應な構をしてゐる村咲といふ待合の主婦《おかみ》である。以前代地邊の料理屋の女中をしてゐる頃、吉岡は藝者遊にも飽きかけた人が往々にして飛でもない厄介を背負込むためしに漏れず、ふと醉つたまぎれに手を出したが、醒めて見るとお茶屋の女中なんぞに手をつけたといふ事が日頃宴會で出逢ふ藝者仲間に知られては堪《たま》らないと後悔したのが、女の方のつけ目である。一切この事は秘密にして後腐《あとくされ》なしにするからといふ約束で今の待合村咲を開業する資金を内々で出してやる事にした。村咲は運よく繁昌して每夜お座敷が足りない位の景氣、さうなつて見ると尠からぬ資金を出しつぱなしにして寄付かないのも馬鹿々々しいと云ふ氣が起つて、吉岡は一度二度と呑みに行く中いつか又内所で關係をつけた。おかみは色の白い肉付のいゝ大柄の女で今年三十になる。再三燒棒杭になつた後今はどうやら腐緣とでも云ふやうな間柄になつてゐるのであつた。

吉岡はそれやこれやの複雜な關係に比較して、相手の駒代はたしか十八自分はたしか二十五、互に何が何やら分らずに馴染を重ねた其の時分の單純な無邪氣な心の中を思返すと、自分ながら何となく芝居か小說でも見るやうな美しい心持がして來る。美しいだけにたわい［＃「たわい」に傍点］がなく又何やら眞實らしからぬ變な氣もするのであつた。 「や、こゝにおゐでゞしたか。先刻《さつき》から方々《はう〴〵》お尋ねしてゐたです。」 洋服をきた身丈《せい》の低い肥つた男。二階の食堂で大分ウイスキイでも傾けたらしく惠比須のやうな圓い顏をば眞赤にし鼻の先には玉の汗をかきながら、「さつき電話がかゝりました。」 「どこから。」 「いつもの處です。」と身丈《せい》の低い肥つた男はあたりに人のゐないのを見定めて、吉岡の側に腰をおろし、「近頃は湊家の方へはあんまり御出馬がないと見えますな。」 「君《きみ》のところへ電話が掛かつたのか。」 「實は誰かと思つて少しは自惚《うぬぼ》れましたね。ところが例の如くで、われながらチトお氣の毒でしたな。はゝゝゝは。」 「君、力次は今夜僕等がこゝにゐるのを知つてると見えるね。」 「屹度誰か連中の見物にでも來てゐたのが知らせたんでせう。お歸りに是非一寸でいゝからお寄り下さるやうにといふ事です。」 「江田君、實はそんな事より今夜は少し珍談があるんだがね。」と吉岡は金口《きんくち》の卷煙草を江田にすゝめながら四邊《あたり》を見廻し、「食堂へ行かう。」 「また濱町の件ですか。」 「いや、そんな舊聞ぢやない。ロオマンスだ。」 「え、何です。」 「小說見たやうな話があるといふのさ。」 「さうですか。面白さうですな。」 江田は合槌を打ちながら廊下を地下室の廣い食堂へとついて行つた。 「君は相變らずウイスキイだつたね。」 「いや、今夜は少し廻つてゐますからビイルにして置きませう。まだ腰を拔かすにはちつと早過ぎませうて、はゝゝゝは。」 江田は顏中を皺だらけに身體《からだ》を搖上《ゆりあ》げて笑ひながらハンケチで額の汗を拭く、其の樣子なり其の物云ふ調子なり誰が見てもすぐ吉岡の幇間《おたいこ》と知られるのである。縮れた薄い頭髮は大分禿げ上つてゐるが年はさして吉岡とは違つてゐるのでもないらしい。吉岡の切廻してゐる會社の株式係の一人で、宴會だの園遊會だのある折にはいつも接待係をつとめる處から、營業係長の吉岡さん同樣に花柳界には顏が賣れてゐる。何處へ行つても○○會社の江田さんと云へばお酒の好きな罪のない縹輕《へうきん》な方だと藝者は勿論お茶屋の女中までが心安立に折々は隨分失禮な事を云ふが江田は決して怒つたことがない。女逹から馬鹿にされたり挑戲《からか》はれたりすると益々調子に乗つてわざと自分から三文の値打《ねうち》もないやうに自分の身を輕く取扱ふ。然し家には子供が三人もあり其の長女はそろ〳〵嫁の口をさがす年頃だと云ふ事である。 「珍談とは一體何です。」とボオイの置いて行つたビイルを片手にしながら江田はいかにも聞きたさうに力を入れて、「まさか拙者を出拔《だしぬ》いて新色のおのろけぢや有りますまいね。はゝゝは。」 「實はさう有りたいんだがね。」 「へゝえ。これア大分罪が深さうですな。」 「江田君、ひやかしちやいかんよ。僕は今夜始めて女に迷つたやうな氣がした。」云終つて吉岡はあたりに人もやあると見廻したが廣い食堂には遠い片隅にボオイが二三人寄つて話をしてゐるばかり、見渡すかぎり人のゐない卓子《テーブル》の白布に電燈の光の照添うて其の上に置いた西洋草花の色をば一層|鮮《あざやか》に輝してゐるばかりである。 「江田君これア眞實まじめな話だよ。」 「はゝア此の通謹聽してゐます。」 「いかんなア。いつでも君には冗談ばかり云ふもんだから……眞劍な話はどうもしにくい實はその何だ。先刻《さつき》階段の處で偶然出遇つたんだがね……。」 「ふむ〳〵。」 「僕がまだ學校にゐた時分知合つた女なんだがね。」 「お孃さんですか。どこかの奧樣になつてゐると云んでせう。」 「氣が早いな。素人《しろと》ぢやない。藝者だよ。」 「藝者ですか。して見ると隨分早くから御修行なすつたもんですね。」 「あれが、その僕が道樂をし出したそも〳〵一番初めの藝者なんだ。其の時分駒三と云つてゐたんだ。さうさ、一年ばかりも遊んだかな。さうかうする中に僕は學校を出てすぐ洋行するんで、其の時には相應にまア片《かた》をつけて別れたと思ひたまへ。」 「ふむ〳〵。」と江田は吉岡から貰つた葉卷を惜し氣もなくスパリ〳〵と吸つてゐる。 「七年ぶりで新橋へ出たんだとさ。駒代といふんださうだ。」 「駒代……家《うち》はどこです。」 「名前を聞いたばかりだから、自分で店を出したのか、それとも借金をしたのか其の邊の事は何にも知らない。」 「外のものに内々で聞いて見ればすぐにわかりませう。」 「兎に角七年も引いてゐて又出たんだといふから何れ仔細があるに違ひないさ。今までどう云ふ方面の人の世話になつてゐたんだか、實はその邊の事も知つて置きたいんだがね。」 「大分御詮議が細《こま》かうございますな。」 「仕方がないさ。かう云ふ事は始めに承知して置くが一番だよ。友達の女と知らずにくどいて、出來てしまつた後で恨まれるなんて云ふ話はよくあるやつだからな。」 「さう急に話が進んで來ちや拙者も愚圖々々しちや居られませんな。兎に角一度お姿を拜んで置きませうどの邊に居るんです。棧敷ですか。」 「今廊下で見たばかりだから、何處に居るか分らない。」 「お歸りにはどうせ何處へかお行《い》でゝせう。お伴しますから其の時ゆつくり手前に鑑定させて下さい。」 「よろしく賴むよ。」 「力次はいよ〳〵祇王妓女ですな。かわいさうに…はゝゝは。」 「何《な》にあれアあれで構やせんよ。君も知つてる通りこれまでに隨分世話をしてやつたからね。僕が居なくなつたからつて、今ぢや抱も四五人居るし、きまつた座敷はあるし、困る事はないさ。」 廊下の方から無遠慮に大きな聲で話をしながら這入つてくるお客がある。吉岡はそれと氣付いて話と途切した。舞臺の方では立廻でもあるのか頻に付板を叩く響がする。 「おいボオイ、勘定……。」 吉岡は椅子から立つた。

二 逸品

「今晩はようこそ……。」と濱崎といふ待合の女將《おかみ》恭しく手をついて次の間から、「どちらのお歸りでゐらつしやいます。」 「帝國座へさそはれた。藤田さんの義理で女優劇の見物だ。」と袴をぬぎかけてゐた吉岡は立つたまゝで、「女優の旦那になるのも並大抵ぢやないね。始終《しよつちう》見物をこしらへてやらなくちやならんやうだから。」 「矢張藝者衆の方が無事でございますよ。」と女將は紫檀の食卓の側へ座を移し、「江田さん、大層お暑さうですね。お着換へ遊ばしたらいかゞです。」 「なに暑くつても今夜は我慢しよう。浴衣つていふ奴はどうもよくない。伊勢音頭の芝居で切られる奴見たやうでな。」 「大層御行儀がいゝぢやありませんか。」 「おかみ、實はすこし賴みたい事があるんだがね……」 「何なりと伺ひませう。」 「ありがたい。今夜はおゆるしで我輩が御主人役だ。いゝか、それで藝者もいつものとはまるでちがつたのを呼んで貰ふんだ。」 「はい〳〵。どういふ處をかけますんです。」 「左樣さ。兎に角力次は呼ばない事にしよう。」 「あら、どうして、あなた。」 「だから賴みたい事があると云つたぢやないか。後《あと》で追々わかるよ。」 「それでもあなた……。」 おかみは怪訝《けげん》な顏をして吉岡の方を見ると吉岡は唯にや〳〵笑つて葉卷をふかしてゐる。女中が酒肴を運んで來た。江田はいそがしさうに一杯を干して女將《おかみ》にさしながら、 「大急《おほいそ》ぎで駒代をいふのを掛けて貰はう。駒代だよ。」 「駒代さん……。」と女將は女中の顏を見る。 「新奇の兒《こ》だよ。美人だぜ。」 「あゝお十さんとこの……さうでせう。」と女中は直樣思付いたらしい顏付。 「お十さんとこの、さうかい。」と女將は始めて會得した體で、杯を下に置き、「家へはまだ來なかつたね。」 「來ましたよ。一昨日の晩も鳥渡御挨拶に來たぢやありませんか。そら、千代松さんのお座敷で……。」 「あゝさう〳〵。それぢや、ぽつちやりした小作りの…年を取ると何もかもみんな一緖くたになつてしまふんですよ。」 「それから後は誰にしやうかな。十吉も暫らく呼びませんな。」と江田は吉岡の方を顧みて、「一｜緖《しよ》の家のものがいゝでせう。」 「さうして貰はう。」 「畏りました。」と女中はついで急須茶碗を盆にのせて立去る。女將は杯を江田に返しながら、 「何だかまるで譯がわかりませんね。」 「はゝゝゝ。わからないのも尤だ。今夜急に湧いた話だからな。實は僕も大に面食つたんだよ。はゝゝは。兎に角かうしてゐる中も返事が待ち遠しいて、來られるか知らん。」 「何だか狐につまゝれたやうですね。あなた。」 「いゝから安心して見ておゐで、今にはなしが段々面白くなるから…。」 女中が戾つて來て、「駒代さんはお芝居ですつて。すぐに伺ひます。」 「はゝゝゝは。」と江田は覺えず笑ひ出した。 「あら……喫驚《びつくり》するぢやありませんか。」 「まあいゝ。それから外《ほか》の奴《やつ》はどうした。」 「十吉さんも外の方も皆《みんな》もう少々伺ひかねるツて云ふんでございますよ。どう致しませう。」 「さア。」と江田は吉岡の方を見ながら「來られたら來いと云つて置かうぢやありませんか。」 今度は女中を座敷へ殘して女將が電話の返事にと立つた。 「萬事よさゝうですな。一人の方が話が早うござんすからな。」 「お蝶。一杯やらう。」と吉岡は女中へさして、「お前、知らないか。駒代には誰《だれ》かきまつた人があるか。」 「いゝ藝者衆ですわねえ。」と女中は巧みに逃げて、「先に此の土地にゐたんですつてね。」 「はゝゝゝは。」と江田は再び大聲に笑出す。 「江田さん先刻《さつき》から何がをかしいんですよ。」 「をかしいから仕樣がない。お前知らないのか。駒代つていふのはあれア僕の藝者だぜ。先に七年ほど前だ、この土地に出てゐた時分一時は隨分騷がれたものだぜ。」 「あら、あなたが、ほゝゝほ。」 「笑ふ奴があるか。失禮な奴《やつ》だな。」 「それは全くの話だ。僕が證明するよ。一時江田さんに熱くなつてゐたんだがね、譯があつて別れたんだとさ。そこで今夜が十年ぶりの御對面なんださうだ。」 「あら、さう、ほんとうなら隨分お安くないわね。」 「ほんとうならとは何《なん》だい。疑《うたぐ》りつぽい奴《やつ》だな。お蝶。その時分には僕だつて禿げちや居ないよ。もつと痩せて居てすらりとしたもんだ。見せたかつた位のものだぜ。」 兎角する中に、やがて廊下に足音がして、「姐さんこちら……？」 江田はわざと飛上るやうに坐り直した。

襖を明けたのは駒代である。

髮はつぶしに結ひ銀棟《ぎんむね》すかし彫の櫛に翡翠の簪。唐棧柄のお召の單衣《ひとへ》。好みは意氣なれどその爲め少しふけて見えると氣遣《きづか》つてか、半襟はわざとらしく繍の多きをかけ、帶は古代の加賀友禪に黑繻子の腹合、ごくあらい絞の淺葱縮緬の帶揚をしめ、帶留は大粒な眞珠に紐は靑磁色の濃いのをしめてゐる。 「先程は……。」と挨拶したが新しい顏の江田がゐるのに心付いてか少し調子を改めて、「今晩は。」 江田は早速杯をさして、「今まで芝居にゐたのかい。」 「はい。あなたも居《ゐ》らしつて？」 「歸る時實はさそはうと思つたんだがね、どこにゐるのか分らないもんだから……。」と云ふ中にも江田はさり氣《げ》なく駒代の衣裳から持物から座敷の取持樣までに遍《あまね》く心をつけた。何も直接自分の身に關係する事ではないが、江田は色氣なしに斯ういふ場所で賑かに騷ぐのが好きなので、吉岡の爲めに今夜は駒代といふ藝者の値打《ねうち》をば岡目八目｜眞實《しんじつ》間違《まちがひ》のないところを見屆けやうと思つたのである。一口に新橋の藝者とはいふものゝ其中には天から切まである事を知つてゐるので、何ぼ昔のお馴染だからと云つてあまり安ツぽい藝者では吉岡さんの顏にかゝはる。書生時代の吉岡さんと今日實業界に其人ありと云はれた吉岡さんとは少し事がちがふと、江田は眞實の老婆心から今夜ばかりは醉つてはお役がすまぬやうな氣がしてゐるのであつた。

御當人の吉岡は猶更の事である。現在駒代の身の上はまるで抱えか見世借りか又は遊び半分の勤めか、その邊の事情まで、口に出して野暮らしく聞く必要はない。衣服の着こなし座敷の樣子萬事を綜合して日頃藝者を見馴れたものゝ眼力で一見して推察してしまはうと思つてゐる。

駒代は江田に貰つた杯を鄭寧に洗つて返し行儀よく酌をしながら、これも客商賣の經驗で、無論しかとはわからぬけれど今夜初對面の江田さんと吉岡さんとの關係も大槪は見當がついたものゝ然し猶大事を取るつもりらしく、何とも付かぬ世間ばなし。 「芝居ももう暑くつていけませんのね。」 「駒代。」と吉岡は突然ながら然し極めて親しい調子で、「お前いくつになつた。」 「私《わたし》……年のことはよしませう。吉岡さん、あなたは。」 「私《わたし》はもう四十さ。」 「噓ですよ。」駒代は子供らしく一寸首をかしげ指を折つて數へながら獨語のやうに、「あの時私が十七……ですもの。それから……。」 江田は側《そば》から「おい〳〵人前があるよ。」 「あら堪忍して頂戴。つい……。」 「あの時だの其時だのと、一體それアどういふ時だ。」 駒代は愛嬌の糸切齒を見せて笑ひながら、「吉岡さん。あなた、まだ半分位ぢやありませんか。」 「今夜は一ツ身の上話を聞く事にしよう。」 「あなたの……？」 「お前のさ。私が洋行してから後何年程出てゐたんだ。」 「さうねえ。」と駒代は扇子を弄びながら一寸天井の方へ上目を使つて考へながら、「彼れこれ二年ばかしも稼いでゐましたわ。」 「さうか、ぢや私が洋行から歸つて來たのと彼れ此れ同じ時分だつたかも知れん。」吉岡は心中駒代は其の時誰に引かされたのかと云ふ事をきゝたいと思つたが、云ひ出しかねて、さあらぬ風《ふう》に「素人《しろと》より矢張藝者の方がいゝかね。」 「好《この》んで出た譯ぢや無いんですけれど、藝者より外に仕樣がなくなつてしまつたんですもの。」 「一體、今まで奧樣になつてゐたのか、お妾でゐたのか、どつちだい。」 駒代は盃をゆつくり干して下に置き其のまゝだまつてゐたが決心したやうに、「隱してゐたつて仕樣がないわね。」とすこし膝をすゝめて「一時はちやんとした奧樣になつたのよ。あなたは洋行なすつておしまひなさるしさ、其の時分私も實は少し悲觀してたのよ。ほゝゝゝほ、あら噓ぢやない事よ。それでね、丁度その時分田舎の大盡の若旦那で東京《こつち》の學校へ勉强に來てゐらつした方があつたのよ。世話をしてやるからと仰有るんで其の方で引いたんです。」 「さうか。」 「その當座はお妾でゐましたの。する中に是非お國へ行けツて仰有るんでせう。お國へ行けばほんとの奧樣にしてやるからと仰有るのよ。いやでしたけれど何時《いつ》まで若いんぢやなし、奧樣になれゝばとさう思つたのが淺果敢だつたんですね。」 「どこだへお國つて云ふのは……。」 「何でもずつと彼方《あつち》の方よ。そら、あの鮭《さけ》の出る方よ。」 「新潟だね。」 「いゝえ。違《ちが》ふわ。北海道の方ですよ。あの秋田ツて云ふ處、寒くつて〳〵實にいやな處でしたわ。忘れもしないわ。三年辛棒したんですもの。」 「とう〳〵爲切《しき》れなくなつたんだね。」 「それがツて云ふのが、あなた。旦那ツて云ふ方《かた》が死亡《なくな》つたんですよ。さうなると私はもと〳〵藝者でせう。親御さんはお兩方《ふたかた》ともちやんとしてゐらつしやるし、それに弟御さんが二人もあるんですもの。何《なん》だの彼《か》だのつて、私《わたし》一人居られたものぢやないわ。」 「さうか、わかつた。息つぎに一杯……。」 「すみません。」と駒代は江田に酌をして貰つて、「さういふ譯ですから何分御贔負に願ひます。」 「外の藝者はどうしたらう。もう來ないかな。」 「まだ十一時前ですが。」と時計を出して見たが、江田は丁度其時電話だといふ知らせに席を立つ駒代の後姿を見送つて、聲をひそめ、 「なか〳〵いゝですな。逸品ですぜ。」 「はゝゝゝは。」 「誰も來ない方がいゝでせう。ところで僕も今夜はこの邊のところで消えてしまひませう。」 「なに、それにや及ばんよ。何も今夜にかぎつた事ぢやない。」 「乗掛つた舟でさ。當人だつてもう其の氣でせう。恥をかゝせるのは罪です。」江田は自分の前にあつた杯を二ツとも一度に片付け、遠慮なしに吉岡の煙草入から葉卷を一本取出しマツチをすりながら立掛けた。

三 ほたる草

箱屋から掛つた電話の返事をして駒代はそのまゝ座敷へ行かうとするのを帳場にゐたおかみ、 「あ、鳥渡、駒ちやん。」 すると駒代は甘つたれた聲をしながらも、素早《すばや》く先《せん》を越したつもりで、 「おかみさん、頂《いたゞ》いてもいゝでせうか。」 「あゝ、伺《うかゞ》って御覽よ。」とおかみも馴れたもので煙草を一服しながら萬事もう咄はついてゐると云つた調子、「いつだつてお泊りになる事はないんだから……。」 駒代は早速返事につまつてしまつた。勿論以前に出てゐた吉岡さんの事だから、今更別に否應《いやおう》云ふべき處ではない。吉岡さんなら全く結構なのである。然し久振りで呼ばれて直ぐ其の晩にさうなつてしまつては、お茶屋の手前何となく昔の丸抱《まるがゝ》えの子供時分と同じやうに安ツぽく思はれやしないかと、唯その事が氣にかゝつたのだ。駒代は實のところ吉岡さんの方に其の心持があるのかどうかといふ事もまだ考へてはゐなかつたのである。何しろ久振偶然芝居で出逢つた其の歸りの事、もし吉岡さんの方にその氣があつて呼んでくれたのなら、何も初めての女ではなし、待合のおかみさん抔にさう云はずとも、直接《ぢか》に鳥渡｜目《め》まぜか何かで知らせてさへくれゝば、どんなに私の顏がよくなるか知れやしないのに……と少しむつとした氣にもなつた。 「それぢや、おかみさん、時間にはいたゞかして頂戴よ。」 云捨てゝ其のまゝ駒代は二階のお座敷へ立戾ると、電氣燈が杯盤狼藉たる紫檀の食臺《ちやぶだい》の上に輝いてゐるばかりで吉岡さんも江田さんも誰の姿も見えない。厠《はゞかり》へでもお立ちなのであらうと氣はついたけれど、何だか自分ながら譯も分らず妙に捨氣味な自暴《やけ》なやうな氣になつて、打捨《うつちや》つて置けといふやうに、そのまゝ燈火の下に坐《すわ》つてしまつた。すると普段の手癖になつてゐるのですぐ帶の間の化粧鏡を取出し鬢を撫でゝ白粉紙で顏を拭きながら、ぼんやり鏡の面を見てゐる中、駒代はどういふ譯ともなく日頃絕えず胸の底に往來してゐるいつもの屈托《くつたく》に暮れてしまつた。

色戀の浮いた苦勞ではない。深く煎じ詰めて行つたら或はそれも屈托のもとになつてゐるかも知れないが、兎に角駒代自身では自分の苦勞はそんな浮いたものぢやないと堅く信じてゐる。駒代の思に暮れるのはこの身の行末といふ一事である。今年二十六と云へばこれから先は年々に老《ふ》けて行くばかり、今の中にどうとか先の目的《めあて》をつけなければと、唯譯もない心細さと、じれつたさである。十四の時から仕込まれ十六でお酌のお弘め其れから十九の暮に引かされて二十二の時に旦那の郷里なる秋田へ連れて行かれ、三年目に死別れた。その日まで駒代は全く世の中も知らず人の心も知らず自分の身の始末さへ深く考へた事はなかつた。旦那の死んだ後も秋田の家にゐやうと思へば居られない事はなかつたかも知れない。然しさうするには尼になつてゐるよりも猶一倍身をないものとあきらめてしまはなければならない。田舎の金持の一家親族どこを見ても自分とはまるつきり異《ちが》つた人の中に唯一人取殘されてこれから先一生を終へやうといふ事はとても町育の女の忍び得られる處でない。いつそ死なうかと思つた末はもう慾も德もなく東京へ逃歸つて來た。歸つては來たものゝ駒代は上野の停車場へつくと共に早速身の落付け處に困つてしまつた。生れた家とは何年となく音信不通なので最初抱えられて行つた新橋の藝者家より外にはこの廣い東京中にさしづめ尋ねべき家は一軒もない。駒代はこの時生れて始めて女の身一ツの哀れさ悲しさを身にしみ〴〵知りそめたと共に、これから先其の身の一生は死ぬなり生きるなり何方《どつち》になりと其の身一人で何《どう》にともして行かなければならないのだといふ事を深く〳〵感じたのであつた。以前養女に抱えられてゐる家へ行けば當分の宿は勿論これから先の事も何とか世話がして貰はれるであらう、駒代はさう思うと同時に譯もない女の意地で、七年前には立派に引いて出た其の家へ今この途法に暮れ果てた身のさまを見せるのはいかにも辛い。死んでもあすこへは行きたくない……駒代は既に新橋へ向ふ電車に乗りながら唯只思案にくれてしまつた其の橫合から、突然女の聲で、しかも駒三と云つた昔の名を呼びかけたものがある。びつくりして其方を見ると其時分秋田の旦那が行きつけた待合の女中お龍といふ女である。聞けば幾年間辛棒のかひあつて、つい去年の暮から南地へ新しい店を出したといふので、駒代は無理やりにすゝめられるのを幸ひ一先お龍の家へ身をおちつけ、やがて今の家――尾花家の十吉といふ老妓の家からワケで出る事になつたのであつた。

駒代は突然何といふ譯もなく、あゝ藝者はいやだ、藝者になれば何をされても仕樣がない……さう思ふと私見たやうなものでも一時は大家の奧樣と大勢の奉公人から敬はれた事もあつたのにと覺えず淚ぐまれるやうな心持になる…… 丁度その時急しさうに廊下を走つて來た女中が、「あら、駒代さん、こゝに居たの。」と座敷の杯盤を取片付けながら、「あちら、あの離れのお座敷ですよ。」

四 むかひ火

夜通し人の出盛る銀座の草市も早や昨日と過ぎて、今日の夕暮おそしと藝者家の立ならぶ橫町々々をばお迎ひ〳〵と云つて呼步く物賣の聲、丁度その折から表通の新聞社からは何事の起つたのか、號外々々と叫んで賣兒の馳け出す鈴の響、彼方《あなた》此方《こなた》の格子戶からは火燧の響に送出されてお座敷へ急ぐ藝者の車、さても騷々しい町中の夏の夜を空には新月の影宵の明星と共にいかにも凉し氣に輝きそめる。 がらりと尾花家の格子戶を明けて出た老人、「なんだ號外だな、また飛行機でも落ちたんだらう。」 何ともつかず空を見上げる後から可愛らしい半玉の聲、「旦那、もうお迎ひを焚くんですか。」 「さうだな。」と老人は兩手を後に猶も空を見上げながら獨語《ひとりごと》のやうに、「お盆だといふのに今年は三日月樣が出てゐる。」 「旦那、お盆に三日月さまが出ると何《なん》なんです。」 ゴムでこしらへた鬼灯を鳴らしてゐるお酌の花子には老人の獨語が却て不思議に思はれたらしい。 「お佛壇の下にお迎ひが買つてあるよ。いい兒《こ》だ。持つて來ておくれ。」 「旦那、あたいが火をつけて焚いて上るわ。」 「そうツと持つて來なさい。炮烙をこわしなさんな。」 「大丈夫よ。」と云ひ捨てゝ、半玉の花子は公然《おほぴら》と火《ひ》惡戲《いたづら》が出來る嬉しさ、あたふたとお迎火を路傍《みちばた》へ持運んだ。 「旦那、いゝこと。燃すことよ。」 「これさ。さう一｜時《とき》に燃さずと……あぶねえから、そろ〳〵やんなさい。」 云ふ中にも表通から吹通ふ夜風に迎火はパツと燃え上つて、白粉を濃くつけたお花の橫顏を紅く照らす。老人は蹲踞《しやが》んで手を合せ、 「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。」 「旦那、千代吉姐さんのとこでも、あらお向うでも方々で燃してるわ。奇麗だわねえ。」 家每《いへごと》に焚く迎火の烟にあたりは何となく電話や電燈の新しい世の町には似合はしからぬしんみりした趣を示した。尾花家の老人はいつまでも地にかゞまつて長たらしく念佛を唱へてゐたが、やがて兩手に腰をさすりながら立上つた。年齢《とし》はもう何年か前に六十の坂をも越してしまつたに相違ない。見るから古ぼけた洗晒しの帷子に女帶の仕立直しと覺しい黑繻子の帶を締めてゐるので、腰はまださして目に立つほど曲つてはゐないが、手足のよく透けて見える老體は全く骨ばかりのやうにいたいたしく思はれた。頭はきれいに禿げ頰は落ちてしまつたが、眞白な眉毛だけは筆の穗のやうに長く垂れてゐるのが、いかにも福々しく、衰へながらぱつちりした眼付と、凛々《りゝ》しい口元、品のいゝ鼻筋、どうしても根から藝者家の亭主とは見受けられぬ容貌《かほだち》である。 「あら、旦那、根岸の先生がいらしつてよ。」 「どれ、どこに……。」と老人は燃殘りの迎火に水打つ手をとめて、「成程、子供は目が早いな。」 「いや、お變りもありませんか。」と二三軒先から老人の姿を見て一寸麥藁帽子に手をかけ往來の水溜りを大股に踏み越して進寄つたのは、お酌の花子から根岸の先生と云はれた新聞小說家倉山南巢といふ人である。年は四十前後白薩摩に無地｜透綾《すきや》の羽織、白足袋に雪駄をはいた樣子、會社員とも見えず商人とも見えず、さうかと云つて藝人とも思はれぬ風采をしてゐる。多年休みなく都下の諸新聞に續物を書いてゐる傍折々芝居の狂言もかく。淨瑠璃もかく。演藝の批評もする。そんな事で世間にはかなり名が賣れてゐるのである。 「先生、さア、どうぞ。」と老人は格子戶をあけたが小說家は佇んだまゝ迎火の烟立迷ふ橫町を眺め、 「お彼岸とお盆だけは今だに昔らしい氣がしますな。時にお宅の庄さんは……もう何年目になります。」 「庄八ですか、六年目です。」 「六年、早いもんですな。ぢや來年は七囘忌ですな。」 「左樣です。老少不常人の命ほどわからないものはありません。」 「今年は方々で追善興行がありますが。どうです來年あたりは庄さんの七囘忌……まだどこからもそんな話はありませんか。」 「無い事もありません。實は一昨年三囘忌の時にもさういふ話しはあつたんですが、家《うち》の小憎にはちと分《ぶん》に過ぎた事だと思つて其のまゝにしてしまひました。」 「分《ぶん》に過ぎるといふ事もないでせう。兎に角惜しい藝人でしたな。」 「もう四五年壽命があつたら少しア見られるやうになつたんでせうが、何しろ若輩だ。二十三や四で死んだんぢやいくら性《たち》がよくたつて、まだまだ此れからといふ修行中の身ですからな。惜しいと思ふのはまア内輪の人情、また御贔負の慾目だ。それにあまへて一代の名人見たやうにやれ三囘忌だの七囘忌だのと大袈裟に追善會なんぞ持出すのは冥利に過ぎますよ。」 「お前さんの氣性から云へばそれも尤さ。然し以前の御贔負筋から自然とさういふ話が出たんなら、何も此方《こつち》から無理に賴んで人樣に御迷惑をかけるのぢやないからね。いゝやうに任《まか》して置いたらどうです。」 「仰せの通り何事も好かれ惡かれ御贔負のお心まかせ。老人は口を出さない方がいゝかも知れません。」 老人は小說家を奧の四疊半に案内した。こゝは狹い尾花家の家中《うちぢゆう》では先一番のお座敷、老人と其の女房同樣な老妓十吉とが幾年間起伏してゐる居間で、佛壇も飾りつけてある。わづかに二坪ほどながら石燈籠に火まで入れた中庭を隔てゝ、藝者の出入りする表口の六疊、往來へ張出した櫺子窓や格子戶が濡緣の葭戶越しに遠く透いて見え、涼しい夜風は隣の二階との隙間《ひやあひ》から絕えず吹通つて軒の風鈴を鳴してゐる。 「相變らず取り散らして居りますが、どうぞ、お羽織をお取なすつて……。」 「いや、結構、いゝ風が來ます。」と小說家の倉山《くらやま》先生は、扇子をぱち〳〵させながら、興味あり氣にあたりを見廻してゐる折から、煙草盆に菓子鉢を持つて來たのは藝者の駒代である。駒代は既に二三度こゝで倉山先生を見知つてゐるばかりでない。宴會や御座敷でお酌をした事もあるし、芝居や演藝會なぞで折々見掛ける事もあるので馴れ〳〵しく、 「先生、いらつしやいまし。」 「や、これは、この間の演藝會は結構な出來でしたな。奢《おご》つてもいゝ事がありさうです。」 「あら、嬉しいわ。私《わたし》見たやうなものでも、おごる筋があるんなら何でもおごりますよ。」 「云ひませうか。御主人の前で云つてもいゝなら云ひますぜ。はゝゝゝは。」 「仰有《おつしや》る事があるなら仰有いまし。そんな弱身はない筈なんですから、ほゝゝゝほ。」と華《はな》やかに笑ひながら立掛けた時、表の方から半玉の花子が甲走《かんばし》つた聲で、 「駒代姐さん――御座敷です。」 「はアい。」と返事をして、「先生、御ゆるり……。」と駒代は靜に立つて行つた。

倉山はぽんと灰吹を叩いて、「いつも御賑かですな。幾人《いくたり》お居でゞす。」 「只今大きいのが三人に小さいのが二人ですから、いやどうも騷々《さう〴〵》しい事《こツ》てす。」 「新橋中でも此方《こちら》の看板《かんばん》なぞは一番古い方でせうな。明治何年時分からです。」 「左樣さ、私《わたし》がそも〳〵この土地で始めて遊んだのが、忘れもしない西南戰爭の眞最中でしたからな。その時分にや内《うち》の十吉のお袋がまだ逹者で娘と一諸に稼いでゐましたつけ。世の中はまるで變りましたな。其の時分にや新橋と云つたらまづ當今の山の手見たやうなもんでしたね。藝者は何と云つても矢張柳橋が一でしたな。それから山谷堀、葭町、下谷の數寄屋町なんぞといふ順取りですかな。赤坂なんざつい此方まで蕎麥屋の二階へお座敷で來て、二貫も御祝儀を遣りやすぐ轉ぶつていふんで皆珍らしがつて出かけたもんでさ。」 倉山は成程々々と謹聽の態度を示し、そつと懷中から覺書の手帳を取出して老人の談片を書取る用意をした。倉山は誰に限らず年寄つた人の口から親しく過ぎ去つた世の話を聞き、それを書取つて後の世に殘す事をば操觚者たる身のつとめのやうに思つてゐるので、新橋邊まで來たついでには必ず尾花家を尋ねるのである。

尾花家の主人は倉山先生の注文には誠に以て來いといふ老人である。老人の方からも倉山先生は又とない咄し相手である。いそがしい今の世の中、何處《どこ》へ行つたとて倉山先生ほど飽きずに謹んで老人の愚痴や自慢咄を傾聽してくれる人のあらう筈はないので、暫く姿を見せないと先生はどうかしなすつたのぢや無いかと老人の方から心配する位である。

老人、名は木谷長治郞と云つて嘉永元年の生れ、本所金糸堀邊に住んでゐた小祿な旗本の嫡子《あとゝり》で、八代目三升そつくりといふ美男子だつたとやら、もし世が世なりせば宛然人情本中の人物たるべきを、丁度二十の聲を聞いた時幕府は瓦解して世襲の扶持に放れ、それからはいろ〳〵士族の商法に失敗した末は遂に藝が身を助ける不仕合。長治郞は少い時分から好きで覺えた講釋で口を糊りしやうと思立ち、當時名の賣れた一山といふ軍書讀みが亡父の知己であつたのを幸ひ其の弟子となり吳山と名乗つて高座に上つたが、性來の辯才と男前の立派なので忽の中に賣出した。する中に新橋尾花家の娘の十吉がさる贔負のお座敷で見染めて入り揚げ、とう〳〵晴れて亭主にしたのである。

長治郞と十吉の間には二人の男の兒が生れた。老人は長男の庄八に學問させ立派な人物にして、潰れてしまつた先祖の家を興させたいを思つてゐたが、藝者家の疊に生落ちた庄八は小學校へ通ふ頃から早くも遊藝を嗜む性質を示し始めたので、父親はきびしい意見の末再三手荒な折檻までした事があるが、遂に詮方つきて、そんなら一層其の方面で名を揚げさせるより仕樣がないと、十二の時市川團洲に賴込んで弟子にして貰つた。庄八は市川雷七と云ふ名を貰ひ團洲の歿後二十の時に名題に昇進して仲間から妬み嫉まれた程な人氣役者になつたが、不圖流行風邪から急性肺炎に冒され脆くも命を取られてしまつた。

丁度その頃に庄八の弟なる次男の瀧次郞――これは中學校も卒業間近まで進んでゐたが、或時各區の警察署で不良少年の検擧をした折、どういふ譯かその嫌疑で呼出され說諭を喰つた爲め中學は退校されてしまつた。それや此れやで老人はひどく世をはかなんだ矢先、講談師仲間と席亭の悶着が起り、老人はむしやくしや腹で四方八方へ當散した揚句、講釋師の鑑札を返してしまつた。

老人は根からの藝人ではないので、いつも頑固な事を云出して仲間のものから嫌はれてゐた。自分だけでは心底あきらめて世をも自分をもすつかり茶にしてゐるつもりであるが、知らず〳〵昔の氣位と性癖を現はすのであつた。師匠の一山が生きてゐた時分には折々宴會や御座敷なぞへも招れて行つたが、或時、さる成金紳士の新宅開に呼ばれ、御さし觸《さはり》になるやうな事をば興に乗じて滔々と辯立てゝ大失敗《おほしくじり》をやつた、其れ以来、お座敷藝は窮屈でいけないと云つて、どこから呼ばれても一切斷つて寄席の高座ばかりを勤めてゐた。講釋は高座で自由氣儘にやらなくちや面白いものぢやアねえ。吳山の講釋が聞きたけれア華族樣でも紳士でも寄席へ來るがいゝ。吳山は職人衆の前だらうが、紳士の前だらうが、相手を見て話をするんぢやねえと昔の風流志道軒もよろしく老いて益々壯に善く罵り善く人を笑はすので、これが却て人氣となり吳山の席は二八月の不入な時節にも相應に客足を引くのであつた。

倉山南巢が老人と懇意になり出したのもつまりは久しく吳山の出る席の定連であつた事からである。 「もう一度出て見る氣はありませんか。お前さんが止《よ》してから私《わたし》もとんと講釋場へは行きません。」 「何しろかういふ世の中になつちやもう駄目だ。講釋なんぞゆつくり聞いてゐやうといふ世の中ぢや御座んせんよ。」 「今の世の中は活動でなくつちや承知が出來ないのだからね。」 「義太夫も落語も總じて寄席はもうすたりでさ。」 「寄席ばかりぢやない。近頃は芝居も同じ事《こツ》てすよ。考へて見るとそれも無理はないのさ。今の見物は藝を見やうとか聞かうとか云ふのぢやない。唯何でもいゝんだ。値段が安くて手取り早く一つ處でいろんな物が見たり聞いたりしたいと云ふんだから、これア活動に限りまさ。」 「全くさ。先生の仰有る通り、ゆつくり役者の藝を見てやらうとか講釋師の讀振りを聞いてやらうとか、そんな事は今のお客にや面倒で面白くないんですね。だから席亭は不入でも講談筆記は賣れるといふぢやありませんか。私《わし》は蓄音機の藝と講釋の筆記はどうも好きませんて。ねえ、先生、一體何にかぎらず藝といふものは遣《や》つてゐる中に知らず〳〵氣乗りがして來るもんだ。其の氣乗が自然とお客へ移る。そこでお客の方も知らず〳〵氣を取られて力瘤を入れるやうになる。そこが藝の不思議といふもんで、きく方とやる方の氣合が通じ合つて來なかつたら藝にはならない。さうぢやありませんか。」 老ぼれた講釋師と古手の小說家とは冷えた澁茶に咽喉《のど》を潤しながら互に氣焰を吐く最中、 「おや入らつしやいまし。」と葭戶を片よせて這入つて來たのはこの家の女主人尾花家十吉であつた。

身丈《せい》のひくい橫幅の廣い肥つた婆さんである。然しよく待合や料理屋の女將にあるやうな見るから憎々しく肥滿し、人を見れば無暗とお世辭たら〳〵後を向けばすぐ舌を出しさうなふてぶて［＃「ふてぶて」に傍点］しい樣子は少しもない。眼の圓い頰の垂下つた福々しい顏立は誰が目にも腹藏のない好い人だと見える。今お座敷からの歸りと覺しく絽の鮫小紋に絽朱珍の帶を〆めた着こなしから一體の身體《からだ》つき何となく落ちついて當世らしからぬ處、新橋の藝者といふよりは河東か一中節の師匠とも云ひた氣《げ》である。十吉は全く見掛けの通り同じ年頃の老妓からも又生意氣盛りの若い妓《こ》からも誰からも惡く云はれた事のない極《ご》く隱な女である。十吉と同じ年頃の老妓逹はいづれも此の土地の幅《はゞ》きゝで皆《みんな》から大姐《おほねえ》さんで立て通されてゐるが、十吉はさういふ幅きゝの老妓逹のなす事には善惡ともに一切口を出した事がなく萬事組合の世話人のなすまゝに任《まか》しきつて置くので、さういふ人逹からは十吉さんは角《かど》のない物のわかつた人だと云はれてゐる。飜つて組合中へ幅《はゞ》がきかしたくも利《き》かす事の出來ない一部の不平連中または老妓でもなく若くもない中途半端な自前の姐さん逹からは十吉姐さん見たやうなさつぱりした慾のない人はないと感心されてゐる。時によつてはもう少し十吉姐さんに何とか口をきかせるやうにしたらばと氣の毒がられもするのである。然し十吉にはこの年になつて殊更面倒な組合の世話人なぞになつて、演藝會だの踊のさらひなぞの指圖《さしづ》をして幅をきかせ自分の家の抱えを無理にも賣出させやうといふ程の必要がないのである。それも長男の庄八が逹者でゐて今時分は立派な役者になり、又次男の瀧次郞が首尾よく學校でも卒業して末に望があるやうならば、身を粉にして稼ぎもし金をためもしやうけれど、一人は死んでしまひ、一人は不良少年となつて勘當同樣義絕同樣今では父の手前表向は出入をさせぬやうになつてゐるので、云はゞ自分と亭主の吳山と二人ぎりもう先の知れた餘生を送つて行けるだけのものさへあればよいのである。それには新橋開けて以來ずつと賣込んだ店だけに他《わき》から是非置いてくれと賴込まれる抱もあるし自分も出てさへゐれば年來御贔負のごく手堅いお客樣があるので結構その日の商賣は出來て行く。それにつけ思ふまいとしても思出されるのは矢張忰の事ばかり……。

十吉は靜に佛壇の前に坐つて念佛を稱へた後御燈明を消して扉を閉《し》め、表口の六疊へ戾つて絞の浴衣に着換へ何やら箱屋の婆さんと話をしてゐる中、來客の南巢先生は吳山老人に送られて歸りかける。 「アラお歸りですか、先生、まア御ゆつくりなさいましな。」 「ありがたう、その中また御邪魔に出ます。」 「久振で編笠でもさらつて戴かうと思ひましたのに。」 「はゝゝゝは。さういふ事ならいよ〳〵以つて長居は出來ませんな。この頃はもうとんと怠つて居ます。師匠にお會ひでしたらよろしく仰有《おつしや》つて下さい。」 「それではまたお近い中に……。」 十吉は老人と一｜緖《しよ》に奧の間に這入つて煙草を一服したが、仔細あり氣に「お前さん。」と呼掛けて、「駒代は二階にゐますか。」 「今方出たよ。」 「私《わたし》やちつとも知らなかつたけれど、あの、何だつてね、この間から濱崎さんへ行くのは力次さんの旦那に呼ばれてゐるんだつてね。」 「ふう、さうかい。」と老人は夏蜜柑の皮を干した煙草入を光澤《つや》ぶきんで拭《ふ》きはじめた。 「實は二三日前力次さんと一所になつたんだよ。すると何だか妙な事を云つてるから變だとは思つたけれど、さうとは氣がつかなかつたのさ。處が今夜すつかりお客樣から其の事を聞いてはゝアと思つたのさ。」 「ぢやアあれも見掛によらずなか〳〵腕があると見えるね。」 「何だか私が知らない顏をして取持でもしたやうに思はれるといやぢやないか。」 「何さ、なまじ口を出さねえがいゝ。打捨《うつちや》つて置きなよ。出來る前に相談でもされたんなら知らねえ事出來てしまつた後ぢや仕樣がないやな。だが此の頃の子供は皆いゝ腕だな。あの妓《こ》ばかりに限つた話ぢやねえ、此の頃の妓《こ》は義理といふ事を構はねえのだから何處《どこ》へ出しても强いもんさ。」 「ほんとうだよ。今夜いろ〳〵話を聞いたんだがね、旦那の方から身受の話まで持出してあるんだとさ。引かして世話をしてやらうと仰有つてるんださうだけれど駒代の方ではつきりした返事をしないんだとさ。」 「彼奴《あいつ》もこの頃は大分出るやうになつたんで、何か途方もねえ夢でも見出したんだらう。」 「まアあゝして稼いでゐてくれゝば家《うち》ぢやそれに越した結構な事はないんだけれど、誰にしろいつまでも若くつてゐるんぢや無いからね、世話をしてやらうといふ方があるなら、その方《かた》の云ふなりになる方が當人の爲めだらうがね……。」 「一體その旦那といふのは何處のお方だ。華族さまか。」 「力次さんの旦那なんだよ。」 「だからその旦那といふのはどう云ふ方だ。」 「お前さん、知らないのかい。そら、あの何とかいふ保險會社の方だよ。三十七八かね、まだ四十にやお成りなさるまいよ。お髯のある立派な好い男さ。」 「大したものを見付けたな。それぢや商賣が面白くつて止められねえのも無理はない。旦那がいゝ男で道樂に六代目か吉右衞門でも色にすりやそれこそ兩手に花だ。はゝゝゝは。」 「お前さん見たやうな呑氣な人アありやしない……。」と十吉は呆れて腹も立てぬといふやうな顏付をして灰吹をぽんと叩いた。折から表の方で電話がしきりに鳴出す。「誰もゐないのかね。」と云ひながら十吉は退儀さうに立上つた。

五 晝の夢

