# 友情

## Part 1

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Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka

Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.

Title: 友情 (Yūjō)

Author: 武者小路実篤 (Saneatsu Mushanokoji)

Notes on the signs in the text

《...》 shows ruby (short runs of text alongside the base text to indicate pronunciation). Eg. 其《そ》

｜ marks the start of a string of ruby-attached characters. Eg. 十三｜年目《ねんめ》

［＃...］ explains the formatting of the original text. Eg. ［＃ここから３字下げ］ -------------------------------------------------------

友情 武者小路実篤

上 編

一

野島が初めて杉子に会ったのは帝劇の二階の正面の廊下だった。野島は脚本家をもって私《ひそ》かに任じてはいたが、芝居を見る事は稀《まれ》だった。此日も彼は友人に誘われなければ行かなかった。誘われても行かなかったかも知れない。その日は村岡の芝居が演《や》られるので、彼はそれを読んだ時から閉口していたから。然し友達の仲田に勧められると、ふと行く気になった。それは杉子も一緒に行くと聞いたので。

彼は杉子に逢ったことはなかった。しかし写真で一度見たことがあった。それは友達三四人とうつした十二三の時の写真だったが、彼はその写真を何気なく何度も何度も見ないわけにゆかなかった。皆の内で杉子は図ぬけて美しいばかりではなく、清い感じがしていた。彼はその写真を机の前に飾っておいたら、きっといい脚本がかきたくなるだろうと思った。しかし彼は仲田に写真をくれとは云えなかった。そして其後仲田の処へ行ってももう一度その写真を見せてもらうことは出来なかった。そして当人にも逢うことは出来なかった。一度、声を聞いたことがあるように思った。しかしそれは杉子ではなく、杉子の妹の声だったかも知れなかった。

彼が帝劇に行った時はまだ少し早かった。彼は廊下に出て今に仲田が妹をつれてくるかと思った。それを心待ちしていたが、若い女をつれてくる男が仲田ではないと返って安心もした。

彼はその時、村岡が友達二三人と何か声高に話しながらくるのに出あった。彼は村岡とはある会で一度あったことがあるが、目礼をしたりしなかったりする間がらだった。そしてこの頃は逢っても知らん顔をすることを努めていた。それは彼が村岡のものをよく悪口云ったからである。今日やられる芝居も彼は公にではないが、可なり悪口云った。元よりそれは文学をやる仲間同士で云ったので法科に行っている仲田とは殆んど文学の話はしなかった。仲田は彼が村岡のものを嫌っているなぞと云うことは知らなかった。新らしいものだから、それに評判のいいものだから、彼もきっと見にゆくだろうときめていた。それで説明掛位に彼をつれて芝居を見ようと云うのだった。彼はそれに気がついてはいた。そしてそれを迷惑にも思った。しかし断る気にはなれなかった。

彼は村岡と顔を見合せた。両方がお辞儀したそうにも見えた。しかしどっちも自分の方からさきにお辞儀しようとはしなかった。お世辞のように思われるのもいやだったのだろう。或は先にお辞儀して相手に見くびられるのがいやだったのだろう。少なくとも村岡は彼より四つ五つ上で、世間にももう認められていた。彼は五つ六つ短かい脚本をかいたが、誰にも顧みられなかったのは事実だ。しかし彼は自分の方から頭をさげるには、相手を軽く見ていた。 とうとうお辞儀せずに村岡は通りすぎた。彼がふとふり返った時、村岡は友達と彼の方をふり返って何か云っていた。 「あれが野島だよ」 「あれか。くだらない脚本をかく奴は」 そんなことを云っているように思った。そして急に不快を感じながら顔をそむけると、向うから仲田が、妹の杉子とやって来た。

写真よりはずっと大人らしくなったと思った。だが若々しく美しかった。 「もう、君は来ていたのか」 「ああ、少し前に」 「之《これ》が野島君だ。僕の妹だ」 二人は黙って丁寧にお辞儀した。

二

野島は杉子とは殆んど話をしなかった。杉子が芝居を感心して見ているらしいのに不愉快を感じた。しかしそれは無理もないとも思った。仲田も感心しているようなことを云ったが、それはむしろ彼にたいするお世辞のように見えた。 「やはり新らしいものは、我々に近い感じがするね」 そんなことを仲田が云った時、彼は別に反対する気にはなれなかった。 「飯を食おう」 仲田はそう云って先に立って行った。三人は向いあって飯を食った。仲田の妹は野島のいるのを別に気にはしていないらしかった。しかし殆んど饒舌《しやべ》らなかった。そして二人の話を別に注意して聞いてもいなかった。それよりは同じ齢《とし》頃の女の人が居ると、その女の方を注意しているようだった。

野島はそうはゆかなかった。彼は杉子の誰よりも美しいことを感じた。そして杉子のわきにいることをこだわらないではいられなかった。いつも仲田には無遠慮になんでも云えた彼が、今日は何一つこだわらずには云えなかった。村岡のものの悪口も彼は思い切って云えなかった。しかし彼は心のうちによろこびを感じた。そして呑気《のんき》なこと許《ばか》り、いつもより調子にのって饒舌った。それが又彼には卑しいようにも思えたが、心のよろこびはややもすると言葉となって、あふれ出て来た。そして杉子が少しでも笑うと彼は幸福を感じた。やがて幕のあくリンが聞えても彼はいつまでも其処《そこ》に腰かけていたかった。 しかし杉子はあわてて立った。

二人もあとをついて芝居を見に行った。彼はもう芝居は気にならなかった。ただ何げなく杉子の顔を見る機会をつくることに苦心した。ここに自然のつくった最も美しい花がある。しかも自分の手のとどくかも知れない処に。しかし彼は杉子とは一言も話す機会をつかめなかった。ただ兄と話すのを聞いて、快活な、思ったことは何んでも平気で云う質《たち》だと思った。そしてはっきりものを云う頭のわるくない女だと思った。

次の幕の間に彼は、とうとう聞いた。 「君の妹さんはおいくつだ」 「十六だ。まだ本当の子供だ。背許り大きいが」 「そうか、僕はもう十七八位かと思った」 彼は本当はもう十九か、二十ではないかと思っていた。十六ならまだ安心だ。自分と七つちがいだ。自分が少し有名になる時分に、丁度十九か、二十になっている。

彼はそんなこと迄考えていた。彼は女の人を見ると、結婚のことをすぐ思わないではいられない人間だった。結婚したくない女、結婚出来ない女、これは彼にとっては問題にする気になれない女だった。 そう云う女にいい女がいると彼は一種の嫉妬《しつと》さえ持ち兼ねなかった。女は彼にとっては妻としてより他、値のないものだった。結婚が彼にとってすべてであった。女はただ自分にだけたよってほしかった。 そう云う彼が杉子を見て、すぐ自分の妻としての杉子を思うのは当然であった。彼はそう云う女を求めていた。そして杉子がそう云う女ではないかと私《ひそ》かに思っていた。ところが事実は理想的以上に見えた。自分には少し勿体なすぎるようにさえ思えた。そして仲田が、その女を自分の妹あつかいし、馬鹿にしているのを勿体ないことをする奴だ位に感じた。 その晩、帰っても杉子のことを思わないわけにはゆかなかった。

三

二三日たっても彼は杉子のことを忘れなかった。反って益々理想化して来た。彼は自分の心の平静を失いかけた。次の日曜の朝に彼は仲田の処に出かけて見たが、杉子らしい声さえ聞えなかった。彼は仲田と話しても杉子のことに気をとられて、つい仲田の云うことを聞きもらすことさえ多かった。そして何となくおちつかなかった。仲田とはロシヤの過激派について話していた。 「食うに困れば人間はなんでもする。日本だって今よりせめて倍も米が高くなれば黙っていたって皆、過激派になる。圧迫し切っても、何処かにすきはあるものだ。ロシヤに過激派の起ったのは当然だ。又それに反対するものの出るのも当然だ。当然と当然がぶつかって、殺しあうのも当然だ。だがそれで益々米がたかくなるのも当然だ。この当然を何処かで切りぬけて、皆に飯を食えるようにするのが問題だ。まあ、見ているより仕方がない」 仲田はそんな事を云っていた。 「当然だが、段々血なまぐさい方に、加速度に進んでゆきそうだ。それも当然だ。しかしもう皆、平和にあこがれているだろう。今偉大な人間が出て来て、それが民衆の希望と一つになれば大したことが出来る。しかしそれは想像以上の事実で、ロシヤには人物も沢山いるだろうから、今に事実によってある解決を与えてくれるだろう。その解決を与えてくれるもので、世界の思想が、大きな影響を受けるだろう。自分はレニンや、トロツキー以上の人物が今に頭をもちあげると思う。何処か思いもかけない処で」 野島はそんなことを云ったが、心はほかにあって、いつものように興奮することは出来なかった。何かもの足りない。何かおちつかない。彼は立ったり、坐ったりした。いろいろの本をもちだしてはひろいよみした。 「君はどんな人間を尊敬する」 仲田は不意にそんなことを聞いた。 「君の妹さんのような方を」と彼はふと云いたくなったが、まさか口には出せなかった。 「僕は、やはり、正義の観念の強い、意志の強い、信じることを行う人間が好きだ。しかし出来るだけ他人の運命を尊敬するものが好きだ。何と云ったって聖人や、神のような人は偉い、一時的の波瀾の為に浮き沈みする人間は尊敬することは出来ない。それから惨酷《ざんこく》な冷たい人間は嫌いだ。いつも損をしないこと許り考えているものも嫌いだ。何処かに人間の面白みが出なければ」 この時、隣りで杉子らしい笑い声が聞えた。しかしそれはすぐ消えて、向うの室《へや》に行ったらしかった。 「君の理想はどうだ」 「僕は迷っている。今の政治家の考え、今の法律の基礎は随分｜白蟻《しろあり》にたかられている気がするよ。之《これ》からの政治家はどう手をつけていいかわからない。目的は世界中の平和、人類の幸福にあることはわかっている。それを又乱さずに国民の幸福を樹立しなければならないこともわかっている。富の不平均も、殊《こと》に食えない人間の運命を今のままにしておくことのよくないことも知っている。しかしそれをどうしたら一番いいか、それはわかっているようでわかっていない。第一官吏になる気もしないし、実業家になる気もしない。学者になりたい気もするが、嵐のなかにじっとおちついて室にこもっているのが、本当か譃《うそ》かもわからない。実際、今の法科の学生は自覚をちゃんとつかんでいる人は少ないだろう。何かに動かされてはいるだろうが、それで皆議論は多いがね」 仲田は野島がうわの空で聞いているのがわかったか、話をぷつっとやめた。 「なんでもいいさ。ぶつかればわかるだろう。皆その人のもっている価値だけきり発揮出来ないのだからね」

四

野島は昼迄いて、仲田の家を辞した。杉子にはとうとう逢えなかった。彼はなんだかものたりない気がして四つ角を右に曲った。すると十五六間さきから杉子が、生花をならいに行った帰りと見えて葉蘭《はらん》を油紙につつんで持って帰ってくるのに出あった。彼は不意なのでびっくりして、立ちどまった。そして気がついて歩き出した時分に、杉子は近づいて来て少し微笑《ほほえ》み加減にあいさつした。彼もあわてて丁寧にお辞儀した。彼は何か話しかけたかった。しかし言葉は出なかった。

杉子は通りすぎた。彼は夢中で、二三十歩歩いてふりかえった時、もう杉子の姿は見えなかった。しかしこの僅《わず》かなことが、急に彼を別人のように快活にさせた。

物質論者に云わすと、ここに何かしらない物質が、恋する者から厚意を見せられると、血管のなかに生ずるらしい。人はその時｜自《おの》ずと快活にならなければならない。野島は二十三にはなつていたが、女をまだ知らなかった。

野島はこの気持を自家に帰ってももっていた。そして誰かに杉子のことを讃美して話したい気になった。彼はもう杉子のいる人生を罵《ののし》る気にはなれない。彼は自然がどうして惜し気もなくこの地上にこんな傑作をつくって、そしてそれを老いさせてしまうかわからない気がした。 ともかく彼は日本の女の内に、殊に自分の近い処に、杉子のような女のいることを讃美し、感謝したい気になった。日記にこんなことをかいた。 「人生は空かも知れないが、そして色即是空かも知れないが、このよろこびは何処《どこ》からくる。このよろこびを我等に与えてくれたものに、讃美あれよ」 彼は家にじっとしてはいられなかった。何処かに行かないと、おちつかない気になった。彼は一番親しい大宮を訪《たず》ねることにした。 うちにいるといいがと思ったら、やはりうちにいた。その友は小説をかいて少しずつ世間に認められて来、彼のものよりはいつもほめられていた。この事は彼を時に淋しくさせた。しかし大宮との友情はそれで傷つけられるわけはなかった。お互に尊敬していた。大宮は殊に彼の作物に厚意を見せ、世間が悪口を云う時は、淋しがる彼を慰めることに骨を折った。野島はそのことを思うと涙ぐみたい気さえした。彼が当時自信のある作をあつめて本を出した時も、大宮が自分の本でも出すように骨折ってくれた。そしてその本が或人からさんざん悪口云われた時、大宮は彼を祝して、 「君は前に復讐を受けているのだ。君程よわらなくっていい人間はないと思う」 と云ってくれた。彼はその時、泣きたい程大宮の友情に感じた。そして大宮を自分の知己としてその期待を辱《はずかし》めたくないと決心した。二人はお互に慰めあい、鼓舞しあった。勿論、ある時は、お互に手きびしく批評しあって腹を立てあったこともあったが、すぐなおって、反って相手の云うことが尤《もつと》もだと気がついてあとで心のうちで感謝し、なお友情のますのをおぼえた。

大宮は彼が来たのを喜んだ。そして今まで読んでいた内村さんの本などを見せた。大宮は内村さんのものを愛読していた。

大宮の書斎には以賽亜《イザヤ》の四十章の、 「然《さ》れどエホバを挨《まち》望むものは新なる力を得ん。

彼等は鷲《わし》の如く翼を張りて登らん。

走れども疲れず、歩めども倦《う》まざるべし」 と云う字が新にかかれてピンではってあった。野島はそれを見て充実し切った、力強い言葉だと思った。

五

彼はしかし杉子のことを云い出す機会がなかった。又云おうかと思うと同時に云いたくない気もした。

二人は文壇の話や、自分達の仕事の話や、読んだ本の話などした。そして自分達のしなければならない仕事の困難な、しかし希望の多い話をした。 この時、大宮は今朝ある雑誌から小説をたのみに来たと話した。その雑誌は有名な雑誌で、その雑誌に小説を出すと、小説家としての存在を世間に知られることになるのだ。

彼はその話を聞いた時、やはり少し淋しくなった。物質論者ならば、その一言で野島の脳のなかに何か毒素が生れたと云うにちがいない、野島もまたそんな気がした。嫉妬、そんな名のつく。彼はそれに打ち克《か》とうとした。又友の成功は自分達の成功を意味するものだとも思っても見た。しかし毒素はどいてはくれなかった。自分は実際自分を信じているが、彼は自分に時々不安を感じないわけにはゆかなかった。大宮はそれにすぐ気がついたらしかった。大宮は、 「こないだ津田にあったら君のものに随分感心していた」 と云った。此一ことは彼の毒素を消滅させるのに最もききめのある注射だった。彼は自分ながら情けない程、他人によって自分の気分があがりさがりするのに気がつかないわけにはゆかなかった。彼は大宮と希望のある話をし、そして大宮の今度その雑誌に出す作のいいことを信じ、そして自分達の勝利の道が近づきつつあることを祝した。

帰りに彼は自分の人格のあまり上品でないことを反省した。自分は杉子の夫に値しないものだ、勉強しなければと思った。

彼は自分にたよるものを要求していた。自分を信じ、自分を讃美するものを要求していた。そして今や、杉子自信にその役をしてもらいたくなった。杉子は彼のすることを絶対に信じてくれなければならなかった。世界で野島程偉いものはないと杉子に思ってもらいたかった。彼の仕事を理解し、讃美し、彼のうちにある傲慢《ごうまん》な血をそのままぶちあけてもたじろがず、かえって一緒によろこべる人間でなければならなかった。 しかし彼は自分を顧みる。そして自分の尊敬する人々のことを思う。自分の力なきものだと云うことをあまりに露骨に知らないわけにはゆかなかった。まだ二十三だ。しかしそんなに偉い素質があるだろうか。ただ自惚《うぬぼれ》にすぎなくはないか。

彼は日本の文壇の先輩を心私かに軽蔑していた。しかし自分の現在の仕事を思うと、彼等以上とは云えない気がした。

彼はイプセンや、ストリンドベルヒ、トルストイ、そんな人のことを思うと情けない気がした。自分が一体文学をやるのさえ、僣越《せんえつ》なのではないかと思った。

世界には嵐が吹きまくっている。思想の嵐が。その真唯中に一本の大樹として自分が立ち上って、一歩もその嵐に自分を譲らない、その力がほしかった。 そしてその力を与えてくれるのは。

杉子だ。杉子が自分を信じてくれることだ。 「妾《わたし》はあなたを信じています。あなたは勝利を得る方です。あなたの誠実と、本気さは、あなたをどこまでも生長させます。淋しい時は妾がついています。しっかり自分の信ずる道をお歩きなさい。あなたの道は遠く、あなたは馬鹿な人からは軽蔑されます。だがあなたはあなたでなければ出来ない使命をもっていらっしゃいます」 こう云ってくれたら。あの美しい、清い、生々した、純粋な杉子から。

彼は先ずその資格をつくりたいと思った。 「杉子はまだ若い。四年たてば俺だって今の俺ではない」

六

彼はそんなことを思っては見たが、杉子を十六だとは思えなかった。そして十七八で結婚しないとも限らない。杉子は男の注意を惹《ひ》かないには美しすぎる。誰か杉子を見て心を奪われない男があろう。仲田の友達は可なり多い。それ等が杉子に気がつかないわけはない。そう云えばいつか仲田が妹に手紙をよこした不良青年があるように云っていた。彼は不安を感じないわけにはゆかなかった。彼は恋するものの不安を感じないわけにはゆかなかった。

彼にも一人の妹がいて、今は夫と一緒に外国に行っていた。今年二十一になる。彼は妹が齢ごろになってから、いろいろの男の人が妹に近づこうとしたのを思い出した。妹はそう美しい女には思えなかった。しかしそれでも妹の処にいろいろ機嫌をとりにくる者のあるのを感じた。妹が琴をならいに行っていた。其処に尺八をならいに行っていた男が時々来たことがあった。彼はその男を嫌って、その図々しさを心配した。そして妹が笑いながら呑気にその男と話するのを見ると、ある不安さえもった。しかし妹もその男を軽蔑していることを知って安心した。

又自分の友達で女のこときり興味をもてない男が、自分に話もないくせによく来て、妹にいろいろ土産をもって来たり、手紙をよこしたり、歌留多《カルタ》やトランプをしたがったりするのを気にしたこともあった。それやこれや考えると彼は齢《とし》ごろの娘をもつ親や、兄や、妹の心配をはっきり感じることが出来た。どうかして真面目な、そして妹のことを本当に思い、愛してくれる人が妹の夫になってくれればいいがと思った。 しかし幸いに彼の妹は馬鹿ではなかった。運命が許した最もよき人を選んだ。彼はその時心から安心した。杉子のことを思うに従って餓《う》えたる狼《おおかみ》がすきをねらっているような気がした。自分の妹より何層倍美しいかわからないだけ、彼はその心配をしないわけにはゆかなかった。

仲田は友達づきあいの多い方だった。殊に仲田の母は人ずきのいい人で、夫の無口のせいか、一人で愛想よくし、若い人達のくるのをよろこんでいるようにも見えた。彼も仲田の母に二三度あって、お世辞を云われたことがあるが、彼は無愛想の方なので、この頃は仲田の母は彼の処には殆んど出て来なくなった。

娘を射るのには先ずその母を射よ。こんなことを云って母にとり入って、首尾よくその娘と結婚した男の話を彼はいつか、大宮から聞いたことがあった。彼はその時可なり不愉快を感じ大宮と二人でその男の悪口を云ったことがあるが、彼は杉子の母に自分の印象の面白くないことを自覚することは、今の彼にとっては少し打撃であった。

七

彼には結婚することが二人にとって幸福でなければならなかった。又よろこびでなければならなかった。杉子が自分の処によろこんで来てくれなければ、彼の自尊心はむしろ結婚したくないと思いたがった。だが彼は杉子を失うことは考えてもたまらないことだ。

彼はその後仲田の処に三四度行ったが、杉子には逢えなかった。杉子の学校の帰りに二度逢いに行って、一度逢った。その時杉子は四五人の友達とうれしそうに笑いながら声高に話していたが、彼を見ると、いつもの人なつかしげに無邪気なあいさつをした。彼も丁寧にあいさつした。彼は実際うれしかった。

彼はある日の晩大宮の処にあそびに行った。そして彼が帰る時、大宮が送ってくれた時、彼は杉子を恋していることを白状した。大宮と仲田は友達ではなかった。しかし大宮は杉子のことを知っていた。 「その人なら僕の従妹《いとこ》と同じ学校にいる人だろう。どんな人か従妹の人に聞いて見てもいい。いい人だと思うが」 「聞けたら聞いてくれたまえ、いくら評判がわるくっても、僕は彼女を信用はするが」 「僕も一ぺん従妹の処で写真を見たかも知れない。その人なら中々綺麗な人だった」 「中々ではまだ不服だね」 二人は笑った。 「ともかくうまくゆくといい」 「しかしまだ十六だからね」 「一、二年は大丈夫だろうが」 「今、そんな話をしたら第一当人がおどろくだろう。まだ無邪気な女だからね」 彼はうちあけたので、その後も時々、大宮の処に杉子を讃美しに出かけた。大宮は友達に、「野島のくるのもいいが、杉子の話には閉口だ」と云った程。

彼はそれを聞いて、大宮には杉子のことは何にも云ってやらないと決心した。その決心はすぐきえて、相変わらずその話をしに大宮の処に出かけた。そして日本の女の悪口を云うものがあると、彼は腹のうちにあざ笑った。 「君達はまだ本当の日本の女を見たことがないからだ。見ればもうそんなことは云えなくなる」 何処の国だって本当の善人は多くない、甚《はなは》だ少ない。美しい人も多くはない、甚だ少ない。しかしいないことはない。ただそう云う人に滅多に逢うことが出来ないだけだ。

彼はその滅多に逢うことの出来ない人に逢った。彼は杉子と夫婦になることを考える、それは楽園にいることを考えるようなものだった。新聞を見ても、雑誌を見ても、本を見ても、杉と云う字が目についた。そして目につくとはっとした。しかし彼はまだ殆んど杉子とは一言も言葉を交《かわ》さなかった。

或る日だった。彼は又仲田の処に出かけた。すると杉子が門から出るのに逢った。それが不意だったので彼は反って気軽に言葉をかけることが出来た。 「仲田君はうちにいらっしゃいますか」 「ええ」 「何処にいらっしゃるのです」 「お花の稽古に」 これだけの会話が、彼にとっては鬼の首でもとったように嬉しかった。よく言葉がかけられたと自分で感心した。そして彼女は自分を嫌っていないと思った。

彼は自分の室に杉子がいけた花をかざることを空想した。彼はいつもの三倍も元気に仲田と話した。

仲田は何かの話の途中で、 「本当に世のなかにはいやな奴がいるよ。いつか妹に手紙をよこした奴が、又手紙をよこした。まだ十六になるかならない無邪気な女に、もう心をもやしているのだからね。たまらないよ。いやになってしまう」

八

彼はその手紙をよかったら見せてくれと云った。 「随分虫のいい手紙さ、自分のこと許《ばか》り考えていて、相手の意志をまるで見ていないのだからね。女を物品かなんぞのように思って、自分が欲しいと云う強さだけをたてにして要求してくるのだからね」 「相手はどんな人だ」 「文士の卵だそうだが、どうせそんなことをするのは……」 と云いかけて、 「君は別だがね」と仲田は笑ってつけ加えた。 「それで君の妹さんにその手紙を見せたのか」 「見せやしない。まだほんの娘だからね。そんな問題には今からふれさしたくない。せめて自分で男のよしあしがはっきりわかるようになる迄はね。そして結婚と云うことを本当に知り、自分で進んで結婚したいと云う気が起るまではね。君も君の妹さんの結婚には随分心配していたね。僕もまだ十六に切りならない妹の為にもう結婚のことをそろそろ心配しなければならないと思うといやになるよ。もう、結婚の申込みがちょくちょくあるのだからたまらない。一切、僕が握りつぶしているのだ。もう少し独立した考えが出来るまでは、せめて夫を選択する権利だけは当人の為に保存しておきたいからね」 野島は、仲田の一言一句で自分の心が左右され、上ったり下ったりするのを醜く、浅ましく思った。

仲田はたち上って、まもなく手紙を持って来た。 「今日偶然、私の誕生日にあなたに三月ぶりで往来でお目にかかったことは、私にはただの偶然とは思えませんでした。それでもう一度手紙をかかして戴きます。私にはあなたを赤の他人とは思えないのです。自然がこんなにまで強くあなたのことを思わないではいられないように私をつくってくれたことを、私には無視することは出来ないのです。其処には何かの意志がはたらいていて、私があなたを得る為に出来るだけ骨折ることを命じているように思えるのです。その命令に従うと云う理由で私はこんなあつかましい手紙を、清いあなたにかくのです。私の心はあなたはもう感じていて下さるでしょう。私は何にも云いたくはありません。私はあなたに値しないものと云うことは感じて居ます。しかし私はあなたなしに生きるのは淋しすぎるのです。運命があなたをつくり、私をつくり、そして二人を逢わしたことを、私は無意味とは思えないのです。二人が一つになることが二人にとって最大幸福であり、又それが何かの意志だと思うのです。私はあなたの運命を傷つけることを恐れることでは誰にもまけません。あなたの幸福をのぞんでいます。あなたが私の処にくることがあなたにとっても一番幸福のように思うので、こんな手紙をかくのです。私のことは気になさらないで、あなたの一番幸福を自由につかんでほしく思います。私はあなたの前に跪《ひざまず》いて、泣いてあなたの手を要求したくは思いますが、私も男です。あなたの意志を尊重します。私の手に帰るのが本当でしたら帰って来て下さい。道をきよめて待っております」 仲田は野島のよみ上げるのを見て云った。 「一種の気違いだね。馬鹿だね。あきれてしまった」 野島は自分の滑稽画を見せられたようないやな気がした。 「君の妹さんはその男の人を知っているのか」 「ああ、へんな目をして、妹に逢うと立ちどまって、妹の方を見るので、妹も気違いなのだろうとこわがっていたよ」

九

野島は自分も杉子にそんな風に思われてはたまらないと思った。しかしその手紙を兄の意見一つで杉子に見せないのも乱暴だと思った。 「手紙を見せないのも可哀そうだね」 「妹が十八にでもなったら見せてやってもいい。しかしその時分になったら、この男はもう他の女と結婚して、妹と結婚出来なかったことを反《かえ》って幸福に思っている時分だろうよ」 「そうか知らん。それ程不真面目な人ではないらしくもある」 「あてにはならないよ。僕の知っている奴に、ある女を夢中に恋して、その女と結婚出来ないと死ぬようなことを云っていた奴があった。ところがその女がふとした病気で死んだのだ。その時は気違いのように泣いていたが、半年もたたない内にちゃんと細君をもらって今では幸福にくらしている」 「しかしその女のことを時々は思い出すだろう」 「しかしその女でなければとは云えないだろう。男と女はそう融通のきかないものではないよ。皆、自分のうちに夢中になる性質をもっているのだ。相手はその幻想をぶちこわさないだけの資格さえもっていればいいのだ。恋は画家で、相手は画布だ。恋するものの天才の如何《いかん》が、画布の上に現れるのだ。ダンテにとってビアトリチェはただの女ではなかったろう。神のようなものだったろう。しかし他の恋する男にとってはただの女だ。ある男から見れば雌にすぎなくも見える。恋が盲目というのは、相手を自分の都合のいいように見すぎることを意味するのだ。相手はそう唯一と云うことはないのだ。その人にめぐりあわなければ恋は生じないときまったものじゃない。彼女となる資格のあるものは世界には何千、何万といる。だから自分の内にある恋も生きるのだ。もし彼女が世界に一人きりだとして見たまえ。齢ごろになるとなにはすてても相手をさがして歩かなければならなくなる。しかし恋の相手にぶつかる位は、学問をした片手間で沢山だ。又毎日の仕事をした余暇で沢山だ。むしろ逢わないでよそうと思っても、つい逢う程、彼女は世界にごろごろしているのだ」 「しかし」と野島は云った。「だが一生彼女に逢わない人もあるだろう」 「いや、それは布があっても画《え》のかけない人だ」 「しかしかいてしまった布は、かかない布とはちがうだろう。ある人に恋される資格のある女は唯一でないかも知れない。だが恋してしまったら、その人にとってその女は唯一になるだろう。僕の知っている人に、もっといい女に逢わないとも限らないと思うのでなかなか結婚する気になれないと云っていた奴があるが、ふとしたことである女、はたから見るともっといい女がいくらでもありそうに思う女だったが、それと知りあいになって、その内に深く恋してしまって、その女と結婚の出来ない事情の為に、つい二人で心中してしまった奴があった」 「世はさまざまだ。中々理窟通りにはゆかない。親の云う通り結婚して、幸福になった奴もあれば、自分の恋している女と無理に結婚してすぐ飽きる奴もいる。結婚出来ないと云って心中しかけて未遂で助かって、まもなくお互に顔を見るのもいやになった奴もいれば、五年たっても十年たっても同じ女のことを思ってくよくよしている奴もある。しかし大概の人はいい加減に恋して、いい加減に結婚するのだね。それが又利口らしい。要するに恋だけが人生じゃないからね。もっと自分達にはしなければならない仕事がある」 「それはそうだ」彼はもう仲田と恋の話はしたくなかった。それで話をほかにむけた。

十

その晩、彼は大宮に随分逢いたくなった。大宮には自分の気持が本当にわかってもらえると思った。大宮はうちにいた。そして彼が来たことをよろこんだ。 「あの人のことを聞いたよ。大変ほめていたよ。器量は、君は不服だろうが、十人並よりは美しい方だそうだが、性質は無邪気で、快活で、一緒にいるとへんに人を愉快にさせる性質をもっていて、身体の随分いい人だそうだ。僕はそれを聞いて、なおその話がうまくゆくといいと思ったよ」 「あの女の美しさはそう他の奴にはわからないさ。今日実は仲田の処に行ったら、門の処で出あったのだ。そして話さえしたよ。本当にあんな美しい奴は滅多にないね」 「君にだけその美がわかるのだろう」 「しかしね。その女の美がわかるのは僕だけではないのだ。方々からもう結婚の申し込みがあるらしいのだ」 それから彼は手紙をよこした男や、仲田の恋愛観などを話した。 「いやになってしまったよ。あんな兄貴をもっていたら、あの女も碌《ろく》な女にはなれないような気がしたよ。いやにつめたいのだからね。女なんか誰でもいいのだ。そして恋なんかに同情するのは馬鹿気ている以上につまらぬことに思っているのだ。僕が妹を好きなのを内々察してわざとそんなことを云ったのかと思って腹が立ったよ。あいつも一ぺん恋でもして見るといいのだ」 「道楽者にはもう恋はわからないよ。仲田にとってはどの女も同じなのだろうよ。しかし本当に恋したものは、失恋はするものじゃないと云っているよ。それは随分淋しい。耐えられない程淋しいものらしいよ。その女の夢なんか見るとどうしていいかわからない程淋しいもので、本当に失恋するものじゃないと思うそうだよ。だから君も、遠慮せずにぶつかるだけぶつかって見るがいいのだ」 「だけど、一人の女を多勢が恋するのが自然だと思うと僕はいやな気がしたよ。皆、ムキになって一人の無垢《むく》の処女をねらっていると思うと恐ろしい気がするね。その内にはいろいろの奴が居るだろう。出世しようとか、持参金をあてにするものもあるだろう。弄《もてあそ》ぶこと許り考えているものもあるだろう。又あまったるいこと許り考えているものもあるだろう。思ってもたまらない。自分がその一人だと思うとなおいやになる。そして彼女はそれを何も知らないような顔して、又それをのぞんでいると思うと、へんな気がする。蜜蜂の受胎をする時の話があるね。女王蜂がとべるだけ高くとぶ、それを無数の雄蜂がおいかける。羽のよわい奴から段々消えてゆき、だんだん雄蜂の数がへり、最後に二三｜疋《びき》のこり、それが又お互に出来るだけ競争しとうとう一疋になる。それは雄蜂の内の最も勇士であって、そして職務を果すと、身はこなごなになって死んでおちてくる。人間と蜜蜂とはちがうが、最も人間として優《まさ》った男を彼女が選んでくれればいいが、甘言や令色でだまされてはたまらないと思うね。僕は恋は仲田の云うように布の上に画をかくのとはちがうと思う。それはあまり相手を見なさすぎる。それはそう云う傾きのある恋もある。実際恋の出来ない人は多いかも知れない。そして布は最も美しく自分の上に画をかくことの出来るものを愛するのかも知れない。しかしもう少しお互の精神が、何処かで働いていると思うね。意識の出来ない処でお互に引きあっているように思うね。それはお互に餓えすぎていては困る。しかしさもなければ、お互の心が一つになるので、其処にある幸福の殿堂、美の殿堂が出来上るのだと思うね。相手の意志がまるで加わらないで一人｜角力《ずもう》をとる恋もあるだろう。しかしそれは自然とは思われないね」 野島は自分で云っている内に、なんだかわけがわからなくなった。

十一

大宮は云った。 「ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云う特別のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にはない。それはどうしても駄目な時は仕方がない。しかし駄目になる処までは進むべきだ。恋があって相手の運命が気になり、相手の運命を自分の運命とむすびつけたくなるのだ。それでこそ家庭と云うものが自然になるのだ。恋を馬鹿にするから、結婚が賤《いや》しくなり、男女の関係が歪《いびつ》になるのだ。本当の恋と云うものを知らない人が多いので、純金を知らないものが、鍍金《めつき》をつかまえるのだ」 野島は大宮の口からこう云う言葉をきくのは彼には大なる力だった。自分は賤しい人間ではない。不正な思いを心に抱いているものではないと思うことが出来たから。 「本当の恋を知らすのも、我等の仕事の一つだね」 「そうさ。美しい女に、不正な男にまよわされるな、あざむかれるな、ころもを着た狼《おおかみ》を用心せよ、そう云ってそれを見やぶる術を教えるのも我等の仕事の一つだ。それは女の運命を狂わさないことになる」 「本当にそうだ」野島は胸がすいたように思った。 「ともかく日本人は恋を軽蔑しすぎている。仲田ではないが、恋する男に娘をやるよりは見ず知らずの男に娘をやることを安心と心得ている。又若い者は女を欲求することと恋とを一つに見ている。女の運命を第一に気にするのが恋で、自分の欲望を満そうと許りするのが肉慾だ。娘を最も清く恋するものに与えるのが親兄弟の務《つとめ》だ。しかし男女の交際があまり許されてないとつい恋してはならないものを恋したり、恋にならない肉慾で女を得ようとするものがある、それは用心すべきだ。僕は結婚と云うものに変に恐怖をもっている。僕の死んだ姉なぞは身体も丈夫な方ではなかったが、あやまった結婚の犠牲になったと云っていいのだ。母がなんでも楽な処に結婚さしたがった。母は姑《しゆうと》と小舅《こじゆうと》にひどい目にあったので、なんでも楽な、一人者で、道楽をしない堅人を選んで姉をやった。姉はそう気がすすんではいなかったのだが、いい人だと云われて、反対する理由もなく、自分でも真面目な人だと思って結婚した。夫は真面目で道楽をしなかった。しかしそのかわり、自家で放蕩《ほうとう》者の味わうような快楽を求めるものだった。姉を妻として愛するのではなく、所謂《いわゆる》猫可愛がりした。性慾の不調和もあった。姉はそれでとうとう肺をわるくして死んでしまったのだ。姉は随分夫のしつっこいのをいやがっていたらしい。だからいくら見かけはよくっても、この道は秘密なだけに随分厄介な問題だ。僕はやはり姉が、自分で心から好きになれた男と結婚さしたかった。そうすれば死なずにすんだかとも思う。死んだにしてもその方だと思い切りがまだいい」大宮はそう云って少し涙ぐんだように見えた。「姉は随分死にたがらなかった。しかし生きていても始まらないような気になって、病気がなおって――病気の間はうち［＃「うち」に傍点］に帰っていた――又夫の家に帰らなければならないと思うと、いつまでも病気していたい気もすると云っていたそうだ」 「随分お気の毒だね」 「ああ、姉のことを思うと、とり返しのつかない、すまない気がするよ。その時分僕は十六だったから何も知らなかった。今の僕なら少しは姉の力にもなれたと思うがね」 「一たい他人の意志で結婚するのはまちがっているね。こないだ僕は往来を歩いてこんなことを考えたよ。自分で人を殺したなら自分で責任を持つ、しかし他人が殺した責任をもたされてはたまらない。結婚でもそうだ。自分で結婚したなら責任をもつ、いくら親でも他人の意志で結婚させられてはたまらないって」

十二

いつでも大宮の処へ行くと彼は胸がすいた。よき友を有することを感謝しないではいられなかった。自分が何しても少なくも大宮だけは理解してくれると思った。彼は仲田とは逢いたくなかった。なんだか冷たいものが彼の心にふれ、彼の心が仲田の心を求めても、常にすかされるように思えた。殊《こと》に、杉子を愛していることを感づいて、予防線をはられているような気がした。しかし彼はゆかないわけにはゆかなかった。

或る日曜、それは晩春だった。もう可なり暑かった。彼は仲田を訪ねる決心で、仲田の家の門の前まで行ったが、気軽に入る気が出ないので、一度通りすぎた。しかし思い切ってあともどりして入った。仲田はいつもになく元気にしていて、彼の来たのを喜んだ。 「暫《しば》らくこなかったね。このまえの日曜に来るかと思った」 「来ようかとも思ったが、なんだか留守のような気がしたので」五分の一位本当のことを云って、云いわけした。 「僕は出不精でいつでも誰か来てくれるといいと思っているのだから。遠慮なく来てくれ給え」 「ありがとう」 彼は仲田にたいするこだわりがなくなった。 「試験は」 「もうせまっては来たが、僕のことだから余裕があるよ。落第したって結婚にさまたげのある他は、別に困らないからね。そして落第したから来ないと云うような奴はこっちからお断りするからね。あはは」 さも可笑しくもなさそうに笑った。野島も可笑しくもないのに笑った。 「昨日妹がつくってくれと云うのでピンポンの台をつくったよ。君も一つやらないか」 「僕は下手だからね」 「下手な点では僕もまけないよ」 「しかし僕は殆んどしたことがないのだ」 「ともかくやって見ないか」 「やって見ようかね」 二人はピンポンをやった。彼はちっとものり気になれなかった。しかしその一種の音が彼は杉子をよびよせはしないかと云う空想に心をひきつけられた。そしてやめようと仲田の云うのを心配する気味だった。 しかしその音は少しも冴《さ》えなかった。二人は珍らしく下手で、音が五つとはつづかなかった。殆んど勝負を眼中におかず、つづけることを目的にしていたが、しかし仲田は云った。 「君は質がいいよ、見かけより」 「あんまりよくもないね。しかし君も見かけよりはうまくないね」 「丁度いい相手だ。妹とやるとすっかり翻弄《ほんろう》されるのだからたまらない」 二人は乗気もなく一時間近くつづけた。しかし杉子は出て来なかった。 「もうやめようか」野島は何度も云おうとしてやめた。しかし彼はますます自分が馬鹿気て来て心がますます空虚になるように思った。 もう思い切ってやめようと思った。その時勝手口の方の戸があいた。そしてまもなく杉子が入って来た。

急に一道の光がさして来た。 あいさつをすませたあとで、仲田は云った。 「今日は早かったね」 「ピンポンがしたくって急いで帰って来ましたの」 「それは丁度いい、野島君は随分うまいのだから」 「そうお？」 「譃《うそ》ですよ。仲田君よりもっと下手なのですよ」 三人は笑った。そして野島は自分でも恥かしくなる程愉快になって来た。 「人間はつくられた通りに心を動かすものだ」と思った。

十三

杉子は彼とは話にならない程上手だった。しかし杉子は彼を翻弄しなかった。むしろ彼をいたわった。彼へは打ちいい球きり返って来なかった。仲田とやるよりは遙《はるか》に音がつづいた。彼の方は時々｜質《たち》のわるい球をうち込もうとした。甘く見られるのがいやで。しかも杉子は感じないようにちゃんとした、すなおな球をよこした。彼は其処に杉子の性質を感じないわけにはゆかなかった。彼はそれを理想的に解釈した。すなおで、親切で、利口で、快活で、不正なことを気がつかない顔して正しくする術《すべ》を心得ている。彼はそう思った。何処にこんなに無垢《むく》な美しい清い、思いやりのある、愛らしい女がいるか。神は自分にこの女を与えようとしているのだ。さもなければあまりに惨酷《ざんこく》だ。彼女は自分をまだ愛してはいまい、だが嫌ってはいない。彼女はよく笑う。その笑いの無邪気さよ。 ピンポンは今迄よりもずっと、賑《にぎや》かにやられた。笑い声はたえまなく、わき上った。杉子の妹まで出て来、遂にお母さんまで見に来た。野島はお母さんに丁寧にお辞儀した。お母さんも笑いをふくんでお辞儀した。

彼は地上でこんな嬉しさを味わえるものとは思えなかった。幸福で幸福で誰かに感謝しなければならなかった。皆に感謝しなければいられなかった。

仲田にも、仲田の母にも、そして杉子を地上に生んだ自然にも。

彼のうちには根づよく巣《すく》っていたはずの陰鬱も、こだわりも、すっかり消え、時のたつのも忘れた。ただ時々、「もう帰らなければなるまい、あまり居て嫌われては困る」と思った。しかし皆がうれしそうにしているのを見ると、彼はもっと居ていい許しを得たように思って、うれしく感謝した。彼はこのよろこびを勿体なく思った。

彼も、いつもになく冗談や洒落《しやれ》を云った。そして皆を笑わし、自分も笑った。杉子とも平気で冗談云えた。そしてそれは彼にとって勿論、よろこびだった。 すべては彼の為に神から送られた喜びの饗宴《きようえん》のように見えた。彼はそれを謙遜《けんそん》な心をもって、しかしわき上るよろこびにすなおに身をまかせて、幸福を感じきっていた。

処へ女中が入って来た。 「早川様がいらっしゃいました」と云った。 「丁度いい、ここにお通ししてくれ」と仲田は云った。彼は戸のすきから風がふき込んで彼の横面《よこづら》にふきあたったような気が一寸《ちよつと》した。しかし彼はそう思う自分を賤《いや》しく思い、平気で早川を迎えようと思った。

早川とは彼は今迄に二三度、仲田の処であった。仲田とは同級生で特待生だと聞いたように覚えていた。その時分はそう聞いても、まるで気にしなかったが、そして逢っても一寸あいさつするだけで殆《ほと》んど一口もきかなかったが。 しかし今は平気になろうと思いながらも、何かを予感しなければならなかった。

仲田は迎いに出かけた。まもなく早川は仲田と何か面白そうに話しながら、笑い顔して入って来た。そして仲田の母に愛想よく親しそうに挨拶した。仲田の母の四十五六のわりには若く見える、肉づきのいい豊かな感じのする顔にはこぼれるような愛想が見えた。

早川は杉子とも挨拶したが、それはよく知っている、しかしお互に無頓着な人同士がするようにあっさりしたものだった。二人は愛してはいない、気にもしていない、存在も認めていないと彼は思った。早川は彼にも馴々《なれなれ》しく挨拶した。彼も少し笑いをふくんで挨拶した。

十四

彼と杉子は丁度ピンポンの勝負をしている所だった。彼は早川に見られる処で勝負をつづけたくなかった。あまりに自分がまずいので。しかしやめるとも云いにくいので、勝負をつづけるより仕方がなかった。しかしもう無邪気なよろこびはなくなった。何処かにこだわりが出来た。しかし杉子が無邪気に笑ったり、思ったよりうまくいって仲田がからかうように賞《ほ》めたりすると、すぐ愉快になれた。早川は笑いながら見ていたが、少しも軽蔑しているらしくはなかった。 「ピンポンがまずいと云うことは恥ずべきことではない」 彼はそんな言い訳をして見たが、うまかったら、今感じているようなひけ目は感ぜずに、気まりのわるい程、腹のうちで得意になりそうな気がした。まずいので反《かえ》って軽薄な根性を露骨に出さずにすむと思ったが、うまかったらこだわらずに、ますます得意になれたような気がして残念な気がした。

彼はまけてしりぞいて、早川がかわった。二人はいい相手だった。杉子は見ちがえる程うまさを見せ、頭も手も機敏に動いて、ぬけ目なく、相手のすきをうかがおうとした。早川もまたまけてはいなかった。彼は見ていて、気持がよかった。そして益々杉子を讃美したいような気になった。そして杉子がうまいことをやるとついほめたくなった。文句ではなく、間投詞で。つい声を出して、あとでキマリ悪く思ったが、誰も、それを気にしているものはなかった。

杉子の顔は血色がよくなり、生々《いきいき》して来、球に従って、身体や手がいろいろの形を見せた。その形が彼をよろこばした。彼は早川のことは忘れて、ただ杉子の生々した姿と、頭のはたらき、手のうごき方、それにともなう身体全体の変化、それを讚嘆して見ていた。

勝負は一勝一｜負《ぱい》で、見ている人は皆、ムキになった。仲田も、杉子の母も、自慢しているように見えた。彼もまた自慢したかった。実際早川よりもやり方が綺麗だった。勝負に重きをおくよりも、練習でもしているように、無邪気にやっていた。

球のくるのを注意深く見ている目の生々さ、うまくいって無邪気によろこぶ時の口のまわり、前にこごみ、手を逆にして打つ時の腕の形、髪毛の前に乱れかかるのをいそがしくなであげる時の手つきと額、彼はそれをむさぼるように見つめていた。自分はどんなことがあっても杉子を失うわけにはゆかない。それはあまり惨酷だ。自分を杉子に逢わした運命よ、お前に責任がある。

彼はそんなことを思って、時のたつのを恐れながら忘れていた。

一時間近く二人は勝負をしていた。 「もうやめたらいいだろう」 仲田はそう云った。 「ノートを持って来たかい」 早川に云った。 「持って来た」 彼はそれを聞いた時、自分が本当に居すぎたことに気がついた。 「ついなが居してしまった」 「もっといたらいいだろう」 「今日は失敬しよう」 「そうかい、それでは又」 彼は仲田の処を辞したあとでも、杉子を讃美しないではいられない気になった。 どうしてこんな女が地上に居るのだろう。そして彼女もあたりまえの女と同じように、齢《とし》をとってゆくのだろう。彼女は他の人とちがう法則のもとに生きていないのが彼にはむしろ不思議に思われた。

彼は真直に家には帰らずに方々歩きまわった。 「彼女は無邪気すぎる。しかし自分を嫌ってはいない」 このことは彼には勿体ないような気がした。

自分は本当に偉くならなければすまない。

彼は帰ってから、日記にこんなことをかいた。 「このよろこびは何処からくる。之を空と云うか、空にしてはあまりに深すぎる。彼女の美しさは何処からくる。之《これ》を空と云うか。それにしてはあまりに美しい。彼女は何処から来た。何の為に来た。彼女の存在を空と云うか。空にしてはあまりに清い。すぎゆく美か。それにしてはあまりに貴い。魔力か、魔力か。それにしてはあまりに強すぎる。愛しないではいられない、失うわけにはゆかない。断じてゆかない。神よ、あわれみ給え。二人の上に幸福を与え給え。神よ、私を彼女に逢わし、かくまでも深く恋させて下さった神よ、彼女を私から奪いはなさりますまいね。それはあまりに惨酷です」

十五

その晩大宮が、野島の処に来た。野島は笑いながら、 「今日ピンポンをしたよ」 「ピンポンを？ どうして」大宮は不思議なこともあればあるものだと云う顔をした。 「仲田の処でさ」 「なあーんだ」大宮は笑った。

野島は杉子のピンポンのうまいことをほめて話した。そして自分がピンポンを馬鹿にしてしなかったことを後悔したと笑った。 「教えてやろうか」 「まだ、あるかい」 「何処か捜せばあるだろう」 「教えてもらおうかな」冗談のように云った。

大宮は一体に運動家だった。テニスもうまかったが、ピンポンは仲間では類がなかった。もう四五年はまるでよしていたが。 「しかし女の為にピンポン迄ならうようになっては少し堕落だね」 野島は云いわけのように云った。 その後野島は大宮の処に行ったが、大宮はピンポンのことはまるで忘れているようだった。野島も云い出す勇気はなかった。野島はその後仲田の処にゆきたく思ったが、仲田も試験で忙がしいと思ったので遠慮した。 しかし杉子には一日逢わないでも気になった。大病をしはしないか、大傷《おおけが》をしはしないか、そんなこと迄気になった。自分を嫌ってはしないか、自分に逢わないので淋しがってはしないか、そんなことを思っても見た。ともかく野島は杉子には往来でもいいから逢わないでは気がおちつけなくなった。しかしあまり逢いにゆくと杉子に手紙をやった男のように思われても困ると思った。偶然逢ったようにしたいと思った。そして逢えばきっと仲田に、 「今日も野島さんに逢ってよ」 と云うにきまっている気がした。それが又あまり気持のいいことではなかった。

逢いにゆくのはよそう。しかし十度に一度は逢いにゆかないわけにはゆかなかった。

初め逢いに行った時にはどうしてか杉子に逢えなかった。学校の門の前までも行って見たが。逢えなかったのは心細かったが、反って安心したような気もした。

二度目に行った時もまた逢えなかった。今度は心配になった。いよいよ杉子は病気なのだ。それも、もしかすると命にかかわる大病かも知れないと思った。それでじっとしていられないので翌日また逢いに行った。

今度は逢えたばかりではなく、杉子はやはり仲間のうちの女王のように彼には輝いて見え、皆は杉子が笑うと一緒に笑い、杉子が黙ると皆も黙るように見えた。そして杉子はますます健康そうに見え、彼を見ると、快活に少しも恥かしがらずに挨拶した。皆も彼の方を見た。彼は女王に挨拶されたように光栄を感じた。彼は紺がすりの着物を着ながしにし、鳥打帽子をかぶっていた。彼は一たいに身なりはかまわない方だった。 この書生っぽに彼女が皆のいる前で平気で、丁寧に挨拶してくれた。このことが彼にはなおうれしかった。 「貴き、貴き、彼女よ。

自分は貴女の夫に値する人間になります。 どうかそれ迄、他の人と結婚をしないで下さい」 彼はそう云って祈りたい気がした。 しかし考えれば考える程、彼は自分に彼女の夫となる資格があるとは思えなかった。しかし、それならば誰が、彼女の夫となる資格を持っているのか。 そんな男は地上にはいない。

彼女はあまりに清すぎ、美しすぎる。

彼はどの男よりも自分が偉《すぐ》れたものを持っていると思える種類の男だった。世間は自分を軽く見るだろう。だが人間の価値を本当に知るものは、そして彼女はそれを知っているにちがいない。

十六

仲田の方が休みになるまで、彼は往来で三度杉子に逢った。最後に逢った時は杉子の挨拶は何時もになく冷淡だった。

彼はあまりに自分が図々しいので杉子もついに怒ったのかも知れない、来なければよかったと思った。又何か杉子に心配ごとがあるのではないかとも思って見た。それとも試験でもしくじったのかと思った。しかしどうも自分があまり度々逢いにゆくので、何か気づいて不愉快を感じたのではないかと思った。それから彼は逢いにゆくのを遠慮した。

気になってなお様子を見にゆきたくも思ったが、その内に休みが来るので遠慮した。仲田は休みになるとまもなく彼の処に来た。 「暫らく来ないのでどうしているのかと思っていた」と云った。

彼はそれを聞いてうれしかった。 「試験の邪魔をするとわるいと思ったので」と彼は云った。 「もう休みになったからいつでも来給え。ピンポンも少しうまくなったよ」 「そうかい。それではもう僕の相手にならなくなったね」 「まあ、来給え。教えてやろう」 「君が先生じゃ心細いね」 「もう早川とやってもそうまけはしないよ」 「そんなにうまくなったのかい」 「試験勉強をして頭がへんになると妹を相手に勉強したのだよ」 彼は少し羨《うらや》ましいような気がしたので話をかえた。 「今度夏休みに何処かへ行くかい」 「やはり、鎌倉の別荘にゆくつもりだ」 「皆でかい」 「父や母は忙がしいからたまにきり来ないだろうがね。よかったら君も泊りがけに来たまえ」 「ありがとう」 「君は泳げるのだろう」 「だめだよ。運動は一さい駄目だ」 「早川は運動はなんでもうまい」 「そうかい。僕の友達の大宮も大した運動家だよ。きっと早川君以上だろう」 「大宮君と云えば大したものになったね。もう一流の作家になったね。君より三つ上で、二十六だろう」 「そうだ」 「それでもう一流とは羨ましいね。妹も大宮君のものは随分愛読している。一番感心していると云ってもいいだろう」 「そうかい」彼は友達のことを賞められるのをよろこびたいと思ったが、心細かった。杉子には自分を一番尊敬してもらいたかった。 「妹の友達に、大宮君の従妹《いとこ》がいるのだそうだが、その人から大宮君のことはよく聞かされるらしいよ。その大宮君の従妹も大宮君崇拝で、面白い人だそうだよ。うちにも時々来るが、顔はそう美しくはないが、中々の気焰《きえん》家でね、男のことなんか糞味噌《くそみそ》に云っているよ。大宮だけは別らしいがね、大宮と云う人は随分頭のしっかりしている人らしいね」 「ああ、随分しっかりしている」 「それにかくものを見てもわかるが、中々思いやりのある人だそうだね」 「ああ」 「それに家に金もあるのだから落ちついて仕事が出来るから鬼に金棒《かなぼう》だね」 「まちがいのない奴だよ」 彼はなんとなく大宮のことをほめたくなかった。しかしそれだけ、なおほめないとわるいような気もした。 「実際日本で一番有望な小説家はなんと云っても大宮だろう。今にきっと世界的な仕事をして、日本の為に気焰をあげてくれるだろう」彼はそう云ったが、何となく口と心が別のような気がした。

十七

